1938年4月:春の日の不協和音
【1938年4月・モスクワ 赤軍士官学校 教官宿舎】
モスクワの赤軍士官学校、教官宿舎の窓からは、春の柔らかな日差しが差し込んでいた。しかし、その光は、この古い石造りの建物に蔓延る、見えない不穏さを拭い去ることはできない。宿舎の一室で、アナトリー・パブロヴィチ・ヴォルコフ少佐は、古びた地図を広げ、真新しい教科書の山と睨めっこをしていた。彼は、実践的な戦術を重視する、士官学校の中でも特に人気のある教官だった。内戦の経験も豊富で、生徒たちからは「実戦の鬼」と慕われている。
彼の目の前にあるのは、先日配付されたばかりの「赤軍新戦術教範」だ。その内容は、彼のこれまでの教えとは大きく異なるものだった。特に、敵の攻勢を奥深くまで誘い込み、広大な国土を盾にする「戦略的後退」や「深縦深防御」の概念が、強調されている。それは、ヴォルコフがこれまで信じてきた「一歩も退かぬ攻勢」の思想とは真逆のものだった。
彼は、教範の記述を指でなぞりながら、独りごちた。
「馬鹿な……我々の兵士は、臆病者ではない。なぜ、自らの領土を敵にくれてやるなどという教えを、若き士官たちに説かねばならんのだ? 敵を国境で食い止めるこそが、我が赤軍の栄光ではないのか?」
数日前、士官学校の教官会議でも、この新しい教範の内容は激しい議論を呼んだ。一部の老練な教官たちは、ヴォルコフと同様の疑問を呈したが、彼らの声は、新しい教義を盲信するかのような、若き政治委員たちの高揚した声にかき消されていった。「新しい時代には、新しい戦術が必要だ」という声が、会議室に響き渡った。ヴォルコフは、その議論の中で、つい熱くなり、発言してしまった。
「この教範は、まるで我が兵士たちが戦わずして敗れることを前提としているかのようだ! 兵士の士気は、勝利への信念から生まれる。退却を教えることは、彼らの心を弱らせるだけではないか!」
彼の発言は、その場の空気を凍りつかせた。会議室にいた政治委員の一人が、冷たい視線をヴォルコフに向けたのを彼は知っていた。
その夜、宿舎の自室に戻ったヴォルコフは、机の上の教範を再び手に取った。彼は、歴史書や、過去の内戦の記録を引っ張り出し、教範の記述と比較した。そして、確信した。この教範は、これまでの赤軍の精神に反する。いや、国家の精神に反する。
日付が変わろうとする頃、彼の部屋のドアが、ノックもなしに静かに開かれた。
「ヴォルコフ少佐、失礼します。」
現れたのは、見慣れない私服の男たちだった。彼らは、士官学校の職員ではなかった。その顔には、一切の表情がなく、冷たい瞳がヴォルコフを射抜く。男たちは、何の言葉もなく、ただヴォルコフの部屋を見回し、そして彼に手錠を差し出した。
ヴォルコフは、事態を瞬時に悟った。彼の脳裏には、数ヶ月前に「病気療養」と称して姿を消した、海軍のトリブツ中将の噂がよぎった。自分は、彼と同じ運命を辿るのだ。抵抗する術はない。彼は、何も言わず、男たちの前に立った。男たちは、彼の肩を掴み、外へと連れ出した。
消された声、響く機械音
数週間後、ヴォルコフ少佐の部屋は、きれいに片付けられていた。彼の名札はドアから消え、まるで最初から彼がそこに存在しなかったかのように。士官学校の生徒たちの間では、彼の突然の「転属」が噂されたが、誰もその真偽を口にすることはなかった。新しい教官は、新戦術教範の内容を、一切の感情を交えずに生徒たちに教え込んだ。
その頃、モスクワのクレムリンでは、シャポシュニコフがスターリンへの報告を終え、廊下を歩いていた。彼の耳には、遠くで響く機械の音が届いていた。それは、T-34の試作を本格化させる工場、あるいはドニエプル沿岸で、要塞の基礎をさらに深く掘り進める建設現場の音かもしれない。
シャポシュニコフは、静かに目を閉じ、そして再び開いた。彼の顔には、微かな疲労の色が浮かんでいたが、その目は、より一層、冷徹な光を帯びていた。将官たちの「病気」や、教官たちの「転属」という形で消されていく声は、スターリンの戦略を揺るぎないものにするための、必要な犠牲だった。そして、その犠牲の上に、ソビエトは「赤い鉄壁」を築き上げていくのだ。彼自身もまた、生き残るために、そして来るべき戦いに備えるために、感情を押し殺す術を完全に身につけていた。
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