1938年3月初旬:対英交渉
【1938年3月初旬・ロンドン 駐英ソビエト貿易代表部】
ロンドンのどんよりとした空の下、駐英ソビエト貿易代表部の建物は、普段以上に緊張した空気に包まれていた。磨かれたばかりの床板が、来訪者の靴音を妙に響かせる。奥の一室では、ソ連外務人民委員部から派遣された特命全権大使マイヤー(架空の人物)と、英国貿易省の担当官スミスが、重苦しい沈黙の中で書類を広げていた。テーブルの上には、冷めかけた紅茶と、両国の思惑が混じり合うように、湯気を立てるコーヒーカップが置かれていた。
ソ連の要求リストは、一見すると「ドニエプル川の大規模治水工事」に必要な汎用品ばかりだった。高圧に耐えるパッキン、しなやかで耐久性のあるホース、そして精密機械に不可欠なベアリング。どれも軍事転用が可能な戦略物資だったが、その名目はあくまで「公共事業」だ。巧みに偽装された需要が、書類の上に並べられていた。
マイヤー大使は、慎重に言葉を選びながら切り出した。
「ご存知の通り、同志スミス。我々ソビエト連邦は、広大な国土の治水に力を注いでおります。特に、ドニエプル川流域の洪水対策は、国家の優先事項であり、そのためには貴国の優れた工業製品が必要なのです。」
スミス担当官は、細い目でマイヤー大使をじっと見つめた。その視線の奥には、不信と探りを入れるような好奇心が混じっていた。彼はソ連の意図を完全に信じていたわけではない。最近のソ連における重工業の急速な発展と、謎の軍事演習の噂は彼の耳にも届いていた。しかし、英国にも事情があった。1929年の世界恐慌の余波は未だ色濃く、景気が停滞する中、ソ連からのまとまった発注は、文字通り喉から手が出るほど魅力的だったのだ。
スミス担当官は、少し間を置いて、慎重に言葉を選んだ。
「理解できます。しかし、これらの製品は通常、非常に厳格な輸出管理下にあります。特に貴国が求める量と質は……国際情勢が緊迫する中、我々としても安易に応じることはできません。」
マイヤー大使は、懐から別の書類を滑らかに取り出した。それは、ソ連が英国に提供できる「対価」のリストだった。まさに、この交渉の切り札となるものだ。
「もちろん、無償とは申しません。我々は、英国が必要とするタングステン、そしてマンガンの安定供給をお約束できます。特にタングステンは、貴国の特殊鋼産業にとって不可欠な戦略金属かと。」
スミス担当官の眉がわずかに動いた。タングステンは、航空機エンジンの部品や、硬度の高い兵器の製造に欠かせない。ドイツがタングステンを大量に買い漁っているという情報もあり、英国は安定供給源を必死になって求めていたのだ。この提案は、まさに英国の弱点を突くものだった。
「……考慮しましょう。ただし、全て貴国の規格に合わせることはできません。英国製品は全て英国規格(インチ基準)で製造されており、それは変更できません。」
マイヤー大使は、心の中で舌打ちしながらも、表情は変えずに応じた。ソ連の工業製品はメートル法が主流であり、インチ規格の部品は互換性が低い。しかし、この場では譲歩するしかなかった。
「もちろん、それは承知の上です。我々の技術者も、貴国の基準に合わせて調整する所存です。」
スミス担当官は、最後に釘を刺すように言った。
「今日結論を急ぐこともないでしょう。1週間後、再度お越しいただけますか? こちらも提案を吟味し、上層部に報告させていただきましょう。」
交渉は、まだ始まったばかりだった。ロンドンの霧深い街のように、両国の思惑は、まだ深く立ち込めた霧の中に隠されていた。ソ連は、喉から手が出るほど欲しい戦略物資を手に入れるため、英国の経済的弱みと戦略的必要性を巧みに利用しようとしていた。
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