1938年4月:財務人民委員の苦悩
【1938年4月・モスクワ クレムリン】
モスクワのクレムリン、ヨシフ・スターリンの執務室は、重い空気に満たされていた。窓から差し込む午後の光も、室内の緊張感を和らげることはない。質素な木製の机には、分厚い帳簿が広げられ、その数字の羅列が、ソビエト連邦の財政的な苦境を雄弁に物語っていた。スターリンの向かいには、財務人民委員と通商人民委員が厳しい表情で座していた。ドニエプル川の「治水工事」という名目で進められている大事業、そしてそれに付随するT-34の試作・開発には、想像を絶する費用がかかっていた。資材の調達、工場の拡張、技術者や労働者の動員、そして英国からの高価な汎用品の輸入。すべてが、ソビエトの限られた国庫を容赦なく圧迫していたのだ。
財務人民委員は、こめかみに指を当てながら、その重圧に耐えるように言った。
「同志スターリン。これ以上の投資は、五カ年計画の他の重要プロジェクトを圧迫しかねません。特に食料供給計画への影響が懸念されます。」
スターリンは、彼らを鋭い眼差しで見据えた。その視線は、一切の妥協を許さない鋼鉄の意思を宿していた。
「我々に時間がないことは、貴殿らも理解しているはずだ。ドイツの再軍備は目覚ましい。我々は、来るべき嵐に備えねばならん。必要な資金は、いかなる手段を使ってでも捻出せよ。」
通商人民委員が、沈黙を破って口を開いた。
「同志スターリン。一つの案がございます。我々の古い歩兵装備──モシン・ナガン小銃や旧式の機関銃、余剰となった砲弾など──を、海外の友邦に売却することで、一時的な資金を得ることは可能です。特に中国共産党は現在も支援として武器弾薬は送ってはおりますが、日本との抗戦でより多く武器を欲しています。また、スペイン共産派も内戦終結後も武装解除されていない勢力であり、我々の支援を求めております。」
スターリンはゆっくりと頷いた。彼の脳裏には、武器を渇望する「友邦」の姿と、そこから得られる莫大な利益の計算が瞬時に行われた。
「よかろう。だが、価格は足元を見られぬよう、巧妙に交渉せよ。そして、最も重要なのは、その取引が我々の戦略的な意図を悟られぬよう、細心の注意を払うことだ。あくまで『友邦への人道的支援』という体裁を崩すな。」
財務人民委員は、さらに別の提案を続けた。
「承知いたしました。さらに、バクーの余剰石油も、一部を極秘裏に輸出することで、外貨獲得に貢献できるかと。」
スターリンの口元に、微かな笑みが浮かんだ。それは、冷酷な計算と、狡猾な戦略が結実した瞬間にだけ現れる笑みだった。
「うむ。よろしい。その石油も、表向きは『国際的なエネルギー供給への貢献』とでもしておけ。だが、行き先は厳選しろ。そして、決して我々の真の目的──『赤い鉄壁』とT-34──の資金源であるとは悟らせるな。」
彼は煙草の煙をゆっくりと吐き出し、窓の外、クレムリンの夜空を見上げた。その瞳の奥には、来るべき大戦に向けた、ソビエト連邦の国家戦略が静かに、しかし確実に形作られていく光景が映し出されていた。
「金は腐るほどある。問題は、それをいかに効率よく、そして賢く使うかだ。」
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