ただ今草刈り中
これでいい――。暑くなる前の初夏午前八時、還暦を過ぎてますます白髪頭になった純三は、道路を走る車から見えやすいように、ガードレールの柱にくくりつけた自作の看板を、満足げに見詰める。その看板にはこうある。
ご通行の皆様へ
いま老人が一人だけで道路の草刈りをしております。
人手が足らず、切りっぱなしで草が散乱し、見苦しい限りです。
そこでご通行の皆様の厚情におすがりし、掃除のお手伝いをお願いする次第です。
ご協力頂いた方には、気持ちばかりですが謝礼を用意しています。
よろしくお願いします。
看板の下には、竹箒や熊手、唐箕、手ノコギリ、植木用のハサミを置いた。鎌も置こうかと思ったが、ケガをされても困るので止めておいた。草刈りの距離は四キロくらいか。午前でも今日は晴天で炎天下の中だが、一人で行わなければならない。
地区の草刈りだから、一人で行う必要はない。ところがこんな事情がある。
純三の若い頃は、十軒以上この地区にも人は住んでいた。それが高齢化や過疎化で段々減っていき、ここ数年は、もう一人の田中という老人と行っていた。
その田中が、今年の冬に腰を痛めてしまい、長年一人で住んでいた家を離れ、街場で暮らす息子の太一と同居するようになった。その時、純三はこれから地区の草刈りを一人でするのかと思った。いや、そうじゃないだろと思い直す。それには草刈りの休憩中、田中とのこんなやりとりがあったのだ。
「このまんまでいくと、ここの草刈りは誰がやるんだやぁ。おらあちだって、いつ迄できるだか」純三がペットボトルのお茶を一口飲んで、田中を見る。
「なるようにしかならないわな。まっ、無理することはないさ。それに俺が出来なくなったら、太一に来て貰って刈るようにするから心配するな」
「そうかえ悪いなエ。うちは娘が遠くにいるし、女房はうちから逃げて援
軍がない。俺で終わりだな」
その時、一台の車が通り過ぎた。
「なあ、あの車の人に草刈り手伝って貰えなかなあ」田中が車を目で追いながら言う。
「田中さんはおもしれえ事いうなあ」純三がちょっと笑う。
「看板でも立ててさ。お願いするんだ。どうだ」
「おもしれえ。試してみろや」
そんな会話をしつつやっとこさ草刈りを終える。終わると疲れが出て、あとその日は寝ているしかない。
こういう状況は他の地区にもあって、行政との懇談会もあったはずだが、草刈り機の燃料と回転刃を支給してくれたのみだ。ガソリンや使い捨ての刃はありがたい。
だがこっちが欲しいのは、一緒に作業してくれる仲間なのだ。純三は、物資は提供するけど、人は出さないという行政の対応を考えると、世の中の世知辛さを感じるのだ。
こんな看板を立てたって、通行人が草刈りの手伝いをしてくれるなんて、純三だって思ってはいない。だが他に頼れるあてもないと、試してみるしかないのだ。
純三は、頭でブツブツ言いながら、草刈り機のスタートの紐を何度か引っ張り、エンジンをかける。
エンジンの音を聞きながら、アクセルのレバーを上げる。草を切れる音をしだしたなと思い、回転刃を草の中へ突っ込む。回転刃を新しくたせいもあり、軽快な音を立てて草が切れていく。
気分良く腰を振りながら、草刈り機を動かしていると急にクワァーンと音がして、回転刃が跳ね返される。そこを見ると、やはりアルミの飲料缶があり大きく穴が開いている。
大勢で作業をしていた頃は、空き缶、空き瓶、ペットボトル、その他のゴミを袋に詰め集めていたが、一人で作業している今は、そんな余裕はない。
純三は、アルミ缶に気づかぬふりをして草刈り機を動かし続ける。すると液体が残っていて、キャップを閉めてあるペットボトルが出てきた。興味を持ち草を刈る手を止めペットボトルを手に取ると、グロテスクな茶色く澱んだ液体が溜まっている。
何かなとは思ったものの、純三は、キャップを開けず山の奥へペットボルを投げる。
飲料を飲み終えて空いた容器を、車から投げ捨ててしまう気持ちは理解できる。だが、飲みかけやタバコの吸い殻を詰め込んだペットボトルを、しっかりキャップを閉め捨てていく行為は、止めて欲しいと思うのだ。こんな得体の知れない物は、人出があったって見て見ぬふりをする。
当然、ペットボトルを道路に捨てるなんて止めて欲しいが、もし捨てる時には本体とキャップは別にして、道路から離れた場所に投げろと思うのだ。
純三が草を刈っていると、肩を触れてくる物がある。そっちを振り返ると、笑顔の若い男が立っている。その後ろには車があり、中にはスカーフを羽織った若そうな女がいる。
「おじさん、ここら辺で自販機かコンビニとかないかな」男がニヤニヤしながら言う。
「はア。アンタねえ草刈りを動かしてる人の、身体をいきなり触るんじゃない。エンジンの音がうるさくて普通に話しかけられても分からないんだ。だから不意に触られて無意識の反応で、そっちを向いて草刈り機で切られても知らねえぞ」
「そうなんだ。ねえ、俺たちなんか飲みのを売ってる所知りたいんだけど、この近くにないかな」
男は、純三の顔をのぞき込む。スカーフを羽織った女は二人を見ている。
純三は、この近くに飲み物の自販機はないし、売っている店は、学校のある地区の中心にしかない。昔は雑貨屋がこの近くにもあったが、閉店して二十年以上になるな、と思いつつ、
「この近くには自販機も店もねえぞ。こっちまで来る途中で買ってくれば良かったのに」
「それが景色が良くて気分良く運転してたら、ここまで来ちゃった。なあ」そう言い、男は車の女を見た。
「そう、ここら辺って景色綺麗だし空気も美味しいから、住む人はハッピーだよね」派手なピンクスカーフを羽織った膝上スカート女が、変に笑いながら車を降りて近づいてくる。
純三は、住民がハッピーなら、なんで過疎が進むのか聞きたかったが、そんな声は出さずにいると、
「おじさん、どっかにジュースかお茶とか売ってないかな」女が言う。
「喉、カラカラ渇いちゃって。教えてください」
純三は、二人の様子を見ていると、草刈りを手伝ってくれた人へあげるために、用意しておいたお茶を思い出した。
「お茶で良いならあるよ」
えっ、あるんですか、ありがとうございます。と言いつつ、二人はニヤニヤしながら何度か頭を下げる。
純三は、軽トラに置いてあるクーラーボックスからペットボトルのお茶を取り出し、男に差し出す。
「ありがとうございます。あの、いくらですか」男が財布を手にして言う。
それは手伝ってくれた方へのお礼として用意したお茶で、有名なブランド品だから一本百五十円した。でももし値引きしてやれば、二人が引け目を感じ草刈りを手伝ってくれるんじゃないか、そんな姑息な思いが純三の白髪頭に浮かんで、
「二百円で良いや。一本百円だった」
「そうですか。ありがとうございます」男は百円玉を二枚、純三に手渡す。
「ねえ、おじさん。あの看板なあに。ここ通りかかった人に、草刈り手伝ってくれって事なの」スカーフ女が、一口茶を飲んで下品な笑いを見せる。
「そうだよ」
「マジ!。ウケるよ」女はケラケラ笑い出す。
「あのぅ、誰も手伝ってくれる暇な人は、いないと思いますよ。下手すりゃ、掃除道具を盗まれるだけじゃないですか」
「そうかもな。でもそういう人達に頼るしかないんだ」
純三は、お茶を安く提供したのを後悔したが、今さら百円くれと言う勇気はなかった。
「ねえ、行こうよ。飲み物もゲットできたし」
「うん。ありがとうございました」男は軽く頭を下げた。二人が乗ったゴツい車は軽快に走り去った。
純三は、無言で車を見送った。
何で俺はこんな事をしているんだと思いつつ、純三は草刈り機を動かす。自分が情けなるのを無視して、時たま隠れている石や缶、ガラス瓶に回転刃が跳ね返されるが、お構いなしで草を切り続けていく。
ある所まで来ると、純三はちょっと手を休め、草だらけの場所を見る。
そこは歩道の入り口で、子供だった頃は学校への通学路だったなあと思う。純三が子供の時には土の小道だったが、何年かしてコンクリートで舗装された。それから数年経った今では草だらけで、ここに舗装された歩道があるなんて、地元の人間にしか分からないだろうと思った。もっとも今は地元民だってそこは通らないし、草を刈る手間もない。
純三は、胸にわいてくる様々な思いを押し殺しながら、草刈り機を動かし続ける。
声が聞こえた気がして、顔を上げると若い女らしき人が通り過ぎていくのが見えた。その娘はジーンズをはき、筋肉質の尻がリズミカルに動いている。そしてジーンズだけでなく腰の辺りにもバカをつけている。バカというのは草の種のここら辺の言い方で、それに細かいトゲがあって衣類に付くのだ。
純三はジジイだが、締まった尻を触ってみたい気もした。だがバカを付けて、暢気に山を歩いている馬鹿者を相手にするほど、こっちは暇じゃないと草刈り機を動かし続ける。
しばらくして、誰かに呼ばれた気がして、顔を上げると、田中の息子の太一が笑顔で立っている。
「おじさん、暑いのに大変だね。無理しないでよ」
「おう。親父さんどうだい。元気か」
「なんとかやってるよ。じゃ、俺、うちに行くから」
太一は、軽く手を上げ車に乗って行った。純三は、今日の草刈りを、田中に知らせていて良かったと思った。これで太一が草刈り機をうちに取りに行って、手伝ってくれるはずだと安堵する。
だいぶ刈ったし、太一が来るんでそれまで一休みするかと、看板のある軽トラまで戻ると、道路が綺麗になっているのに気づいた。明らかに誰かが散らばった草を掃除してくれたのだ。
純三は、誰だろうと思った。すると尻にバカを付けて歩いて行った娘に
ちがいないとピンときた。
彼は、とっさに軽トラに乗り娘を追いかける。程なく娘を見つけ軽トラの中から、
「もしかして、お嬢さんが草刈りの掃除をしてくれたのかな」
「えっ、ええ」娘は、驚いたように純三を見る。
彼は、軽トラから降り、これどうぞとペットボトルを差し出す。
「えっ、大丈夫です」
「そう言わないで。お礼の気持ちだから」
「私、これあるから。飲む物あるんです」と言いつつ、娘は大きい水筒をリックから出してみせる。
「それじゃあ、俺の気が済まない」
純三は、ペットボトルを娘に押しつける。
「そうですか。じゃせっかくですから、ありがとうございます」娘は、ペ
ットボトルを受け取りリックに詰め込む。
「歩いているんだ」
「はい」
「どっから来たの」
「はい?。街の方からです」
「ありがとね。大変でしたでしょ」
「看板見て、おじさん頑張っていたから、ちょっとだけお手伝いしただけです」
「あっ、そうだ」純三は、娘の後ろに回ってみた。まだバカがジーンズにいくつも付いている。
「バカ、――じゃない。花の種が尻に付いている」
彼は、種を取ろうとして手を娘の尻に近づけると、
「えっ」彼女は、尻を手から逃げるように遠ざける。
「えっ。種が付いているから取るだけだよ」
純三は、娘の顔を見た。娘はちょっときつい目を向ける。
「大丈夫です。自分で取ります」と手早くバカを取った。
娘が種を取っている横を一台の車が通っていった。純三がそっちを見ると、太一が乗っていた車だった。
「掃除して時間かかったでしょ。遅れた分を車で送っていくよ」
「平気です。私、歩きたいんです」
「そうかい。じゃ気をつけていってね」純三は、軽く手を振り、娘と軽トラでドライブできず、つまらない気分の自分に、余計なこと想うなと言いながら、歩いて行った娘をしばらく見詰めていた。
純三は軽トラに乗り、さっき太一が通っていったから、今頃は彼が草刈り機を、動かし始めているにちがいないと笑顔になった。
ところが草を刈っている現場に戻ってみると、太一の姿は見えなかった。彼の車もなかった。草刈り機のエンジン音は全く聞こえなかった。
純三は、当てが外れちょっと田中親子を恨む気持ちが起こったが、誰だって同じかなと思った。みんなここに住んでいる時は、まじめに草刈りをするが、責任がなくなると、すらっと惚けて人任せで済ませる。
純三は、疲れたなあと思いつつ辺りを見渡す。そこは今となっては雑草や雑木だらけだ。かつて多くの人が田んぼや畑を盛んに作っていたなんて言っても、想像つかないだろうと思った。
荒廃した山野を眺めながら、人の心だって同じかなと純三は想う。昔は普通じゃ理解できない通り魔事件なんてなかった。でも今では珍しくない。こんな田舎町でも起きてしまった。これって人間の気持ちが荒廃したせいじゃないか。そう想いながら軽く肩をもむ。
だいぶ疲れてきたし、昼近くなり暑さが厳しくなってきた。純三は、しかしここの草刈りはやる人間がいないのだから、俺がやるしかないんだ、そう想い暑さで意識がもうろうとなりつつも草刈り機を動かし続ける。
ややあって、誰かに呼ばれた気がして顔を上げると、さっきペットボトルのお茶を分けてやった、若いカップルの男が、空のペットボトルを振りながら立っている。
ピンクスカーフ女が、タバコをくわえながらペットボトルを持って立って見ている。
「今度は何だエ」純三は、草刈り機を止めながら言う。
「すみません。ここら辺にペット入れられるゴミ箱ないですかね」男はニヤつく。
純三は、飲み物を売っていないんだから、ここには空き缶とかペットを、入れるゴミ箱があるはずないだろう。そんな事も分からない、こいつらの頭の中はゴミが詰まっているに違いないと思った。
「ねえよ」
「困ったな。僕、車の中にゴミ置いとくの嫌なんですよ」
「へっ」そんなこと、俺の知ったことかと純三は思ったが、この近所に空ペットを捨てられても困るので、
「俺によこしな。捨ててやるよ」
「ありがとうございます」男は、空ペットを純三に渡した。それを見ていた女が、じゃこれもと言い、吸っていたタバコを入れ、いくらかお茶が残っているペットボトルをしっかりキャップを閉めて、手渡そうとするそうとする。
純三は、それを見詰めているが、受け取ろうとはしない。ちょっとして、
「―――だよね。空ならいいけど、吸い殻の入れたお茶が残っているペットは勘弁だよね」
若い女は、道のちょっと奥にペットを投げ入れた。純三は、草刈り機でこいつを切ってやろうかと思ったが、当然、そんなことはせず突っ立っていると、
「そういえば、さっき庭に小さいブランコがある可愛い家を見つけたんだけど、そういうの使う子供がいる家族が、ここに住んでいるのかな」と若い女。
純三は、はて、と一瞬考えたが、そう言えば隣の地区に若い家族が越してきたと、聞いた覚えがあるなと思った。
「そうみたいだね。隣の地区だけど」
「私、こういうのんびりした所で、子供育てるのも良いかと思うんだよね」
「そうかい」
「そろそろ行こう。ランチの予約の時間だよ」若い男が
スカーフ女の腰に手を回す。
「そうだね。行こっか。おじさん、ありがとね」
スカーフ女は軽く手を振り、男と車に乗った。。
走り去る車を目で追いながら、純三は、マナーはなってないが、こういう田舎に住んでみたいという、あの娘も案外いい人なのかと思ったりもする。
暑いなあと感じ、携帯で時刻を確認すると、そろそろお昼に近い。
純三は、まだ半分も草刈りは済んでないが、どっちみち俺がやるしかないんだから、今日はここまでにしようと、片付けて看板の下に並べておいた道具を、軽トラに積んだ。
そして、ガードレールに縛っておいた看板をしばらく無言で見て割と面白いなと思い、へへへっと笑い、軽トラに積む。
純三は、車に乗ると汗をふきながら、家の冷蔵庫に冷やしてあるビールを思い出し、自然と唾を飲み込んだ。