1936年9月:赤い鉄壁~欺瞞の序章~
※舞台はモスクワ、秋。
静かに進行する要塞構想と、表では穏やかに過ぎる首都の日常。
本話では、軍人・技術者たちの個人的な葛藤や不安を描きつつ、「何かが動き出した」空気感を表現しています。
戦記というより政治的緊張と人間描写に注目いただければと思います。
【1936年9月:薄暗い部屋】
スターリンの執務室は、重厚な扉が閉められた後も、鉛のような沈黙が支配していた。冬の薄明かりが壁の肖像画をぼんやりと照らし、床の厚い絨毯が足音を吸い込む。部屋の中央に広げられた巨大な地図に、スターリンの冷たい視線が固定されていた。パイプから吐き出される紫煙がゆっくりと天井へ昇り、彼の内心に渦巻く深淵な猜疑と計算を象徴するかのようだった。
スターリンは、地図から視線を上げることなく、低く、しかし有無を言わせぬ声で呟いた。
「私が考えるに、ドイツは我々にそのうち刃を向けてくるだろう」
その言葉に、部屋にいた誰もが息を呑んだ。重苦しい空気が彼らの呼吸さえも凍り付かせそうだった。スターリンは、それを意に介さずゆっくりと椅子から立ち上がった。手に持ったチョークが、白い粉を微かに舞い上げ、広げられた地図のドニエプル川に太い線を引く。カリカリと硬質な音が部屋に響き渡り、その線は淀みなく北上し、ミンスク、そしてポロツクへと伸びていった。
スターリンの冷徹な視線が、地図上の新たな線に固定される。
「ここから……ここまでだ。ドニエプル川東岸、ミンスク、ポロツクを結ぶ線。ここを土と石と、我々の血と汗で築き上げろ。奴らに見せてやれ、赤い鉄壁を。」
長年の戦略理論研究に裏打ちされた知識を持つボリス・シャポシュニコフは、その壮大で、しかし狂気じみた構想に、まずその実行可能性を探る目を向けた。彼は顎を撫で、慎重な口調で問いかける。
「要塞化は可能です。ですが……それだけでは、守るばかりかと。」
スターリンは、その言葉に小さく、「ほう」と声を発し、口元ににやりと笑みを浮かべた。その笑みは、彼の冷酷さを際立たせるかのようだった。
「その通りだ、ボリス。守ってどうする。逃げ場を作ってどうする。挟み込むのだ。敵がこちらに入ってくるなら、蓋をする。」
スターリンの言葉に、若手ながら機動戦の勉強に熱心なゲオルギー・ジューコフの目が輝いた。実戦経験こそまだ少ないが、その才はすでにスターリンに目をつけられ始めていた。彼は興奮を抑えきれずに、前のめりになる。
「ミンスクとオデッサの装甲軍団が敵の後背を突けば、ワルシャワに包囲の火を灯せます!敵は身動きが取れなくなるでしょう!」
ヴァシリー・ズブツォフは、その言葉に深く頷いた。彼は技術将校として、鉄道と戦車移動のインフラ整備の専門家だった。現実的な視点で、彼はその実現に向けた課題を提示する。
「そのためには、鉄道網と物資集積所を今のうちに構築せねばなりません。数を揃えるには、兵器そのものより生産のための工作機、そして何より、装甲軍団の中核となる次期中戦車の開発が急務です。その基礎となる設計案は既にあります。」
スターリンは満足げに頷いた。
「よかろう。だが、この作戦を知る者は……この部屋にいる者だけだ。」
部屋の隅で、書記役を務める無名の赤い秘書官が、震える手で筆を走らせていた。彼の顔には脂汗が滲み、呼吸は浅い。
スターリンは、書記官に視線を向けた。その瞳は、獲物を射抜くかのように冷徹だ。
「君も分かっているな?」
書記官は、恐怖に引きつった声で答える。
「も、もちろんです、同志スターリン……記録は極秘に……」
スターリンは視線を外さず、冷徹な声で畳みかける。
「記録は要らん。……忘れておけ。忘れるなら、墓で覚えろ。」
部屋には、再び凍てつくような静けさが訪れた。来るべき大戦の予兆と、容赦なき粛清の嵐を孕んだ、重苦しい沈黙だった。
議場の重い空気がまだ残る中、シャポシュニコフとヴァシリー・ズブツォフは、各々が与えられた、あるいは自らが抱いた課題に深く沈思していた。スターリンの冷徹な眼差しはもはや彼らに向けられていないが、その言葉の重みが、二人の将校の思考を支配していた。部屋の隅々には、使い古されたパイプの残り香が微かに漂い、それが会議の緊迫感をかろうじて物語っていた。
シャポシュニコフは、その重い空気を吸い込みながら、頭の中で膨大な計算を始めていた。彼の表情には、戦略家としての深い洞察と、途方もない現実の壁に直面した戸惑いが入り混じっていた。
「まさか、同志スターリン閣下が、これほど大胆な要塞構想をお持ちとは……」
彼は内心で呟いた。ドニエプル川東岸からミンスク、そしてポロツクを結ぶ線――それは想像を絶する規模の工事になるだろう。単なる防御線を引くのではなく、国家の資源を根底から揺るがすほどの、まさに「赤い鉄壁」を築く計画だ。
「しかし、線といっても、すべてを分厚い壁にするわけではない。これは、防御拠点と連携を可能にする連絡網で結ばれた一連の要塞群だ。これを実行するには、膨大な労働力が必要となる。数百万の人間を動員し、広大な国土を縦横に走る鉄道網を抜本的に強化せねばならない。そして要塞線そのものも、主要な中隊拠点を半永久陣地とし、土塁や丸太、石材を最大限に活用することになるだろう。無線と単線有線通信の併用で、通信網を確保し、部隊の連携を密にする。それを守る部隊の編成、そして何よりも、膨大な人員を効率的に動かすための官僚組織との連携と、複雑な利権が絡む各人民委員部との巧妙な根回しが必要になる。既存の五カ年計画と衝突しないよう、細心の注意を払わなければ、国内の経済基盤さえ揺るがしかねない……」
彼の脳裏には、数え切れないほどのロジスティックな課題が、巨大な迷路のように浮かび上がっては消えていった。しかし、その顔には、困難であればあるほど燃え上がる、老練な戦略家の炎が静かに宿っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
『赤い鉄壁 スターリン要塞で迎え撃て』は、架空の戦記を通して歴史の分岐点を描く物語です。
軍事・政治・技術が交錯する世界に、少しでも興味を持っていただけたら嬉しいです。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。