神宮綺譚
居眠りをしたのがいけなかったのかもしれない。
地下鉄名城線の西側を、少々混み合った列車がごろごろと南下して行って、ようやく金山に着く。ここでかなりの乗客が下車する。車内に空間的余裕ができ、空いた座席も随分と現れる。やれやれだ。己は最寄りの空席に腰を下ろす。車両の扉は暫くは開いたまま、せわしないホームの様子を開いた扉越しに見物する、他人事のように。事実、他人事なんだが。その喧噪はホームでのみ繰り広げられ、こちらの列車内は静かなものだ。程良い混み具合、座っている人はゆったりとしており、立っている人はのびのびとしている。ああ、結構だ、と目をつむったのがそもそもの間違いだったのかもしれない。
己は目を閉じ、モーターエンジンの微かな振動に身をゆだねながらそのままうとうととした。今日は金曜日だ。一週間の疲れがたまっているときだ。列車内は静かで落ち着いている。列車外の駅のホームは、栄方面行き列車の発車を知らせるけたたましい警報音とそれに続く重々しい車輪音、あれこれの注意やお願いといった構内放送、多くの乗客達の靴音、話し声、衣擦れの音、それらが開いた扉から小さな雑音、集く音となって流れこんで来る。そうして己の耳にも、微かに、控え目に、非力な様子で届くわけだ。が、これは全然不愉快ではない。元々は迷惑な音なのかもしれないが、地下鉄駅構内で響いて、こだまして、そこいらへんにぶつかってはね返って、ちくちくした角がとれ、丸くなってこの車両の開いた扉から入り込んで来る、だからその頃にはもうこれらの音は、小さな慎み深いいたいけな音の集まりへと変じ、己の耳に届く時には何とも言いようのない、心地良い、耳ざわりの良い環境音楽へと変貌を遂げているわけなのである。
そのうちに、こちらの列車の発車時間がやってくる。じりじりじりと警報音が響き、駆け込み乗車は控えるようにとの構内放送が連呼され、直にシューという電車の鼻息の様な音とともに扉が閉じられる。それからモーターの震動が大きくなってきたな、と思うとガタンと一揺れ、さあ出発だ、ガタン、ガタン、ガタンとその音が次第に速くなって行き、列車の速度もそれに比例する。
車両の中は、停車中より静かであるように感じられる。扉が閉まっているから、というのは勿論だが、理由はその他にもある。実際、車両の外がうるさすぎるのだ。なにしろ地下のトンネル内を何十トンもの車体が、しかも四つも五つも連結された奴が、鉄の線路の上を、時速五六十キロで走って行くのだから、その騒々しさたるや並大抵ではなかろう。その大いなる騒音を遮蔽するため、この車両の構造には優れた技術が用いられているに相違ない。そのためますます車体外部の高密度かつ高圧力の流動する空気がこの車両を外側からぎゅうっと圧迫し、その結果、車両内部は外部からの圧力故に空気圧力が高まって、音の響きが制限されることとなり、妙に静かな空間が現出する、というわけなのだ―――これは、しかし、その時己の頭の中でとりとめもなく現れては消えて行った想念の連なりであり、もしかしたら、このような面妖な推理はすでに夢の世界での思考であったのかもしれない。
そう、己は地下鉄が金山を出発してから間もなく深い眠りに落ちてしまったようなのだ。速度が安定し、規則正しくなった列車の走行音と車体の震動、車内は存外静かで窓の向こうは闇の中、荷物置き棚付近の幾本もの吊り輪はちょっと変わった拍子をとりながら、それでもみな整然と仲良く同じ様に揺れている、催眠術師の振り子のようだ、これでは、さあ、お眠りなさいと言わんばかり、しかも繰り返しになるが今日は金曜日、これまでの四日間、『仕事』と称される苦行でもって心身をすり減らしてきた哀れな己に、これでは居眠りをするなと言う方が無理な要求なのではなかろうか。
で、当然の如く己は目を閉じ、暫くの間うつらうつらとし、それから間もなくすとんと熟睡状態に陥ってしまったものと思われる。何しろ、金山の次に停車するはずの、西高蔵という名の入った車内放送に気付かぬくらいだったのだから。己の降りるべき駅は神宮西だ。畏れ多くも熱田神宮の北の端、時間にして金山からおよそ四五分のところである。
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すっかり眠り込んでしまっていた己の耳に、突然扉の開閉音と『神宮西』と到着駅名を告げる車内放送が響いた、ように感じられた。己はいきなり覚醒し、目を見開くと座席から跳び上がり、開いている車両の乗降口方向へと跳びはねた。そして、今まさに閉じようとしている扉のすき間に、体を横向きにしてすり抜けようとした時、己の体がその扉にとん、と当たったように感じられたが、それともそれはあるいは錯覚だったのか、実のところよく分からない。上手いことすり抜けたようにも思われるし、扉にぶつかってはね飛ばされたようにも思われるし、そこいらあたりがどうもよく分からない。確かなことは、そのまま、ととと、と小走りに進み、目の前に現れた駅ホーム内のベンチ、若しくは列車内の座席に思わず腰を下ろしてしまった、ということだけ。確かなことは、と言いながら少しも確かではないのだが、少なくとも己が再びどこかの椅子と思しきものに座った、ということだけは確かだった。
己は席に腰をかけたまま目を上げた。金山を発車した後、ほとんど熟睡していていきなり覚醒し、飛び起きて駆け出したものだから、どうも意識がはっきりしない。そのぼんやりした意識のまま、目を上げた。
何事だろうか。何かおかしい。目の前の世界は、―――おかしかった。二つの世界が重なり合っているようだった。世界が二重にずれていた。いや、ずれていたのではない。やはり二つの別々の世界が混ざり合っていた。一つはどうやら駅構内の風景、もう一つは列車内の光景、この二つの世界が重なり合って、ごちゃごちゃと己の目の前で流れている。はて、やはりおかしい。光景だけではない。己の耳に響く音も、どうやら二重になっているらしい。駅構内で響く雑踏やトンネルの彼方から聞こえてくる列車の走行音などばかりではなく、列車内で響いているモーター音や車両の震動音、窓を打つ空気の摩擦音、なにやら不自然だ。
これはやはり、疲れているからだろう。なにしろ今日は金曜日だ。己は納得し、時間はあまりないはずだが、もう少しうとうとすることにした。
目を閉じて心を落ち着ける。目をつむれば妙な二重世界は見えてこない。先程のあれはコンタクトがずれていたせいかもしれない。つけたまま居眠ったりすると、時々こういうことが起こる。かすんでぼやけて、周りが二重に、輪郭がずれて見えるのだ。ただ、さっきのはちょっと違っていた。あれはずれていたんじゃない。全く別個の二つの世界が重なって見えていたようだった。これはどうしたことだろう。まあ、新種のかすみ目だろう。己もいい年だし、そうそう、年のせいであるに違いない。しかし、―――耳の方のこれは何だ、こっちも二重に響いているんだが。どう考えても、ハイヒールの女がコンクリ上を歩いている音がする、これは駅のホームだ。けれど一方では、風圧で扉がびりびりと震動する音が聞こえる、これはどうしたって列車の中だ。かと思うと、学生達の話し声が聞こえてくるのだが、その音量と反響の具合からして線路を隔てた向こうのホームからの声としか思われない。けれど、同時に聞こえているこの婆様達のお喋りは?『えかったなあ、丁度ええ席があって。』『ああ、えかったわ、階段がしんどかったけどが、席が空いとって、すぐ座れたで。』この会話はどう考えても、地下鉄の列車内だ。加えて、己の尻の方もおかしい。座席が細かく揺れて、ぶるぶるしているような感覚もあるのだが、いつもの列車走行時の震動よりかなり小さく感じられる。己はこの時期花粉症で、鼻をやられているからよく分からないが、この分では嗅覚の方もおかしな塩梅になっているのではなかろうか。しかし、まあ、やはりこれは金曜日だからだろう。疲れがたまっているからだろう。すっかり疲れ切ってしまっているから、なのだろう。
己はそんな風に考えながら、またうとうとと居眠りを始め、再びすとん、と深い眠りにおちいった。
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すっかり眠り込んでいた己の耳に、扉の開く音と『伝馬町』と到着駅名を告げる車内放送が響いたように感じられ、また同時に、今度は駅ホーム内の拡声器が環状線右回りの到着する旨を放送し、警笛をジリリリリと鳴らしている音が聞こえて来た、ように感じられた。己は、驚愕でもって覚醒し、目を見開くと椅子から跳び上がり、開いている車両乗降口方向へと跳びはねた。しかし、視界の方は先程と同様、ねじれてぼやけてかすんでいる。が、そんなことに今は構っていられない。
まさに閉じようとする扉のすき間に、体を横向きにしてすり抜けようとし、今回は間違いなく上手くいった。どこにもぶつかることなく、駅のホームに降り立つと、そのまま勢い余ってととと、と小走りをした、と思う。そしてようやく立ち止まった己の目の前には、短めの階段がありそこを上ったところに改札が、そうしてその向こうには地上への高い階段が続いていた。
しかし、まずい、と己は感じた。未だにおかしい、この目と耳がもたらしてくれているこの世界が。己の目の玉と耳の鼓膜が故障してしまったのか、それとも己の脳みその方がいかれてしまったのか。
己が見上げている階段は、はっきり二重写しになっている。それも、同じひとつのものがずれて二重に見えているわけではない。明らかに異なった、別々の階段が、何故か一つに重なって目の前にゆらゆらと展開しているのだ。吹付仕上げの壁はざわざわとゆらいでいるし、階段部分はゆっくり動く電動のこぎりの様にぎざぎざと波打っている。天井の蛍光灯はいつもの倍程の個数、だからと言っていつもより明るいわけではない。己はこの光景に呆れ果て、傍らの壁に手をつきぼんやりと見上げてしまった。
この時、上の方から若い女が一人、軽やかに改札の向こうの長い階段を下りて来た。するといつの間に己の横を通り過ぎたのか、一人の老婆がゆっくりと手前の短い階段を上って、これまた二重写しの改札を通り長い階段を上り始めていた。直に二人は階段の下の方ですれ違うことになるだろう。己はそのまま何とは無しに見ていると、二人の位置関係からこのままだと正面衝突になるのではないか、ということに気付いた。しかし二人はそのまま平然と直進し、己が思わず、危ない、と声を出しそうになった瞬間、彼女らはお互いを通り過ぎた。二人は衝突することなく、ホロスコープの様に、互いの体が実体のないもののように重なり合って、また影の様に通り過ぎて行ってしまったのだ。二人はそのまま何事もなかったかのように進んで行き、実際若い女は改札を通り短い階段を下りると己の傍らを横切った。この光景を見て、己は頭がくらくらしてしまった。その間も、眼前の世界は、いや眼前の二つの世界は重なり合ってそれぞれが勝手に展開しており、空間的に混交しゆらゆらと拡がっており、そして己の頭はますます混乱した。己は思わず目を閉じた。
これは一体どうしたことだろう。コンタクトがずれたせいとかでは全然ない。眼前には確かに二つの世界が同時にあり、何故だか分からないがそれらが混ざり合って重なり合って、ここにごちゃごちゃと展開しているのだ。何事なのか、原因は何なのだ。目とか耳とかの器官の問題ではないようだ。となると、おかしくなったのは己の頭か、感覚は正常でも、その雑多な印象の集合を頭が整理できなくなっているのだろうか。いや、そうじゃない。やはり感覚自体もおかしいはずだ。二つの世界の印象を同時に受け取っているわけだから。己は一人のはずなのに、世界が二つ?これは何としても理解できない。果たして己の気がふれたのか、悪質な精神病に、神経系の病気にでもやられたのか。
しかしこうしていても、らちが明かない。確かに、こんな調子では職場にも行けないし、行ったとしても仕事にはなるまい。休むことにするにしても、連絡はしておかなければならない。携帯は胸ポケットにあるから電話はできる。ところがここは地下鉄駅構内、文字通り地下に居るわけだ。となると通話圏外ということになる。ならば何としても地上に出る必要がある。大丈夫だろうか。
己は目を閉じたまま立ち尽くしていた。下手に目を開けていてますます混乱状態になるよりも、目を閉じて考えた方がよろしかろう、と判断したからである。ただそうしていると、段々目を開けるのが恐ろしくなってくるのだった。しかし、地上に出なければならない、となるとやはり目を開けて階段を上らねばならない。己はゆっくりと目を開けた。
列車の到着時間帯からはずれているのだろう、駅構内は比較的静かだ。人通りが少ないということが、己に安心感を与える。壁が不自然に歪んで入り組んでいても、二つの天井がそれぞれ異なった高さで頭の上で重なり合い蛍光灯がでこぼこと点灯していても、床の、視覚障害者のための凹凸のある白いタイルでできた目印が斜めにバツ印を作っていても、それほど怖くはない。しかし人間は違う。人間が不自然な動きを見せたりすると、これは恐ろしい。人間がおかしな動きを見せるということ、これがやはり一番怖いことなのだ。だから地上に出るには、人通りが少ない今こそが好機であろう。
己は勇を鼓して、すっかり乱雑に成り果てた世界の中を一歩々々歩き始めた。床は大丈夫だ、しっかりしている。壁もざわざわと動的にゆがんでいるが注意していれば問題ない。柱は多少多めだが、地下鉄の駅はそこそこ広く空間をとってあるので、通せんぼをされてどうにもならない、なんてこともない。
己はいよいよ最初の短い階段に差しかかる。
心配していた割には、階段を上ることに困難はなかった。ただ階段の一段目で踏み出そうとした時、何か蹴躓くような、妙な感覚があった。それでも無理やり歩を進め、脚を高く上げてみたり前を足で突くようにしながら進めて行ったところ、まあ何とかなった。ただ階段面はまるで波打っているようで、これには閉口した。しかし足元はしっかりしている。視覚から生じる恐怖さえ克服できれば、心配はなさそうだ。一歩ずつゆっくり上がって行けばよい。ただし、実は手摺にしがみ付きながら、ということを白状しなければならないだろう。年寄りみたいだが仕方がない、己はそろそろと上って行った。最後のところで、先程の一段目でのように少しよたよたとしたが、何とか上りきると、また空間が広がった。さあ、今度は改札である。ここでも問題が起こるのだろうか。改札までは、二重にぼやけた世界を順調に進んだ。そして自動改札機へ来ると内ポケットから定期入れを取り出して、所定の位置(と思しきところ)にかざす。すると目の前の光景が、どう理解してよいやら、この二重の光景が、それぞれ相反するような動きを始めたものだから、己はすっかり途方に暮れた。自動改札の簡易扉が素直にバン、と開く映像と、それが閉じたままでピーピーピーと警報音が鳴っている映像、というか光景とが重なり合って現れたのだ。こういう場合、どうしたらいいのだろう。強行突破か。その時窓口に座っている駅員と目が合った。その駅員は、やはり二重写しになっており、明らかに別々の二人の人間の映像が重なり合っているようだ。二人の人間がごちゃごちゃと入り混じって、窓口から己の方をじっと見ている。いや、じっと見ているとは断言できない。どうもその様子からは、二重写しの一方の中年男らしき駅員は怪訝そうに己を注視しているが、もう一方のかなり若そうな兄ちゃん駅員は顔をこちらに向けているだけで、己の事など全然気にしていないようなのだ。で、この二人の駅員が己の目にはごちゃごちゃと混じりあって、大変気持ちの悪い状態になっている―――。
己は、この世界ではより状況の悪い方へ合わせて行こうと決めた。その方が間違いが少ない。損害はより小さくなるだろう。その基準で考えるとこの場合、改札の扉が閉じてあの耳障りな警報音が鳴っている、という状況の方に合わせる必要がある。とすると、この状況はどんな状況なのか。言うまでもなく、この定期ではこの駅を出られない、という状況、つまりはここ、重なり合った二つの世界が己の意識の中では一つになっている、というどうにも無責任なこの世界、を形作る二つの世界のうちの一つの世界においては、己はどうやら神宮西を乗り越してしまったのだ、という話になる。そこで己は、このままでは改札を通れないと判断し、事務室の方へと向かった。そして窓口の駅員に、どうも乗り越してしまったようで、と声をかけた。駅員の顔は、―――これまでは気楽な表情だったのが一転怪訝な顔になった兄ちゃんと、これまでは怪訝な顔だったのがああそうですかと納得したような表情の中年男、この二つの顔が混ぜこぜになっている。さて、ここで問題となるのは精算方法だ。伝馬町の世界なら精算機での精算が可能だが、神宮西の世界では当然不可能だ、精算の必要がないのだから機械は受け付けてくれない。ならば手は一つしかない。己は目の前の二重写しの駅員に向けて、わざと分かりにくいように定期をちらちら見せながら、すみませんでした、一区間分不足ですよね、ごめんなさい、ちょっと急いでいるものですから、二百円でしたっけ、それではこれで、と定期入れの小銭ポケットから百円玉を二枚取り出して、碁石みたいにカウンターへぴしりと置くと、それではどうも、と言いつつ窓口前の通路を通って、さっさと改札を後にした。呆気にとられたような顔の兄ちゃん駅員と愛想笑いを浮かべている中年駅員の二人がずれてぼやけながら三次元的に合成している。いつの間にやらこの二重世界のそれぞれを、ある程度上手く見分けるこつをつかんだようだ。ろくでもない話である。この無意味な特技を習得したことに対する自己嫌悪と、それよりも何よりもあの兄ちゃん駅員から、乗り越しではないでしょうと呼び止められるのが怖くて、振り返ることなく己は歩き続けた。しかし幸いなことに、駅員から呼び止められることはなかった。
さて、それから今度はかなり長めの階段、今度こそ地上へ出るための階段だ。段々慣れてきてはいるが、それでも慎重にやらねばならない。再び手摺につかまって、一歩ずつゆっくりと上り始めた。
一段目で前の短い階段の時と同じ様に少しもたついたが、今回は上手く切り抜けた。それ以外はほぼ順調で、途中踊り場に着く直前にも少し違和感があったがそれも無事乗り越えた。しかしその踊り場を過ぎ、なおも上って行って、ようやくあと二三段だろうというところまで来た時だった。突然足元が不安定になった。二歩か三歩、これまでしっかりしていた足場が、急に柔らかくなったような感覚になり、ひっくり返りそうになったのだ。慌てて手摺を握る手に力が入る。ところが肝心の手摺の方も、妙にぐにゃりとして気持ちが悪い。全くおかしなことだらけだ。笑い事ではない。大体、これまでいかれていたのは視覚と聴覚だけだった。触覚はまずまず、まともだったはずなのだ。それなのに、その頼みの綱である触覚までも当てにならなくなってきた。となると、一体何を拠りどころにすればいいと言うのだろう。何を、このゆがんだ現実に対する尺度とすればよいのだろう。
己は絶望的な気分になりながらも、それでも何とかしようという一心で、地下鉄駅の地上出口付近で壊れた操り人形よろしく、ぎくしゃくじたばたと手足を動かして、空中で溺れているかのような妙ちきりんな行動を晒していた、と思われる、恐らくは。しかし暫くそうしていると、どういう訳か足元が急に以前のようにしっかりとした地面となり、手摺も後にしたようで、もはや傍らにないところまで来ていた。あの嫌な感触から解放されて、己はついに地上に真直ぐ立っていたのだった。
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安堵のあまり一瞬間脱力したが、すぐに、さあ地上だと己の気分はいささか高揚した。そうして周囲を見渡してみる。ところが己の高揚した気分はたちまちしぼんでしまった。確かに理屈通りなのだが、地上でも二重世界はしっかりと展開していたのだ。いかにもこれ見よがしに。全く、忌まわしいことだ。しかも地下鉄駅構内よりも規模は格段であり、更には階段の時とは違い、今度はまったく関係のない異なった光景が二重写しになっているのである。おぞましいことだ、実に嘆かわしいことだ。
そもそも、太陽が二つある。正面に一つと後方に一つ、それにこの己の影が二つある。二方向に影が二つ、己の足元から生えている。太陽が二つだから影も二つ、これ自体は理に適っているのだが、そもそもの話だ、そもそもこれはどうした訳だ、影をなくした男という話なら読んだことがあるが、二つの影を持つ男なんて洒落にもならない。おまけに己以外の連中は無機物、有機物問わず全て影は一つきり、ときている。ただ、建物、標識、街路樹、自動車、通行人、烏や野良猫、あいつらは皆それぞれに影を一つ持っているだけであり問題ないのだが、影のできる方向がおかしい。全てが一緒の方向を向いていない。どうも別々の方向への影を持つ二つのグループがあり、それが同一空間内で混在しているようなのだ。しかしそんなことさえも、どうでもいい。そもそもの話だ。この世界全体が、二重世界と化した世界全体が狂っているということなのだ。
周囲の建物群のあの行儀の悪さはどうだろう。大きなビルの中に小さなビルがすっぽりと埋もれていたり、鉄筋コンクリート造の高層の建物を木造在来工法の長屋が支えていたり、また向こうの方の鉄道高架の上にマンションが乗っかっていたり。かと思うと、左手のごく身近に神宮らしき森が見え、それが手前の道路や信号機、少し向こうの三つの店舗などと重なり合っている。眼前に広がっている大きな道路とそこに沢山の自動車、しかしその道路は大きな交差点になっており、しかも少し離れた右手には、ご丁寧にも別の交差点がある。大きな交差点が二つ、それぞれから延びる道路は斜めにその中間点で重なり合い、バツ印を作ってしまっており、結果として信号のない交差点が加わることになる。当然、それらの道路上を走っている自動車群は、その交差地点で派手な事故をやらかしてこの通りを塞いでしまわなくてはならないはずだ。事実はしかし、連中、お互い平然とすいすい通過し合っている。お馴染みのホロスコープ映像のように。ならばあの自動車共には実体がないのか、単なる映像なのか、としたら己のこの目の前にある地下鉄出口の庇屋根を支える柱、二重にずれてぼやけて見えてはいるとはいえ、これも同類のはずなのだが、と考え、二つ三つ叩いてみたが、硬い感触とコンコンいう冷たい音、というごく当たり前の結果であった。実在物としか思われない。
己はこうした光景をきょろきょろと見渡していたのだが、首を振る度に二重世界の重なり方が流動する。そのため目が回ってきて、いささか気分が悪くなってきた。それと言うのも、例えば映画のフィルムを重ね合わせてみたとしよう、首を動かしていない状態はその重ね合わされたフィルムの一コマを見ているような状態にあたると言える、勿論不明瞭な画像であろうが、ある程度時間をかければどんな二つの場面が重なっているのかということを判別することができるであろう、しかしこの重ね合わされたフィルムを映写機でスクリーンに映し出したらどうであろうか、不明瞭な雑然とした場面が何も判別出来ないまま次々に展開して行くことになる、ただでさえごちゃごちゃした世界がぐるぐると回転し始めるように見えてくる、そのため目が回り、視界がカオスと化してくる、という訳なのだ。これに懲りた己は、もう首を動かさないよう、どうしても動かさねばならないような時は出来る限りゆっくりと動かすこととした。
そうやってこの現実世界を悪戦苦闘しつつ観察している己に、歩道上での光景が更に追い打ちをかける。先程、地下鉄駅構内で見かけた人間同士の異次元通過が、ここでは大々的に行なわれていたのである。繰り返しになるが、事物が、無機物が、また有機物でも動物たちが妙な具合になっていても、まだ我慢できる、しかしこれを人間がやると恐ろしいのだ。道路上で自動車がやっているような、反物理的相互透過作用を人間がやると、自動車以上に不気味に感じられる。これが全然違う者同士、爺さんと女子中学生とか、婆さんと男子高校生とか、まあ一般的に大人と子どもとか男と女とかならまだまだ耐えられもしよう。しかしこれが似た者同士になると悲惨である。一例として、女子高生が二人、向こうの方からこちらの方からお互い同一線上を歩いて来ている。そしてその交差する地点で、当たり前のように二人は重なり合った。勿論通常の世界であれば、こんなことがあったとしても、互いにおでこをこつんとぶつけあい、きゃっ、痛い、ごめんなさい、という、ごく些細な事件が起こるに過ぎないのだが、また滅多にそんなことは起こらないようなことなのであるが、現在の己自身がいる世界ではしばしば起こることなのだ。先程の二人の女子高生の場合もそうだったのであり、一旦この二人が重なって一人になり、なにしろ二人とも同じ様な背格好で似たような髪型をしていて、ほぼ同様な制服を着ている訳だから、そうした二人が重なり合うと前後の別はともかくも、その瞬間一人の人間の様に見えてしまう。ところが次の瞬間、重なり合って一体化したような二人が今度は普通にすれ違ったかのように離れて行き、それぞれの方向へと去って行く。この時だ、己は怖気をふるってしまう。この時、あたかも一人の人間が二人の人間へと分裂するように見えてしまうのだ。細胞分裂のような、分裂法無性生殖のような、いずれにしても一人の人間が二人の人間に事もなげに分裂する、というおぞましい表象が、この世界では時折当たり前のように現れる、またそのさり気なさがいかにも恐ろしい、大変に気分の悪いことなのである。
己はすっかり打ちのめされて、傍らの地下鉄出口の立上り部分に腰を下ろした。尻の下にはコンクリの冷たい、硬い確かな質感が感じられる。これが大きな安心感を与えてくれた。やはり、足元がしっかりしているということは有難いことだ。地べたが確固としていて、自分を引っぱってくれる質量感があると、それだけで自分自身の『ここ』というものが確定できる。そして『ここ』こそが全ての始まりだ。全ては『ここ』から流れ出すことになる。今の己にとっての『ここ』というのは、今尻の下にある、これだ。このコンクリの固まりだ。有難いことである。
再び目を閉じて気持ちを静める。目をつむってしまえば少なくともいかれた光景は見えてこない。知覚できるのは耳からの、いつもよりやたらと密度の濃い街角の騒音くらいである。音だけならまだ落ち着ける。そのままいつの間にか、うつらうつらとしていたら、突然すぐ近くで携帯電話の着信音が響いた。それに続いて、応答する若い女の声、これを聞いた己は職場への連絡、今日会社を休むという電話をしておかなければならないことを思い出した。急いで内ポケットから携帯電話を取り出し、目を開いて――これは致し方ない――電話番号帳から職場の番号を選び、呼び出しをした。営業時間外ではあったが幸いにも同僚が電話に出てくれた、出てくれて確かに彼の声は聞こえるのだが、何故かどうも耳元でツー・ツー・ツーと話し中の信号音がする。変だ。変だが、その同僚は別に異常など感じてはいない様子で応対してくれる。それで己は、信号音が大いに邪魔だったのだが彼に要件を伝えた。神宮西まで来たが、そこで急に体調の不具合が生じたため今日一日休みをもらいたい旨伝えると、彼は、了解したとのことで、お大事にという親身な一言を添えてくれた。感謝である。電話を切ると信号音も止んだ。訳の分からないこともあったが、取りあえず一安心だ。
それから己は、肘を大腿部に置き背中を丸め、うつむき加減でぐったりと座り込んでいた。さぼっているようだが、どう考えても体調不良であることに間違いはない。そうやっている間に二三度、会社の同僚から声をかけられた。どうしたんですか、と顔をのぞき込んでくる。己は、体調不良であり今日一日休むことにしたということ、ここで少し休んでから家に帰るつもりだということを、その都度話した。それに対し同僚達は、無理しないでください、何なら社用車で家までお送りしましょうか、駅の医務室で休ませてもらったら、などと親切に言ってくれるが、少しここで休んでいれば大丈夫である旨伝え、特に自宅に送る、とか駅の医務室で、という申し出には丁重に、しかし断固としてお断りをした。この状態で乗物に乗るというのは、何故だか非常に危険であるように思われたし、また再び駅構内に戻るというのも、御免こうむりたかったためである。ただこうした会話の最中に、時折通行人が俺の方を胡散臭そうに見て行くのが気になった。中には、声をかけてくれた経理の美人社員と話していた時、己を睨み付けながらすぐ前を通って行く老婦人もいたが、彼女は己の前で中腰になって優しく話しかけてくれている手弱女の身体を、木漏れ日を横切る枯葉の様にすうっと通過して行ったものだった。かと思えば同僚の存在を認めているであろうような通行人もあって、こちらは己に対しても別段不審らしき素振りを見せることもない。この世界の法則が己にはなかなか把握できなかった。
しかしとりあえず、愁眉の問題は片付けたので、これから根本的な打開策を考えねばならない。己は覚悟を決め、目を大きく見開いて首をごくゆっくりと動かしつつ、再び周囲の様子を観察した。
相変わらず雑然とした世界、別々の世界が混ぜこぜになって無意味な喧噪が横溢しているような世界、太陽が二つあり己の影も二つ、建物は所かまわずごてごてと乱雑に置かれ、あまつさえ所々重なり合っている。道路は斜めに交差し合い、自動車、自転車、通行人が、その法則性が不分明な規則におそらく則って、非常識に混交し、しかも互いに干渉しあっているところもあれば、全く何の関連性もないようなところもある。分からない。ところであそこを歩いている二人の中年女、あの二人は明らかに互いを認識し合い、何事かを会話しながら並んで歩いている。おそらく目的地は同一場所だろう。かと思うと向こうで信号待ちをしている様子のあの老人と、そちらの方へ走って行く小さな子どもを前の席に乗せた自転車の若いお母さん、真直ぐに老人の方へ向かって行きそのまま突っ込んで行くのだが、―――しかし大丈夫、自転車は老人の体を透過通過して、今度は平然と沢山の車がうようよしている道路に進入、信じ難い光景だがこれも大丈夫だ。車道を突っ切る自転車をトラックやワゴン車がスカスカと通り過ぎて行く。つまり、この自転車とあの老人及び自動車どもとは全く互いに関係していないわけだ。ところがお母さんと子どもを乗せた自転車は、商業ビルやマンションと空間的に錯綜しているあのコンビニの前で止まり、お母さんは子どもを抱き上げるとその中に入って行く。だからこのお母さんと子どもはコンビニとは関連性を持っているが、コンビ二と二重写しになっている他の建物群とは無関係である、ということになる。
万事がこの調子なのだ。目の前に展開している光景全てがこんな具合なのだから、目が回りそうだ。実はもうすでに目を回してしまっているのかもしれないが。それにしても、では己自身はこのいかれた世界に対して、一体どういう関係を持っているのだろうか。取りあえず、始めに地下鉄のホームに降りた。その前から既におかしかったのだが。それでも地下から、この地上に出ることはできた。どんなに奇妙でも、ここが地上であることに間違いはない。そして職場に電話もしたし、会社の同僚とも話をした。だから、己とこの世界とは連関し合っている、ということは確かなことだ。それにしても、見たことも聞いたこともないようなこんな世界に放り出されて、これから一体どうすればいいのか、どこか取っ掛かりがあればいいんだが。あの自転車の母親とコンビニとの間にある関係のように、確実にあると言える取っ掛かりが、―――待てよ、あのコンビニ、あれは神宮西駅と旗屋町交差点を隔てて斜向かいにあるコンビニじゃないのか?そうだ、違いない。地下鉄駅から階段を上って地上に出たところから見えるコンビニだ、そしてそれよりもう少し手前に見えている広告塔、そこに掲示してあるあの広告は名古屋市科学館のプラネタリウムの広告だ。そうだ、間違いない。しかしあの広告は伝馬町にあったはずだ。会社の車で通りかかった時、いつも目に入るからよく覚えている。だが、どうして旗屋町にあるコンビニと伝馬町にある広告塔が同時に同じところで見えているんだろうか。おかしいじゃないか、‥‥‥いや、待てよ、―――
己はそのままゆっくりと後を振り返って見上げてみた。地下鉄駅の出入り口のところに腰かけているのだから庇屋根を確かめればいいことだったのだ。そして庇正面には駅名がしっかりと書かれていた。しかし己の目に入った駅名は、期待を大きく裏切るものだった。それは、ここがどこであるのかを知らせてくれるものではなかったのだ。そこには、『神宮西』という文字と『伝馬町』という文字とが重なり合った、落書きのようなものが書かれていた。これまでの体験によって鍛えられた己の目をもってすれば、神宮西という文字と伝馬町という文字は判別できる。しかし問題は、その二つの駅名が重なり合って一つになってしまっている、ということだ。それではここはどこなのか。可能性は二つしかない。一つは、旗屋町でも伝馬町でもないところ、つまり、結局どこなのか分からないところ、どこそこであるとは言えないところ、―――だが、これでは肝心の取っ掛かりがない。ではもう一つの方はどうか。そう、旗屋町でもあり伝馬町でもあるところ、である。これも、しかし難しいが、少なくとも取っ掛かりはあるかもしれない。
では、ここから考えてみよう。ここは、旗屋町であり伝馬町であるようなところ、ということはどういうことか。ここは一つの場所であるから、同時に二つの異なった場所であることはできない。しかし実際、己の目には二つの場所の景色が見えている、同時に一挙に見えている。ならば、二つの世界が同時にここにあることになる。だが、いや待てよ、どこかで推理が飛んでしまった箇所があるようだ。繋がっていないところがあるようだ。さあ、そこはどこなのか。ここは一つの場所である。そして、二つの場所の光景が同時にここで見えている。しかし、これらの場所が同時にここにあることはできない。したがって、ここは一つの場所ではない。――― ふん、見つけた、前半部分だ。それによると、己は同時に二つの場所の光景を見ているのだから、ここは同時に二つの場所であるに違いない、という隠れた断定になっているが、これは誤っている。二つの場所が同時に『見えている』から、二つの場所が同時にここにある、とは直接主張できない。己が二つの場所を同時に見ている、ということは、二つの世界が同時にここに存在している、ということを必ずしも意味するものではないのだ。とすると残された解答はただ一つ、己が二つの場所で同時にそれぞれの景色をながめている、ということだけだ。二つの場所を一つにするのではなく、己を二つに分けてそれぞれの己が二つの世界をながめている、と考える。成程、まさしくコペルニクス的転回だ。
実は己が二つある。二つの己がそれぞれの世界を見ているのだが、己は一人のはずだから、見る景色は一つしかない、だから二つの己が別々の景色をながめると、それぞれの目に映った景色が一つにされ重なり合って、眼前でそのごたごたが展開されることになるわけだ。成程々々、しかしこれも随分無理がある。己が二ついる、なんて端的に馬鹿々々しい。おまけに、しかし己は一人なのだからそれぞれの己が見た景色が一つに合体せられ、重なり合って一つの景色として存在する、などという主張は実際愚の骨頂で――――
だが、己の体が二つあるというのは、己の意識と己の体とを区別してみるならば、なかなか興味深い考え方ではなかろうか。二つの異なった場所の映像が重なって見えているから、見えているここは同時に二つの異なった場所なのだ、と考えるのも、己が二つあってそれぞれの己が異なった場所で相異なった景色を見ている、ところが『己』というのは一人なのだから二つの己の体がながめている風景が同時に一挙に見えてしまうことになる、と考えるのも、そのおかしさ加減は同程度のものと言ってよろしかろう。しかしそもそもからして、おかしいのは今現前してあるこのいかれた世界なのだ。こんなものが現実だと言うなら、何故そうなのかという理由だって、いかれたものに決まっている。それなら同じいかれた理由付け同士、どちらを選んでも大差はない。となると前にも考えたように、より取っ掛かりが得られそうな方、これから速やかに行動を起こせるような理由付けを選ぶのがより良い、と思われる。ここが、二つの場所が一つになった世界だ、と考えたらどうなるか。もはや行くべきところがないことになるから、己はここでそのおかしな風景を見ている状態を続けることになる、ここにこのまま座って元の世界に戻ることができるよう祈る他ない、何もしないでここにいるしかない、ということになってしまう。では、己が今いるここはある特定の一つの場所ではない、同時に二つの場所なのだ、と考えたらどうなるか。己は二つの視線で二つの世界を見ているわけだから、このままでは何も解決できない。解決するためには、二つの視線を一つにしなければならない。そのためには二つの視線を合流させなければならない、二つの己の体が、かたや旗屋町から伝馬町方面へ、かたや伝馬町から旗屋町方面へと移動してどこかで出会わなければならない、この己がここから立ち上がって、どこかある一つの目的地点に向かって歩いて行かなければならない、ということになる。つまりは行動せよ、ということだ。
ならば、どちらを選択しなければならないかは明白である。己は、二つの場所が同時にここにある、という考え方を捨て、己が同時に二つある、という考え方を採用することにした。そして己は立ち上がった。行動を起こし、己と己とが出会い、二つの視線を統一するために。
* * * * * * * *
己はすっくと立ち上がり、と言いたいところだが、腰を上げた途端に不覚にも少しばかりよろめいた。体の方は大丈夫なはずなのだが、精神面でかなり気疲れをしていたようだ。兎にも角にも、ふらつきながらではあるが何とか立ち上がり、さてどちらの方へ向けて歩いて行ったらよいのか、と周囲をあらためて観察した。
相変わらず無茶な景色が広がっている。左手の方には鬱蒼とした森――これは多分熱田神宮の北辺だろう――と、大きな交差点――これは伝馬町の交差点だろう、ほら信号機の上にそう書いてある――とが重なり合い透かし合っている。右手の方は、これまた広々とした交差点――こちらは旗屋町だ、やはり信号機の上にそう書いてある――と、ずっと向こうまで延びた道路――おそらくは国道一号線――とがごちゃごちゃと重なり合って巨大なヒトデよろしくうごめいている。己は、己と熱田神宮の東門付近で落ち合おうと考えた。となると、旗屋町にいる己は神宮を時計回りに、伝馬町にいる己は反時計回りに進んで行けばよいことになる、が果たしてそう上手く行くのだろうか、しかしこればかりはやってみなければ分からない。己は、取りあえずこの二重世界を頭の中で苦労して二つに分けつつ、進むべき方向を見定めてその最初の一歩を踏み出そうとした。
しかしここで問題が発生した。それぞれの己の正面は、今いる歩道の向こうがガードレールと車道になっており、自動車が行き交っている。真直ぐに進むことはできない。そして進むべき方向は、旗屋町でも伝馬町でもどうやら後方であるらしい。そのため、先ずは右か左へ行かねばならない。己はそれぞれの方向の様子を観察した。右の方なら行けそうだ。伝馬町においては広い歩道があり、右方向から後方へ回り込むのに何の問題もない。旗屋町の方は少しばかり危険である。右へ行ってから後方へと向かうには、地下鉄出口と道路のガードレールとの間にごくごく狭い間隔しかないのだから。しかもその先は駐輪場なのだ。だが伝馬町の方には広々とした歩道があるのだから、旗屋町の方で駐輪場を抜けるのは容易であろう。しかし左の方はどうかと言うと、逆に旗屋町の方には広い歩道があり、こちらは何の問題もない。だが伝馬町の方では、地下鉄出口とエレベーター棟がくっ付いており、更にエレベーター棟は道路まで迫っておりまったく隙間がない。つまり、左方向からの後方への回り込みは、車道に進入でもしない限り不可能なのだ。己は右から回り込んで、後方へと向かうことにした。
先ず右へ進み、地下鉄出入り口の角で再び右へと曲がる。すると、そこには広い歩道と、地下鉄出入り口と車道とに挟まれた狭い空間とが重なり合っていた。己はその狭い空間に合わせて慎重に歩を進める。何しろ、ガードレールがあるとはいえ車道ぎりぎりのところを通るのであるから、あまり愉快なことではない。体を横向きにして狭間を通ると、ご丁寧にも駐輪場の柵が設けてある。高いものではないので大跨ぎで突破する。駐輪自転車の数は少なめで、通り抜けるのに造作はなかった。そして最後に、駐輪場の出入り口から無事脱出することができた。二つの己は、これで漸く進むべき方向を獲得することができたわけだ。ではいよいよ、と己はそれぞれ東へ北へと歩いて行こうとした。
ところが残念ながら、正面の錯綜した風景に歩行者用信号機が見えて、それが赤だ。己は暫く待つことにする。もしかしたら、前方を横切っている自動車どもは、この己の体をすいすいと通過して行くかもしれない。しかしそうでないかもしれない。危険な賭けはするものではない。暫く待てばいいだけのことだ。
信号待ちをしている間、己の耳には道路を走る各種自動車のエンジン音や風を切る音、タイヤが道路を噛む音などが聞こえ、自転車のベルやブレーキ音、歩行者の靴音などに交じって、森の常緑樹の葉が風に吹かれているざわざわという音、そこに住む小鳥の囀り、枯葉がアスファルトを引っ掻く音などが微かに聞こえていた。そうしたいろいろな音を聞き分けつつ、こうして二つの場所の外部の空気の振動が己の耳の鼓膜を叩いてそれを己が知覚しているということは、どうやら外部の物理的影響が確かに己の身体にも届いているということで、ならばあの目の前を突っ走っているトラックに接触なんぞしたら、あっという間にぺしゃんこだ、くわばらくわばら、と言うか物理的影響とか持ち出すのなら、光だって己の目玉の網膜だかを叩いて、それでもって頭の中に外部の映像を映し出すそうだから、見えているという時点で既に物理的影響なら存在しているではないか、ああ馬鹿々々しい、しかし、ん?頭の中だって?二つの己という仮説によれば、頭即ち脳みそも二つあるということになるが、しかし己の意識は一つきりだし、ん?焦っているせいか、仕様もないことばかり考えてしまう。そろそろ信号が青になってくれないものか。
丁度その時、街路樹やら町の診療所やら走行中のバスやらを透かした向こうの歩行者信号が青になった。己はゆっくりと歩きだす。これまでは地下鉄駅のホームやエントランス、改札や通路、階段とかを歩いていたので、いかに混交し歪んでいても比較的単調な景色であったから、頭がくらくらするくらいで済んでいた。ところがこの地上の世界は、地下とは全然別物だ。ここでは多種多様で入り組んだ、あらゆる形体と色彩と動きとがごちゃまぜになってこんがらがっている。それに、通常世界の倍の密度にも思われるような、周囲の騒がしさが加わってくる。しかもその中のいくつかの音は、何の前触れもなく唐突に生じて来るから始末が悪い。そもそも、目に見えるものと耳に響いて来る音とは、これまでの経験によって種々の規則性をもって連結せられている。それが、その経験則が、今この世界では多くの場合全く乱れてしまっているのだ。
己は歩きながら再び周囲を見渡し、二重写しのこの二つの世界を分析し、混ざり合っている二つの世界を弁別するよう心がけた。右側はずっと続く神宮縁の石垣とその上に神宮の森、そこに広い道路とその向こうに鉄道高架という風景が重なり合っている。やはり、この森は神宮の北辺であろうし、道路の方は国道一号線、あの高架は名鉄本線だ。ということはつまり、神宮の北西の地点から東の方へ、同時に神宮の南東から北の方へそれぞれ向かっていることになる。方向に問題はない。このまま進んで行けばよい。
己はいちいち確認し、納得しつつ歩いて行った。そのうち、右手には緑の森を通して、先程気付いた名古屋市科学館の広告が大きく透けて見えて来る。左手は、自動車の通行量が少なめの道路と弁当屋さんや飲食店などが混じりあっている。行程は順調であるようだ。通行人の数も少なくなってきたこともあって、歩行速度も段々と速まって行く。慣れもあった。人間というものは大したもので、こんな珍妙な世界に放り込まれても、それなりに時間をかけさえすれば馴染んでしまう。己は調子に乗ってどんどん進んで行き、目印に丁度良い、人工の池を中心とした小さな公園を左手に通り過ぎ、右手に続いていた森の緑が途切れる頃、駐車場、写真店、中古物品店、食堂、居酒屋、和菓子店、それから相変わらず道路と自動車群、街灯、電柱と電線、また別の駐車場など、少々散文的な風景が押し合いへし合いしているところをすり抜けて行った。途中、こうした乱雑な光景の片隅に己の会社の建物が見えてくる。己は思わず肩をすくめた。
そうこうするうちに、ごちゃごちゃとした前方の風景の中にぼんやりとよく見知った交差点が現われた。言うまでもなく、熱田駅前の交差点だ。となると、この交差点のある方の風景にある歩道沿いに右方向へ曲がって行かなければならない。ただ一方では右へ行くことができない、真直ぐな歩道の風景も現前している。しかしやはり右方向には行かねばならない、ということで俺はすいと右へと向きを変えて進もうとしたのだが、前方に広がったのは馴染みのある神宮の森の東側面とそこに面した幅広の歩道、と伝馬町交差点北の上下六車線ある大津通が重なり合っている光景、己はぎょっとして足を止めた。
さて、どうしたものか。一方では、神宮東側面の歩道に行くだけならこのまま行けばよい。しかしそうすると、他方では、同時に沢山の自動車が行き交う大津通へと侵入して行くことになる。いくらこの世界の半分だからと言って、あんなところに飛び込んで行ったら無事に済むとは思えない。仮説によれば、己の意識は一つなのに己の身体は二つある、ということになっている。で、もしこのまま進んで行って伝馬町方面の己の身体がトラックと衝突し砕け散ったとしたならば、そうしたら旗屋町方面の己の身体だけが残って、目出度く己はこのいかれた世界から解放される、ということになるのだろうか。さてこれは非常に危険な賭けだが、やってみるか?―――冗談ではない。
己は前方をじっと見つめた。とは言えこのまま突っ立っているわけにもいかないが、と考えながら。けれども随分難しいことだ。右の方へ曲がらずに、右の方へ進んで行かなければならないわけだから。ああでもないこうでもないと考えて思い悩んで、もう一度考えて、と自分では努力しているつもりなのだが、果たして本当に己は考えているのだろうか、という疑念もわいてくる。考えるふりをしているだけで、実際は何も考えていないのじゃないか。第一、考えると言っても何をどう考えればいいものやら。右へ行かずに右へ行け、なんて思考規則にはめ込んだら、即ち矛盾しているという回答が出て来ることになる。思考そのものが成り立たない、という結論がはじき出されることになる。己は無駄なことをしているのではないか。これは何としても愚だ、見苦しい、無意味だ、馬鹿々々しい、こうなったらこのまま右旋回して突っ込んで行ってやろうか―――、などと捨て鉢にもなってくる。しかし否、断じて否、どうとでもなれ、などと思い始めたら、それは終わりの始まりだ。さあ、考えるふりなどせずに、本当に対策を考えなければ。何も、一挙に打開しようとか、秘密兵器を開発しようとか、そんなことは必要ない。ごくごく手近なところから、順序立てて理屈に合わせてこつこつと考えて行けば、きっと何とかなるだろう。
動かない頭を、無理矢理ぎしぎしと回してみる。そうしてみても、やはりやっていることは、ああでもないこうでもない、と結局は同じ様な思考の形である。とは言え今度ばかりは答えを出した。勿論、やはりひどく陳腐なものではあったのだが。
結論としては、大回りをするということ、出来る限り大きな半円を描いて右方向へと舵を切って行く、ということ。途中、曲がり具合を確かめながらこまめに後退、前進を角度の微調整をしつつゆっくりと、歩道の範囲内で直進方向と右折方向が上手く折り合うようにやっていく。高速道路のカーブのように。長い半径をもった半円状のカーブだ。あれだって、運転手が真直ぐに走っているような感覚で別方向へと向かうことができる、あれと同じである。
己は神宮北東と思われる世界における立ち位置を決め、そこから歩道の幅をいっぱいに使うようにしながら、大きなカーブを描くように進んだ。そして前方の視界が神宮南東あたりと思われる世界における危険区域――自動車がうようよしている大津通――に入り込まないよう注意しつつ歩を進める。確かに大津通と歩道との間にはガードレールがあるのだが、それは神宮南東世界の前方において存在するのであって、神宮北東世界の前方にはなく、少し行った左側から始まって、ずっと向こうまで続いている。それで、この右折前進という難題を達成しようと努力しているうちに、幾度もこの(おそらく南東世界の)ガードレールと接触したが、その感触は地下鉄の駅から地上へ出る時経験した、あのぐにゃりとした、あれと同じものだった。だからガードレールがあるとはいえ、やはり安心はできない。おそらく車道に転落することはないだろうが、しかしこのぐにゃりとした感触が十分不安をあおるのだ。
己は少しずつ大きな曲線を描きながら進む。勿論進むだけではない。頻繁に後退し、角度を調整しつつまた進む、ということを何度も繰り返した。幸い両世界の歩道とも幅広であったので、大きな弧を描くことが可能となり、長い努力の末、ようやく大津通西側歩道を南北から神宮東門付近へと向かい得る方向に、体を持って行くことに成功した。
随分と時間がかかったが、それは、傍から見れば己が長時間実に奇妙な行動をとっていたことを意味する。その悪戦苦闘の最中に、通行人達が奇異の目で己を見ていたものだ。或る人は笑っていたし、また或る人は己の行動が進路妨害をしていたらしく、小さな怒りの視線を投げてよこした。別の人は憐れむような目つきで己を見ていたし、気味悪げにわざわざ遠回りで避けて行く人もいた。これらはどれも仕方のないことだ。己だって通常の世界に住まっていて、先程の己自身がやったような行動に出くわしたとしたら、どれか一つの態度をとったことだろう。いや、しかしこうも考えられる。もしかしたら以前、実際にこういうことがあったのかも知れない。全く無かった、という保証はどこにもない。もしかしたら以前、己は、今のこの状況と同じ様な境遇に放り込まれて奇怪な行動をせざるを得なくなった人を見て、笑うか、怒るか、嘲るか、気味悪がるか、したことがあったのかも知れない。そんなことはただの一度もなかった、とは、やはりどうしても断言は出来なかろう、と思う。何しろ己が現在陥っているこの状況、これは本来あり得ないことなのだ。それなのに、事実今ここに現前している。否応なく、己はこの現実を経験して行かなければならないのだから。
ともかくも、一つの難関を突破した己は、再び真直ぐに歩き始めた。南へ向けて、同時に北へ向けて。
* * * * * * * *
己の進んで行く歩道は間違いなく一本であり、ほぼ真直ぐだった。ただ周囲の風景が異様であることはこれまでと同じである。歩道を挟んで両側に車道が延び、右側ではそれに被さって神宮の石垣と森が迫って来ており、左側では食堂やら果物屋やらが道路上に並んでこちらを見下ろしている。森の中を自動車が走り、店舗や事務所といった建物をバイクが通り抜けて行く。見上げると、森の樹々の間や二つのビルの間にそれぞれ一つずつの太陽、風は両側から吹き付けて来るし、主に車道から響いて来る騒音も両側から左右の耳の鼓膜を平等に打つ。ただ、森のざわめきや鳥の囀りなども微かに聞こえているようだが、如何せん、聴覚の世界でも大きな奴が勝つのであって、それらたおやかな音達は機械的な大音量の流れの中に没してしまうのである。
暫くそうして歩いていると、左側の風景の中に秋葉山円通寺がぼんやりと浮かび上がって来た。秋葉三尺坊大権現と書かれた幟が何十本もはたはたと翻り、境内の奥には立派な本堂がうっすらと望まれる。ここからは見えないが、南の方には堂々たる毘沙門様がござるのだ。この毘沙門様はかの浅野祥雲氏の作ではないか、と己はにらんでいるのだが。そして、ここは神宮寺として神仏習合思想の一つの記念碑と言える。外来宗教と土着宗教を並存、折衷させている。実によろしい。あれかこれか、なんてけちなことは言わない。あれもこれも、決して欲張っているわけではない。『あれ』も『これ』も存在しているのだ。どちらかを選ぶというのは、両者で勝負をやらせ勝った方を存続させる――勿論負けた方は消滅させる――という誠に不穏当なやり方だ。その点、折衷というものにはまあまあという精神があり、これでお互い手を打とう、という考え方なのだ。本当に素晴らしい。全く異なったものを合体させてしまうのだから。―――しかしながら、この己の身体はどうなのだ。もともと一つであったものが、どうやら二つに分裂してしまったようなのだ。片や異なった二つのものを一つにし、片や元来一つであったものを二つに分裂させてしまった。情けない話ではあるまいか。俺はわびしい心持ちになった。こんな馬鹿げた境遇にいきなり突き落とされて、一寸先は闇という諺を地で行くような、正常な世界でもこれまで散々にやらされてきた喜劇を、ここでもそのまま演じなければならないとは、―――神頼みでもないけれど、昔覚えた真言でも一つ唱えてみようか。さて、毘沙門様のは何だったか。確か初めに『おん』ときて、最後が『そわか』だ。色々な型があるけれど、毘沙門様のはこの型だったはず、で問題はその間にどんな文字が挟まっていたかだが‥‥‥。そうだ、『べいしらまんだや』だ。間違いない。おん・べいしらまんだや・そわか、おん・べいしらまんだや・そわか―――、不思議なことに少々元気が出てきたように感じられる。何ともこれは大したご利益だ、宗旨替えでもしようかしら、などといささか不謹慎なことを考えてみたりもする。しかしこれは、習合とか折衷とかとは話が違う、いや面目ない、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏‥‥‥。
そうこうするうちにかの円通寺は後方に消え、己はそのまま混沌の支配する世界が左右でのたくっている真直ぐな歩道を、これだけは確かであるらしい一本道を歩き続けた。所々コンクリにひびが入り、鳩や烏の糞や煙草の吸殻などがここかしこに散らばり、菓子袋の類が風に吹かれてくしゃくしゃと転がっているような綺麗とは言いかねる歩道ではあるが、己にとっては唯一の頼りになる、進んで行くべき道なのだ。ご丁寧にも、左右両側に街灯やらガードレールやらが設えられた特注品である。
この道を真直ぐに歩いて行けばよい。おそらく二体ある己の身体、己のこの意識が真直ぐに行けと念ずれば、二体の身体はそれぞれ南へ北へと向かって行くはずだ。今現在、そうやって二つの身体は北から南から、それぞれ進んで行っているはずだ。そうして神宮東門あたりで両者が出会うことになる―――はずだ。
己はこうして歩いて行った。前方、左右、頭上、何処もかしこもいかれているこの世界の中を、哀れな己はひたすらに歩いて行った。『己』という言葉に非常な違和感を覚えながら、森と人々、車や建物が混じりあった風景の中を二つの太陽が輝く空の下、二つの影を引き連れて『己』は歩いて行った。『己』?『己達』? いや己だ。己は確実に一人なのだから。ほぼ間違いなく身体は二つあるのだろうが、己は一人なのだ。だが、どうなのだろう。身体が二つあって、この己という意識は一つだということは、じゃあ己は一体どこにいるのだろうか。これまでは、―――と言うか通常、己という一つの意識に対して感応しているのは一つの身体だけだから、特に問題はなかった。『己』というのは、おそらく己の身体の中にいるのだろうと考えて、おかしいことは何もなかった。しかし現在の己のこの体たらくからすると、全体どんなものだろう。二つの別々の身体の中に同時に一つの意識がいるなんて、どうも己のこの貧弱な頭では理解しかねる。そう、もし意識というものが脳みその所産であるのなら、極めて物理的であるはずだろう。となれば、どうしたって二つの物理的身体に、同時に同一の意識が存在するなんて、考えることすら出来ないではないか。その場合、意識も二つ、それも別々の異なった意識が二つ、存在しなければならないことになるはずだ。さあ、一つの意識であるこの己は、どこにいることになるのだろう。―――もしかしたら、己はどこにいるのか、という問い自体、おかしなものなのかもしれない。己はいつ存在するのだろう、と問うことがおかしなものであるように。己はいつ存在するのか、と問われたら、今この瞬間に、と答えることになるが、今この瞬間とは一体いつのことなのか、と更に問われたら、もうお手上げだ。今この瞬間なんて、捉まえられっこないのだから。或る時点から別の時点の間だよ、とも答えられない。そんなことをしたら、それは時間じゃない、空間的なものになってしまうのだから。となると、これまで自明なことだと考えていた、今ここ、という言わば己が存在するための確実な起点の様なものが、実は全くあやふやなものだったのだ、ということになる。これは、実は大変恐ろしいことではなかろうか‥‥‥。
しかし、慣れとはこれもまた大したもので、このいかれた環境にも次第に馴染んできていたのか、つらつらと難しいことを考えながらも、身体の方は問題なく作動していた。また認識の方も、混ざり合った二つの世界を更に上手く弁別できるようになっていた。向こうから神宮の片側の石垣に、平然と突っ込んで行く自転車のおばさんに驚くこともなくなった。そのぼんやりとした自転車に乗ったおばさんは、何事もなく石垣と一体になって、夜汽車の車窓の景色の様に己の傍らを流れて行く。電柱の烏が糞をしても動じない。その下を歩いていたじいさんを透かして通って、地面にぺたりと落ちる。(まあ、じいさんの頭の上にぺたりでも、己にとってはどうでもいいことだが)しかしその白い糞を見ながら、もしこの糞が己の真上から落ちて来たらどうなるか、確実に南北どちらかの己の頭に、このぺたりをやらかすことになる。自分自身の時には気を付けねばならないだろう。あまりこの状況に慣れすぎるのも問題だ、と反省した。
* * * * * * * *
そんなこんなで色々なことを考えながら歩いて行き、熱田区役所、きよめ餅店、バナナ屋さん、商店街などに緑の森が挟み込まれそこに沢山の自動車がまぶされているという、サンドイッチみたいな光景を左右に見ながら進んでいると、大きなビルと歩道橋が両側にそれぞれ見え始めた。この大きなビルの方は、重なっているのがそれぞれ青い空のみということもあってか、妙に青々とはっきり見える。勿論、このビルも左右に一つずつある。全く同じ建物が別角度から見えており、それが左右に分かれているという具合であった。歩道橋の方は他の風景と混ざっているために、これまでの光景と同じ様にぼんやりしている。己は一旦立ち止まった。
どうやら、あのビルは名鉄パレだ、ということは神宮東門の近くまで来ているということで、ならばどういうことか、今己の二つの身体はそれぞれ同じ建物を知覚していることになる、左右に二つ見えている、あの実は一つの建物を、己の二つの身体が同時に見ていることになる、そうなのだ、北から来る己の身体と南から来る己の身体とは、もうすぐ近くまでやって来ているに違いない。
そのことに気付くと、己は注意をこれまでよりも一層前方真正面に据え、再び歩き出した。そして次第に早足気味になりながら、ずんずん進んで行った。もう、烏の糞も何も関係ない。文字通り、脇目もふらず進んで行く。すると段々、目の前に展開する光景が変化し始めた。それまでは、ただごちゃごちゃと混乱していただけの光景が、何か中心点らしきものを持ち、その点に向けて景色が言わば収斂して行く、若しくはその点から景色が噴き出してくるような、そんな真っ当ではないながらも妙に秩序めいた景色の流れが生じて来たのだ。
これはもしかしたら、と己は前方に更に目を凝らした。収斂とも噴出とも言える、放射状に広がるそのじょうろの中心点に向けて。胡麻粒の様だったその中心点が、次第に大きくなってくる。その詳細も段々はっきりしてくる。そうしてそれが、どうだろう、林檎くらいの大きさに見えてきたころ、その正体がはっきりした。想像していたことではあるが、実際それが現前してみると、さすがに愕然とした。自然と歩みも遅くなる。暫くして立ち止まる。すぐ前方のそれを凝視しつつ。―――それは勿論、己の顔だった。狂ったこの世界、いかれたこの光景、混沌そのものといったこの猛った風景、そのただ中に、その中心に、恐ろしく醜怪ではあるが紛う方なき己の顔が、ぽっかりと浮かんでいたのである。
その顔は非常に不愉快なものだった。輪郭がぼやけているという、これは仕方のないことであるが、普通に見ている顔と鏡に映した顔とが重なり合っている訳だから、左右対称の人工的な顔立ちとなっている。こういう顔は、やはり実に不愉快だった。しかも自分の顔なのだ。己は嫌悪感と情けない思いで、その顔を見つめた。傍からすると、瓜二つの二人の男が向かい合い、睨み合っているようにしか見えないだろう。しかしそうやって対峙しつつ己の視界にあるのは、ぼんやりとして左右対称の、出来のひどく悪い能面の様な自分の顔なのだ。そうしてその顔を中心として、世界が絶えず噴き出している。己自身の嫌らしい顔の周囲から、全世界が放射状に流れ出している。しかしこんなむかつくような己の顔を中心とした光景だが、直にこの光景自体に、何か既視感のようなものを感じ始めた。丁度、子どもらが描く太陽、擬人化された太陽の絵だ、円をくるりと、その中に目鼻口を描き、その円の周りに線を八方に拡げて描いた太陽の絵、あんなような景色なのだ。そう、それは何がなしに懐かしい風景であった。アルゼンチンの国旗にあるような、あのように素朴な、おそらく心の原風景のような―――。
『やあ』とその顔に向かい、少し融和的な気分になった己は声をかけた。他に言い様もないのだから。その声は野太く耳に響いた。それは、発声する時に身体の内部に響く音が内側から鼓膜に達する音と、自分が発声した音がそのまま外から耳に入って来る音と、それから更に、他人が間近で発したような音とが、三重にまとめて聞こえて来ているような状態であるはずだ。だからこの現在、現前しているこの不愉快な顔の様に、くぐもった実に嫌らしい響きだった。
『やっと会えたな。さて、これからどうしようか。』
いかに嫌らしい響きであっても、黙っているのは不安である。それに、こうしてやっと出会えた己なのだ。忌々しいこの現状をどうにかしなくてはならない。ここは神宮東門から少し北辺り、己の斜め左右、駐車場の向こうには大きな鳥居がある。どちらの鳥居が本物だろう。己の二つの身体は、それぞれ北と南からやって来ている。あの鳥居は方角としては南西にあるはずだ。ということは、北から来た己から見て右側、南から来た己から見て左側に見えているのが本物だ。よく分からないが、とにかく神宮の中に入ってみよう。根拠はないけれど、神宮に入れば何とかなるような気がする。この今回の状況のそもそもの原因が、この中にあるような気がしてならないのだ。
『じゃあ、北から来た己は右へ、南から来た己は左へ行くとしよう、いいか、それ!』
しかし、―――出来ない。当たり前だ。身体は二つでも己は一人だ。己、というのはただ一つなのだ。己が行けるのは、右か左かだ。同時に右に左に行くことなんて、出来はしない。己は、二つの身体はそれぞれに、腕をぶらぶらさせ脚を絡ませつつ、よたよたと糸のもつれた操り人形の如く、またしても下手な舞踏を披露することとは相成った。情けないことに己にとっては、二つの頭部とそれぞれ四本ずつの手足をもった、不格好な阿修羅像のような自分自身の姿を目の前で見せつけられたのだ。また他人からしたら、阿修羅像ではないにしても、二つの身体である。己自身には見えないが、どう考えても傍から見たら、二人の人間が向かい合って、全く同じ動きでよたよたと奇妙な踊りを披露しているとしか見えないだろう。何ともみっともない有様だ。こんなことは止めるべきだ。己は動きを止めた。そうして、前方に浮かんでいる、疲れ果てぼんやりとしている自分自身の奇怪な顔と、改めて対面した。
己は何をしているのだろうか。さっき他人に語りかけるようにして発した言葉、あれだって全然無意味なものだ。第一、会話になっていない。随分馬鹿々々しい話だ。己が己に話しかけるなんて、要するに独り言なのだ。音声にする必要などない。考えればいいだけのこと。先程己が己に話しかけたという行為、あれは単なる勘違いなのだ。無意味なことだ。それにしても、やはりますます分からない。とすると、己は一体何処にいるのだろう。
この究極の問いをあらためて唐突に思い浮かべ、己は己の不愉快な顔を見ながら、情けない心持ちで頭を振った。すると妙な変化が起こり始めた。先ず、己の顔のぼやけ加減が大きくなり、更に己のまわりに異変が現われたのだ。それまでは、己の顔を中心に世界が、収斂だか放射だか分からないが、己の顔とその周囲との関係が直線的だったのが曲線的になってきた。二重重ねの世界がゆらゆらと震えだし、そしてゆっくりと回り始めた。己は恐ろしくなって、頭に手をやりますますかぶりを振る。世界は渦潮よろしく、己の顔めがけて流れ込んで来るかのように、また逆に、己の顔から世界が螺旋状に流れ出て来るかのように、眼の前の世界が回転し始めた。始めはゆっくりと、それから次第に速く、勢いをつけて行く。
こんな情景を見せつけられて、己は今度は段々腹が立ってきた。そこでこの状況に対する否定の意味を込めて、ますます強く頭を振り続けた。馬鹿にしてやがる、何だこの、ぐるぐる回りは、目が回る、己は蜻蛉じゃない、大体己の身体が二つになったということが、そもそもの原因なんだ、こんな有り得ないことが、当たり前のように、ごくさり気なく、現実に起こるなんて、全くたちの悪い冗談ではないか、どこのどいつの仕業だ、まったくもって愚にもつかない悪戯だ、いい加減にしやがれ―――。
腹を立てれば立てるほど、その回転は速度を増して行く。己は乗り物酔いになったような気分がした。気持ちが悪い。吐き気もする。それに伴ない、更に怒りがこみ上げてくる。この現状の理不尽さに対し、無理矢理押し付けられたこの境遇に対し、そして何よりも渦巻く世界の中心で頭を振りながら目だけはこちらを見つめている、左右対称で無表情な、呆けたような大いに不愉快なこの己の顔に対し、怒りはその頂点へと駆け上って行き、ついに爆発した。
己は拳を振り上げ、この憎むべき顔面に向けて一発かましてやった―――と思った瞬間、その拳は空を切った。空振りだ。体が傾き転倒しそうになる。己は再び体勢を整え、己の顔を睨み付け再び殴りつける、とまたもや失敗だ。それでも己は性懲りもなく三度拳を振り上げて、―――が、思い止まった。これもまたまた茶番だ。いくら身体は二つとは言え、己の意識は一つである。二つの身体が互いに相手の顔面を殴り付けようとしても、殴られたら、それは自分が痛いに決まっている。すると当然怖いものだから、殴ろうとすると同時に、無意識にもせよ、避けようとするだろう。拳が当たるわけがない。殴られて、或いは殴って、自分の歯を折ったり、鼻を潰したり、顎を割ったり、また殴った手の指を骨折したりなんて、誰が好き好んでしたりするものか。こんな八百長試合、成立するはずがないのだ。
とは言え、己の怒りは収まらない。ついに己は、己目掛けて体当たりを食らわせた。顔面は怖いものだから、体を反らして胸と胸でぶつかり合った。以前テレビの動物番組で見たことのある、ゾウアザラシの雄同士の喧嘩みたようなものだ。この野郎、クソ奴が、このカスが、などと喚きたてながら自分自身に勢いをつけてぶつかり合う。跳び上がってぶつかり合っては崩れ落ちる。また立ち上がって、今度は足は地面につけたままで数回ぶつかり合い、足をふらつかせて膝をつく。またふらふらと立ち上がっては、胸突き合う。そんなことを何度か繰り返した後、怒りは再び頂点に達し、最終決戦だとばかりに少し下がって助走をつけると、思い切り跳び上がって、これまでで一番というような体当たりを食らわせた。己自身では分からなかったが、きっと己の二つの身体は空中で激しく激突し、互いに弾き飛ばされたのであろう。次の瞬間地面に叩きつけられ、そのままうつぶせに伸びてしまった。
それから暫く目を閉じて、痛みをこらえつつ、喉をぜいぜいさせながら臥せっていた。いい年をしたおっさんがこんなプロレスごっこを演じたのでは、ただで済む訳がない。きっと所々打撲、生傷だらけだろう。服だって無事ではないはず、背広やズボンもぼろぼろになっているに違いない。おまけに明日か明後日には、身体中の筋肉が痛んでくるだろう。もし身体が二つのままだったら、その時痛みも二人分になるのだろうか、そんなことは真平御免だ―――。
そのまま体を休ませて、漸く息切れも治まった頃、己は両腕で半身を起こし、膝を立てて四つん這いになると目を開けた。と、そこには奇跡の光景が広がっていた。何と、輪郭は多少ぼやけてはいるものの、これまで見てきたような相異なる世界が二重写しになった情景とは違う、ただ一つの風景が広がっていたのだ。手前には駐車場、そこに点在する自動車、向こうに望まれる巨大な鳥居、白い砂利を敷いた参道、そこを行き交う人々、それらは一つの光景として成立しており、ごちゃごちゃと重なり合ってなどいない。さっきも言ったように、多少ぼやけて焦点が定まっていないようなところがあるものの、ただ輪郭が少しずれているだけで、そこには確かに一つの風景が現われていたのである。己は思わず己と顔を見合わせた、と思ったが、出来ない。そうしようとすると首が回らない。そこでその代わりに、きょろきょろと辺りを見渡してみる。いつに間にやら己の周囲には人垣ができていたが、その向こうには己の頭部を透かしてきよめ餅店、商店街等大津通の南北の景色がそれぞれ確認できた。左右には大津通の南北、正面には駐車場とその向こうに参道と鳥居、そしておそらくは背後に大津通、―――これはつまり、どう考えても、己の二つの体がそろって熱田神宮東門の方に正面を向けている、ということを意味しているのではなかろうか。
* * * * * * * *
正しく物理法則の奇跡であった。二つの個体が、全く同じ動きと運動量と速さとで激しく激突し、そして互いに弾き飛ばされた、が二つの球体がぶつかりあったわけではない。頭部と手足と胴体を持った二つの身体が激突し、双方とも跳ね飛ばされ地面に叩きつけられたのだが、ここで偉大な物理法則が働き、まあ細かいところはよく分からんのだけれど、とにかく二つの身体は地面上で転がって、たまたま双方とも結果として同じ方向を向いていたという、―――何はともあれ、間違いなくそういった物理法則だったのである。
己は立ち上がった。もうどちらを向いても、どう動こうとも迷子になることはない。右を向いても左を向いても、己の顔は見えない。己の後姿が見えるだけだ。もう金輪際、あの不愉快極まる顔を見なくて済むのだ。
しかし先ほど気付いた通り、己の周囲には人だかりが出来ていた。それはそうだろう。かなり激しい大立ち回りを、この己が二つの身体でやらかしていたのだから、穏やかではない。すっかり安心し落ち着きを取り戻していた己は、申し訳ない気持ちで周囲の人々の不安気な顔々々を見回し、そして最寄りの、最も奇異の目で己を見ているおばさんに目を向けた。決して睨みつけた訳ではない。先にも言ったように、己は心底申し訳ない気持ちだったのだ。謝罪の気持ちを表していたはずなのだが、そのおばさんは、『ひゃっ』と悲鳴を上げ、とんでもない勢いで伝馬町方面へ走り去っていった。仕方がないので、己は再びゆっくりと周囲の人垣を見渡した。重ねて言うのだが、決して睨みつけた訳ではない。しかし、やはり周りの善男善女はそそくさと、それぞれの進行方向へと歩き始めた。人垣は崩れ、散って行く。やがて、見物人としての人々はいなくなり、それからは後からやって来た、己に対しては無関心な通行人ばかりとなった。
きっと不気味だったのだろう。瓜二つの二人の人間が並んで立っていて、その二人が同時に自分の方をじっと見つめたとする、―――確かに誰しも気味が悪かろう。何はともあれ、己は一片の悪意も実力行使もなく、野次馬連を追い払ったというわけだ。
こうして随分と気持ちが楽になり、そのまま熱田神宮へと向かった。二つの身体はそれでも二メートルばかりは離れていただろう。この距離感は仕方がない。まあ、相寄り添って歩きたいとは思わないが。それでも己は、―――己という二つの個体は、一応並んで同じ方向へと歩いた。所々駐車中の自動車を避けながら。駐車場のアスファルトを踏む、二人分の足音が耳に入る。その音は微妙にずれていた。やがて目の前には巨大な鳥居、その姿はやはり少々ぶれている。鳥居をくぐる前に、己は一礼した。礼を失してはならないのだ。何とはなしに、今回のこの一件は神様の御仕業であるように思えてならなかった。己が何か、熱田の大神様のご機嫌を損ねるようなことをしたのか、大神様が己に何か試練を与えようとなされたのか、或いは単なる大神様のお気まぐれか、いずれにせよ、あくまでも己の妄想ではあるが、この己が、己の身体が二つに分裂したということは、突拍子もないことであるにもかかわらず事実であり、これには何か理由がなければならない。そしてその理由は、やはり当然突拍子もないようなものであるはずだ。そうなると己には、熱田の大神様たるご神剣が、己の身体を神通力でぶった切るというご行為をなされた、としか思えないのである。
己は境内へと足を踏み入れ、大鳥居の手前から地面に敷かれている白砂利をざざっざざっと二人分の音を響かせながら進んで行った。平日の午前にもかかわらず、多くの参拝客がいる。参道は広々としていた。しかしその両側には覆いかぶさるように鬱蒼と茂る樹々、こちらはほとんど森状態だ。沢山の、また様々な種類の鳥のさえずり、あれほど喧しかった自動車の音もいつの間にかはるか後方へと退いて行く。よく見ると参道の両側は低い石垣が延びていた。その上の少し高い位置に森があるわけで、それで迫力が増しているのだろう。その石垣の下には石造りの溝がしつらえてあった。ただ、水は流れていない。更に進むと石燈籠が二つ、左右対になってあり、そこから参道は少し狭くなる。二つの石燈籠の間を通り、暫くすると右側に宝物殿の建物が見えた。その前で神宮名物の鶏が、いきなりけたたましく鳴いた。こいつはかなり頻繁に鳴く奴で、この日もそこから本殿へ行くまでに五六回は鳴いていた。左方向には南へ延びる道、おそらく、あの開かずの門――清雪門のある方だろう。それから佐久間燈籠が左手の樹々の間からその巨大な姿を現すと、道は突き当りとなる。己『達』は仲良く右折した。
前方には第二鳥居、そのずっと向こうが本殿である。ここで気付いたことがあった。己の二つの身体の間の距離が明らかに縮まっているのだ。大体一メートル程になっているだろう。これは期待できる、己はそう実感しながら歩を進めた。宮きしめんの前を通る。さすがに今は、ちょっと一杯という気にはなれない。店の幟のきしめんという文字に後ろ髪を引かれることもなく、更に進む。次第に近付いてきた鳥居の手前には、右手に宝物館への正面入り口、左手に西門へと延びる参道がそれぞれ現れた。参道の方をながめると西門大鳥居が見える。己はそのまま直進、一礼して第二鳥居をくぐると左手に手水場があり、その向こうが大楠だ。ここもしっかりお参りをすることにした。参道からそちらに向かう。神妙に柏手を打ち、二拍目の後、手を合わせたままこの立派な楠を見上げてみた。以前、ここで大きな白蛇を見たことがある。その時は、蛇が太い幹に張り付くようにして登っているところだった。残念ながら、今日はお出ましにはならないようだ。
少しだけ回り道をしたが、自由に行きたい方へ行けるということは本当に有難いことである。これまでは、そんなことは当たり前のことだと思っていたが、それは間違いであった。つくづくそう実感する。再び参道へ。己『達』は二人並んで、ざざっざざっと歩く。心なしか、音のぶれも大分小さくなっているようだ。そのまま本殿の方へと向かったが、相変わらず森の中を歩いているようだった。ざわざわと森が鳴る。小鳥のさえずりは少し遠のき、代わりに烏の鳴き声が増えてきた。烏となると、凶鳥という連想にどうしてもなってしまうが、八咫烏というのもあり、恐れ多くも神武天皇の道案内をされた導きの神という側面もある。熊野では立派な神様だ。個人的には好かないが、まあ良しとしよう。
間もなく前方に第三鳥居、手前左右には信長塀が樹々の中に隠れるようにしてある。信長といえば派手な印象があるが、その名を冠したこの塀は存外控え目だ。ここで左右の塀をながめた時、己はぎょっとした。この時己の二つの身体は最接近しており、ほとんど触れ合わんばかりになっていたのだ。これでは傍から見ると、二人の男が仲良く腕を組んで歩いているように見えるのではなかろうか。何ともみっともないが、致し方ない。
そのまま第三鳥居を一礼してくぐると、いよいよ本殿前の広い境内だ。授与所があるが、今日はお守りもお札も必要ない。先ずは参拝である。森の中から開けた場所に出て来たようで、これまではちらちらとしか見えなかった青空がきれいに広がる。太陽の光をいっぱいに浴びる。振り返ると、太陽は目出度くただ一つだ。形のぶれも全然ない。己の身体の融合は進行しているようで、一部が重なり始めているらしい。再び傍から見ると、二人の男が頬を密着させ、肩を組んで歩いている、といった塩梅なのだろう。現に、参拝を終えたらしい老婦人が己とすれ違う時、怪訝そうな、不快そうな表情を浮かべていた。これもまた、致し方ないことである。世間では、多様性がどうとかマイノリティーがこうとか言っているが、怪しいものは怪しいし、不快なものは不快なのだ。そう感じることは仕方のないことなのだから。実際この己自身がそう感じる。情けなく感じている。こう感じること自体を禁止しようなんてことは、端的に犯罪である。明らかに世間の方が間違っている。己はあの老婦人の反応を断然是とする。しかしそれはそれとして、己の身体はどんどん融合の度合いを高めているようで、これはこれで大変結構なことだ。
さて、本殿の前まで来ると幾人か参拝者が見えたので、人のいない所へ向かって石段を上った。本殿の前に立って上着の胸ポケットから財布を取りだしたが、この時には己の身体は、ほぼほぼ一つになっていた。財布は一つであり、手足はそれぞれ二本ずつだ。だがまだ完全ではない。自分の手などを見ると、輪郭がおそらくセンチメートル単位程ずれているようだ。賽銭をそっと投げ、己は、やっとここまで来ることが出来た、という感謝の念をこめて、参拝した。そして暫く本殿をぼんやりと眺めていた。それは参拝場所から更に離れた奥にあり、その間には神事など行なうためのものなのか、広い庭のような空間がある。その周りは塀でもって囲まれている。その囲まれた空間が、特に神聖なものに感じられた。
参拝を終えたが、身体の微妙なずれはまだ残っていた。やはり、参拝にやって来て己とすれ違う人々は皆一様に、或いは目をこすり或いは目を瞬かせて、己を二度見する。怪しい二人組の男からは脱却できたが、これではまだ、ちと心細い。周囲の皆さんに、ご自分の目についてあらぬ心配をさせてしまうではないか。まだ何か足りないことがあるのだろうか、と考えてみる。これはやはり、御神剣で人体をぶった切るという、いささか荒っぽい所業をなされた熱田の大神様である、その荒魂にも、ご挨拶をしなければならんのではなかろうか。
そこで更に奥へと行くことにした。本殿の西側に沿って、目立たないが参道がある。本殿を囲む塀を右手に、密度の濃い林を左手に見つつ、奥へと向かう。ほぼ一人で歩いて行く。この『ほぼ』はやはり消したいものだ。ごく短い時間だっただろうが、己は二人に分裂した時を経験してきた。己には恐ろしく長い時間に思われた。それでも、これまでのことを考えてみると、ここまで来るのに幾つもの奇跡的な幸運があったことに気付く。よくも、地下鉄の駅でどちらかの身体が線路へと落っこちなかったものだ。よくも、改札を首尾よく出られたものだ。よくも、地上へ出てから都合の良い方向へと向かうことができたものだ。地下鉄の駅の構造や己の二つの身体の向きが、たまたま良い具合だったわけで、どうも奇跡のてんこ盛りだったとしか思われない。
間もなく一之御前神社へ到着し、参拝する。この時は何も考えることもなかった。無心で参拝を終えて、ふと気付くとずれていた己の身体は完全に一体となっていた。手を見ても足を見てもその輪郭にずれはなく、目の前の御社を見たがいささかのぶれもない。やれやれである。これでやっとまともな世界に戻ることが出来た。ただやはり、よく見ると服はかなり傷んでいるし、身体の節々も痛む。家に帰るとしよう、地下鉄に乗るのはまだ怖いが、居眠りだけはしないようにしなければ、けれどその前に、腹も減ったことだし、あったかいきしめんでも食っていこう、などと思いながら御社を背にし、参道を見た。参拝客はおらず、樹々と本殿の塀の間をただ真直ぐに延びている。この光景を見た刹那、三度あの究極の問いが頭をかすめた。結局、己というものは一体どこに居るのだろう。
此度の経験から、己は心底実感するのだ。己は、己の肉体そのものというわけではない。己の意識と己の身体は、(妙な言い方ではあるが)一体ではない。己というものは、この身体そのものなのではない。そのものではない何ものか、なのだ。―――つまりは、己はこの身体があるところに必ずしも居るというわけではない、ということになる。己というものは、実はこの身体とは別のものなのだ、ならば、―――ならば実際、『己』は一体、そもそも何処に居るのだろう。