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1938年3月中旬:対英交渉の行方

【1938年3月中旬・ロンドン 駐英ソビエト貿易代表部】


 ロンドンの冷たい春の光が差し込む駐英ソビエト貿易代表部の執務室で、ソ連特命全権大使マイヤーと英国貿易省担当官スミスの間の緊張は、前回よりもいくらか和らいでいた。しかし、その根底には互いの疑念が燻り続けている。今回は、ソ連からの追加発注の交渉に入っていた。


 マイヤー大使は、穏やかな口調で切り出した。

「同志スミス、前回は急なご面会で、我々の治水計画の規模について十分な説明ができませんでした。何しろ、『ウクライナ穀倉地帯水害対策及び灌漑計画』の英訳版が、あの時点ではまだ完成しておりませんでしたので。ご存知の通り、数年前のウクライナでは、我々は悲劇的な飢饉を経験しました。その教訓は深く、二度と繰り返してはならないと、同志スターリンも強く主張されております。」

 彼はそう言って、事前に用意された分厚い資料をスミスの前に滑らせた。


 スミス担当官は、相槌を打ちながらも、内心で計算していた。ウクライナの飢饉は西側諸国にも広く知られていた事実だ。その対策としての大規模な治水計画は、確かに論理が通る。しかし、彼の疑念は晴れない。


「飢饉の件は、我々も承知しております。しかし、それがなぜ、これほどの量の産業用ゴム製品や精密ベアリングを必要とするのでしょうか? 一般的な治水工事であれば、それほど特殊な部品は必要ないと拝察いたしますが。」スミス担当官は、探るような視線をマイヤー大使に向けた。


 マイヤー大使は、渡された「ウクライナ穀倉地帯水害対策及び灌漑計画」と銘打たれた分厚い資料を広げた。そこには、ドニエプル川下流域の広大な穀倉地帯の航空写真と、詳細な灌漑システム、排水ポンプ、そして移動式の大型土木機械の概念図が描かれていた。もちろん、これらはT-34の駆動部をベースにした工兵車両の偽装図だった。精巧に描かれた図面は、治水工事という名目で、戦車の生産に必要な部品を確保するための周到な計画を示唆していた。


 マイヤー大使は、資料を指し示しながら熱弁をふるった。

「ご覧ください。この計画では、大規模なポンプ施設と、広範な灌漑網の構築が不可欠となります。特に、雨季と乾季の急激な変化に対応するため、我々は迅速な移動と展開が可能な、より高性能なポンプ車や掘削機を求めております。そして、それらの機械は、過酷な土壌条件下でも動作しなければならない。ゆえに、貴国の高品質な高圧パッキン、耐久性のあるホース、そして精密なベアリングが不可欠なのです。」


 彼はさらに強調した。

「これにより、ウクライナの農民は安心して労働に励み、ソビエト連邦は食料の安定供給を確保できます。これは、紛れもなく人道的な、そして国家的な要請なのです。」


 スミス担当官は、資料の精巧さに感銘を受けたようだった。確かに、これほど詳細な農業基盤整備計画ならば、大規模な重機が必要となるのも頷ける。加えて、前回提示されたタングステンとマンガンの魅力も大きかった。英国の戦略的利益とソ連の経済的需要が、この複雑な状況で奇妙に一致していた。


 スミス担当官は、少し表情を緩めて尋ねた。

「なるほど。貴国の食料安全保障への取り組みは理解できました。しかし、再度確認させてください。これらの部品は、全て貴国の『治水工事』にのみ使用されるのですね? 軍事転用は一切ないと。」


 マイヤー大使は、まっすぐスミス担当官の目を見つめた。その瞳には、一切の動揺が見られない。

「当然でございます、同志スミス。ソビエト連邦は平和を希求する国家です。これらの資源は、すべて国民の生活と食料供給の安定化のために用いられます。」


 彼は心の中で付け加えた。「そして、それが平和を守るための『準備』でもあると。」

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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