21時45分発、新千歳⇒羽田
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ハルくんと知り合ったきっかけは、なんとも生々しい、出会い系サイトだった。おたがいに気が合いそうだと知ると、LINEやメールでのやりとりを始めるようになった。最初から親しくなれる、あるいは通じ合えるという確信めいた予感があった。私はアラフォーでハルくんは社会人三年目――二十五になったばかりなのに、おしゃべりを続けても、不思議と話題には事欠かなかった。
もちろん、こんな関係、誰にも話せない。どこからどう見たって不倫だからだ。異性を求めるのには理由がある。夫からのDVがキツくて、そのせいで傷んでしまった心を癒してほしかったのだ。それは男性にしかできない役割だ。男性に負わされた傷は男性でなければ癒やせない。女性としての本能が私自身にそう訴えかけた。だからこそ、心を許せるハルくんのことがとても愛おしい。子どもっぽく言えば、私はハルくんのことが大好きだ――なんて考えるものだから、私は自分自身の愚かさと単純さに、ときどき呆れたくなる。
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ハルくんに恋人はいない。絵に描いたような二枚目ですらりと背が高く、おまけに性格にもなんら問題はないことから、絶対にモテるはずで、だから出会い系サイトなどという怪しげで不毛な遊び場に踏み入る必要なんてまるでない。なのにどうして――と考えるのだけれど、あまり踏み込まないようにしている。「こんなおばさんでもいいの?」、「セックスに身を委ねられるほどの覚悟はないのよ?」としっかり伝えても、「あなたがいいです」と言う。私はことのほか愛に飢えているのだと感じた。いけないことだとわかっていても、彼にどんどん惹かれていくのだから。その思い、想いたるや天井知らずで、どこまで好きになってしまうのかわからなくて、だから自分自身の気持ちがどう帰結するのか、少なからず怖くもあった。
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私の住まいは札幌市内で、ハルくんは東京で勤めている。週末に会おうという話にはならない。夫がいるからだ。夫は私の行動を厳しく制限している。妥当性のあるなんらかの理由がないと外出を許してくれない。私への興味なんてとうのむかしに尽き果てているに違いないのに、縛りつけようとする。あるいはストレス解消のDV――その対象がいなくなってしまっては不自由になると考えているのかもしれない。問題を解決するのは簡単だ。私が逃げてしまえばいい。なのに、それができない。なぜだろう。いまの生活を崩してしまうことには、小さくない抵抗を覚えてしまう。その要因がよくわからない。夫に対する愛情は、まだ枯渇してはいないということだろうか……。
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私とハルくんが会うのは、すなわち月に一回、しかも平日だ。友人と夕食に出かけるのだと言えば、遅くならないことを条件に、夫は解放してくれる。一か月に一度の頻度だから、それくらいならと認めてくれるのだ。
その一日のために、ハルくんは有休を行使してくれる。夜の二時間、三時間くらいのために、わざわざ東京から足を運んでくれる。申し訳なくて、私はたびたび謝罪する。「ぼくが来たくて来ているんですから」と言って、ハルくんは笑う。自分を必要としてくれる男性がいる。その事実が私をどれだけ勇気づけてくれるのか、それはどうしたって言葉に還元しようもない。
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決して身体を求めてこないハルくんに、「それはどうして?」と訊ねたことがある。ハルくんは「心で繋がりたいんです」と答えた。プラトニックな恋を求める人間にありがちな一節だと思った。要するに、型にはまったセリフでしかないということだ。だけど、それは間違いなく、私の深くに刺さった。私の胸を鷲掴みにした。素直な言い方だったからこそ、私の胸深くににぐっとくるものがあったのだ。
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ハルくんは「いまの状況から、あなたを助け出したいです」と殊勝なことを言ってくれた。私はかぶりを振った。彼は合点がいかない表情で「どうしてですか?」と訊ねてきた。「わからないの」と答えて、私はぐすぐすと鼻を鳴らした。夫の暴力はエスカレートしつつある。見限ってやればいいのに、見捨ててやればいいのに、結婚したばかりのころの思い出が頭をよぎる。ああ、そうだ。なんだかんだ言っても、私は期待しているのだ。元の優しい夫に戻ってくれることを、心のどこかで願っているのだ。そう考えると、またつらくなった。にっちもさっちもいかない事実だけが首をもたげてきた。ほんとうに、どうしたらいいのだろう。解答がわからないまま、私はハルくんとの関係を続けていく。
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ハルくんとの出会いから半年。東京の名所では、ソメイヨシノが咲き乱れているという。そんなニュースがテレビで晴れやかに放送される中、私は夫におなかを蹴られていた。果てなく襲い来る暴力と痛みの中、私は「どうして? どうして?」と問いかけ続けた。夫はなにも答えず、そのうち私の上に馬乗りになって、無言で顔面を殴りつけてきた。もはやどんな弁解をされても、許す気にはなれない。なのにどうしてだろう。ほんとうに、こんなことを思ってしまうなんておかしなことでしかないのだろうけれど、私には夫がとても哀れであるように思えて。
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顔の腫れは引いたけれど、おなかの鈍痛は抱えたまま、札幌駅の地下街にある喫茶店で、いつもどおり、ハルくんと会った。ハルくんは今夜も「かわいそう」とでも言いたげな表情を見せる。「ぼくになにかできますか?」、「ぼくはあなたのためになにかしたいです」と救いの手を差し伸べてくれる。私は「なにもないわ」と平べったい口調で答えた。「そのうち、きっと殺されてしまいますよ」という言葉にも、「それでもいいって言う私がいるの」と正直に応えた。
「あなたを失いたくない。この広い世界で、奇跡的に出会うことができたんですから」
「ハルくんはまだ若いじゃない。おばさんにかまう必要なんてないのよ?」
「そういう言い方はやめてください」
「だけど……」
「いまあるすべてを捨ててください。ぼくのために」
なんて自己中心的で、なんて力強い言葉を吐く青年なのだろう。私の両の目尻からは涙が伝う。ぐしゃぐしゃになりつつある泣き顔を晒すのが嫌で嫌で、俯き、両手で顔を覆った。
「行きましょう。ぼくのマンションからはライトアップされたスカイツリーがよく見えるんです。きれいですよ」
ハルくんの物言いは積極的なものに聞こえて、だから私は顔を上げた。
「ぼくはあなたを誰にも渡しませんから」
彼は静かに穏やかに微笑んでいる――微笑んでいた。
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空港方面の快速エアポートに乗るなんて、何年ぶりだろう。友人との旅行なんて許されるわけもなく、夫がどこかに連れ出してくれるはずもなく、だから私は家事をこなすだけの機械のようなものだ。いまになってみると、それが悔しい。悔しくないわけがない。なにが原因で、どこが分水嶺だったのだろう。夫との関係を失敗したこと、その根本的な理由がいまいちわからないものだから、私は安直な回答を欲した。夫以外に好きになれるひとを望んだ。望んだとおりにはなった。けれど、なにも解決していない。特段の言い訳もなしに暴力を振るわれる。その事実の前にはどんなファクターも無力に等しかった。最もつらいことに効くような処方箋は得られないままなのだ。
なんとはなしに、車窓のほうを向く。決して美しいとは言えない私の顔が、闇夜を背景に映し出される。もう少し美人だったら、私は私に自信を持つことができたのだろうか。ううん、いまはそんなこと、どうだっていい。どうだっていいから、どうだっていい。帰ったらまた、夫に殴られるのだろう。そう考えるとしょんぼりしたくもなるけれど、結局のところ、止むを得ないことだと諦観するしかない。大人になればなるほど、諦めることが多くなる。それは見当違いのことではなく、真理なのだと思う。
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新千歳空港に到着した。エスカレーターで上階へと進み、ハルくんはカウンターへと向かった。搭乗手続きを終えたのだろう、踵を返して私のところへと戻ってきた。ベンチに座っている私に、チケットを一枚、差し出してきた。私は「えっ」と驚くと、まもなくして「ダメよ。受け取れない」と首を横に振った。
「美紀さん、立ってください」
「なにをしようというの?」
「いいから」
「わけがわからないわ」
「立ってください。怒りますよ?」
叱りつけるような口調に気圧され、腰を上げる。
そしたら、抱き寄せられた。
男のひとの強い力で、抱き締められた。
戸惑った。
手を繋いだことすらないのに、いきなり……?
「ぼくはあなたとずっと一緒にいたいだけです。そこになにか問題が?」
「私もそうしたい。そうありたいけれど……」
「あとの処理はぼくがします。あなたは身体一つで来てくれればいいんです」
「そう言われても、すぐに決められるはずはないじゃない」
ハルくんはようやく離れてくれた。
でも、その目は「もう離さない」と謳っている。
「誰より大切にしますから」
ハルくんは当たり前のようにそう言った。
笑ってみせた。
私が大好きな笑顔だ。
私の胸にいよいよチケットを押しつけ、ハルくんは身を翻す。
背中が「ついてこい」と声高に叫んでいる。
私はチケットに目を落とす。
21時45分発――羽田行きの最終便。
セキュリティチェックを終えたハルくんが、こちらを向いて大きく右手を振っている。早くおいで。そんなふうなアクション。なんでもできそうに思えたわけではない。どうにでもなれと投げやりになったわけでもない。彼とどこまで行けるのか、それを試してみたくなった。だから、私は駆けた。短い距離なのに息を切らせて、ゲートをくぐった。一緒にいたい。ほんとうに、その気持ちだけだった。
ハルくんと春から始める恋。
うまくいくかはわからないけれど、大切にしたい、恋。
きっと一生、忘れられなくなる、恋。
私は幸せになりたい。
そう思うことすら罪だとするなら、私はもう、生きてはいられない。