第6話 罠か?
その後も、いたたまれない時間を過ごしたおれは、ようやく放課後の時間を迎えた。
しかし、それは解放を意味しない。
おれは教室という処刑場から、次の刑場へ移るだけなのだ。
生徒指導室という名の新たな処刑場へと。
おれは誰の視界にも入らないよう、こそこそと教室を出て行った。
生徒指導室へ行くなんて本当はまっぴらだが、これは自分が蒔いた種だ。腹を決めるしかない。おれは足取り重く、生徒指導室へ向かった。
廊下を歩きながら、何人かの生徒とすれ違う。
数人が連れ立って歩いているところとすれ違うと、クスクス笑っているのが、自分が笑われているように思えてならない。
もちろん、気にし過ぎなのだろう。ただ、かなり手痛く打ちのめされた身には、わずかな笑い声でさえ、自分を笑っているのではと思えてしまうのだ。
……本当に数日は学校を休もうかな……。
自分でもわかるほど後ろ向きの考えが頭をよぎる。
不登校になる者の気持ちが少しわかる気がした。
今日ほど学校が恐ろしいと感じたことはないからだ。
学校に対し、何か通いづらいものがあると、学校は存在だけで地獄の場所と化す。
ぐずぐず歩いていたが、それでも生徒指導室の前に到着してしまった。
こんなに早く着くのだったら、屋上と体育館経由で来ればよかった。
あと、プール脇の通路を通れば、校内名所めぐりをしながら生徒指導室へ行くツアーが完成したな。
そんなくだらない心のつぶやきをしながら、おれは扉を軽くノックした。
中から返事はない。おれは、そーっと扉を開けてみた。
生徒指導室は六畳一間ほどの広さの部屋で、両脇にスチール棚と窓際にロッカーが置いてある。
部屋の中央には折り畳みの長机がふたつ並んでいた。
それらの長机を挟むようにそれぞれふたつずつ、古ぼけたパイプ椅子が見える。
正面奥の上半分がガラス窓になっていて、そのひとつが大きく開け放たれていた。
おれが扉を開けたことで、風が窓から部屋を通り抜けていく。
窓にかかったカーテンが風に揺れた。
5月の爽やかな風だ。部屋の中には誰もいない。
一瞬、このまま帰ろうかと考えたが、それでは本当に明日から学校へ行けなくなる。
おれは自分でもわかるぐらい、面倒臭そうな顔で部屋に入った。
窓からは大きな銀杏の木が見える。
秋にはギンナンを大量に落とすのだが、これがけっこう臭い。
1年生のころは、この銀杏が立っている外庭が校内清掃の担当場所だったので、ギンナン処理には手を焼いた。
エクトラントのおれは、ここでの記憶はまだ数日程度だが、勇真比呂の記憶で知っているのだ。
おれは机の上に自分の鞄を置くと、開いた窓枠に手をかけて外の景色を眺めた。
放課後の校舎からは様々な音が聞こえる。
吹奏楽部の、管弦楽器を練習する音色。
サッカー部や野球部のランニングするときの掛け声。
野球部でランニングしているのは、1年生部員だろう。
グラウンドからはボールを打つ金属バットの快音が響いているからだ。
目の前の銀杏が邪魔で、実際の風景のほとんどが見えないのだが、これらの音で外の光景は何となく想像できた。
そういうことで、おれは外のことにずっと神経を向けていたので、生徒指導室の中に誰かが入ってきたことに気づいていなかった。
気づいたときには、「それ」はおれの背後に立っていた。
“Having never eaten this menu before, I ordered this.”
――『風の精霊よ、暴れて力を示せ』。
「バカな!」
おれは振り返ったが、強烈な風が顔を覆い、おれは目を閉じてしまった。
風の勢いはすさまじく、おれを簡単に窓の外へ放り出した。
冗談じゃない、ここ3階だぞ!
おれの身体は銀杏の木に激突して、何本かの枝をへし折った。
とっさに銀杏の木に手を伸ばしたが、目を閉じていたので正確に木をつかめなかった。
おれはピンボールのボールのように、銀杏の枝で弾みながら地上へ落下した。
墜ちながら生徒指導室を見上げると、かろうじてだが、麻条先生が冷ややかな表情で見下ろしているのが見えた。
――やはり!
そう思った瞬間、おれの身体はべちゃっと音を立てて地面にめり込んだ。
不幸中の幸いなのか、おれが落下したのは花壇の上だった。
新しく植え替えるために、草花は一本も生えておらず、柔らかく耕されていた地面がクッション代わりになったのだ。
背中やお尻が泥だらけになったが、それについて今回は何も言うまい。
「こん畜生! 夕飯にはまだ早すぎるだろうが!」
おれは英語の意味のほうにツッコミながら立ち上がった。
3階から墜ちた恐怖よりも怒りの感情のほうが優っていた。
おれは怒りに満ちた目を3階に向けた。
生徒指導室の窓からはカーテンがはためいているのが見える。
麻条美莉耶、いや、魔女ミリヤの姿はすでに見えなかった。
おれは土を跳ね上げながら駆け出した。
花壇をぐちゃぐちゃにしたことを謝る場合ではない。
一刻も早く、ミリヤのところへ行かなければならない。
おれは全速力で昇降口へ回り込み、靴箱が並んで間隔が狭いところを駆け抜けた。
ちょうど下校しようとしている生徒の何人かが、おれに驚いて棒立ちになった。
小さく悲鳴をあげる女子もいたが、とてもかまってはいられない。
おれは目の前で靴を履きかけている男子生徒の脇をすり抜けようとした。
少しぽっちゃりのメガネ男子だ。
しかし、少し目算を誤って、肩で相手を突いてしまった。
思わず“Done naught!(注:エクトラントの言葉で『すまない!』の意)”と謝って、そのまま階段口まで向かった。
土ですべりやすくなった上履きに苦労しつつ階段を駆け上がる。
こんなとき勇真比呂の身体は不便だ。エクトラントのおれは、こんな階段などひと飛びで駆け上がっていた。
今のおれは、2階の階段を昇り始めたところで息が上がり始めている。
階段の途中では朝霧翔真とすれ違った。朝霧はサッカーウェアの上下の姿だった。
いったい、その恰好で何していたんだ?なんて、ツッコんでいる余裕はない。
おれは無言で朝霧の脇を通り過ぎた。
朝霧のほうは、おれを見て不思議そうな顔を見せていた。
「あれ? お前、まだ生徒指導室に行ってなかったのか?」
「今、行くところだよ!」
おれは二段飛ばしで階段を駆け上がりながら答えた。
3階にたどり着くと、おれは一直線に生徒指導室へ向かう。
生徒指導室の扉は開いたままになっていた。
罠か?
おれは姿勢を低くして、さっと中をのぞきむと、すばやく顔を引っ込めた。
そして、再びゆっくりと室内をのぞき込む。
部屋にミリヤの姿はない。
この部屋で身を隠す場所は、掃除道具を入れる窓際のロッカーしかない。
しかし、いくらなんでもここに身を隠すとは思えなかった。
そこへ隠れたら完全に袋のネズミだからだ。
おれは廊下の左右へ視線を移した。すると、一番奥の壁の陰に長い髪がすっと隠れるのが見えた。
亜麻色の髪だった。
おれは反射的に駆け出していた。
あの壁の向こうには別の階段があるのだ。
髪が隠れた壁に到着すると、おれはその壁に背中をつけて、そっと様子をうかがった。
壁の向こうには誰もいない。
おれはその場へ足を踏み出した。
階段は上下に分かれている。
ミリヤがどちらを通ったのか、おれは判断に迷った。
逃げるのであれば下で当然なのだが、もし、おれを誘い込んで始末するつもりなら上かもしれない。
この上は屋上へ通じているのだ。
さっきでも、逃げるつもりなら簡単だったはずなのに、おれが3階に着いてから挑発するように自分の姿をちらりと見せていた。
あれは、おれが後を追うように仕向けるためじゃないのか?
バタンと扉が閉まる音が頭上から聞こえてきた。
「屋上だ」思わず言葉が口をついて出た。
やはりそうだ。ミリヤはおれを誘い出そうとしている。
おれは足音を立てないよう気をつけながら階段を昇った。
屋上に出る扉の前を過ぎると、おれは踊り場に立っているロッカーを慎重に開けた。
もちろん、音を立てないためだ。
ロッカーの中には水拭き用モップが立てかけられていた。
金属の留め具に雑巾を固定して使うものだ。
柄は木製だが太くて堅い。
金属の留め具も角の部分は武器になりそうだった。
少なくとも、この間自作した即席剣よりは頼りになる。
おれはモップを手にしたまま、壁を背につけて立った。
片手でノブに手をかける。
ドキドキと胸の鼓動で息が苦しい。
額にはさっき走ったことで流れた汗とは別の汗が流れだしていた。
そう、これは緊張から流れる汗だ。おれは緊張している。まるで何年か振りに戦うようだ。
身体の反応は、これが自然なのかもしれない。
この世界のおれはずっとケンカらしいこともしなかったし、武器を手に戦ったこともなかった。
まったく鍛えられていない肉体で、おれはどれぐらい戦えるというのか。
それに、これはいざこざやケンカの類とはまったくの別物だ。
扉を開けて踏み出した先には、命の奪い合いをするバトルが口を開けて待っている。
おれは思い切り扉を開け放つと、その口の中へ飛び込んでいった。
屋上の床にごろごろと転がると、すばやくモップを剣のように構える。
すばやく左右に視線を走らせたが、視界にミリヤの姿はなかった。
おれはゆっくりと腰を上げながら、ミリヤの姿を探した。
屋上は高い網状のフェンスに囲まれている。
生徒指導室では爽やかだった5月の風が、ここでは熱を帯びた風となって、おれの頬をなでている。
おれは額の汗をこぶしで拭った。
屋上にあるのは屋上緑化を兼ねた花壇。
ひじ掛け部分がゆるやかなカーブを描いている木製のベンチ。
校舎の何かの設備が収められているらしい白い鉄製の箱。
箱は開口部のないもので、持ち上げることもできないシロモノだ。
そこにミリヤが潜んでいる可能性はない。
あとは、おれが屋上へ飛び出した扉のある塔だ。
屋上からにょっきりと突き出した箱型の搭で、奥と側面の片方は外に面しているから隠れるスペースはない。
もう片方の壁はおれの視界に入っているが、そこにミリヤの姿がないのは確認済みだ。
残る隠れ場所は、塔の上に鎮座している巨大な給水槽だろう。
クリーム色をしたずんぐり胴の陰になら大人ひとりは隠れられる。
直接確かめるのなら、塔の壁に貼りついているパイプのはしごを登るしかない。
おれは、はしごに近づかなかった。
おそらくミリヤはそこで待ち構えている。
そんなところへ両手がふさがるはしごを登れば、相手の攻撃を防ぐこともできずに喰らってしまうこと請け合いだ。
今まで、おれは危険な勝負に挑んでいるつもりではあったが、無謀なことに手を出すつもりはない。
おれは違う角度から給水槽の陰を見ようと、扉の正面から壁の側面に向かって歩き出した。
歩きながら、おれは考えた。ここで手詰まりだ。相手を見つけたとして、おれにはミリヤを攻撃できる手段がない。
一方、ミリヤはおれを中距離から攻撃する魔法がある。
追い詰めているようで、ピンチなのはおれのほうだった。
それでも今、背を向けて逃げるわけにはいかないと思った。
その理由をわかりやすく説明できない。
ただ、この場から逃げ出してしまうと、おれは完全にエクトラントの勇者ではなくなってしまうと思っていた。
それこそ無意味な思考なのだろうと思う。
その無意味な思考に、おれはどこかすがる気持ちでいたのだ。
この数日の間おれを苛んだ『記憶』が、実は妄想でないという証拠が、今、おれの近くにある。
無茶をしてでも明らかにしたいのは当然の心境だと思う。
おれが角度を変えるにつれて、給水槽の陰にひとが隠れているのが見えてきた。
陰でまだ輪郭の一部しか見えないが、相手は長い髪とスカート姿の女だとわかる。
おれの心にわずかに残っていた恐怖は消えていた。
ついに真実が明らかになるという興奮が、おれを突き動かしているのだ。
ドキドキする気持ちを抑えながら、おれはついに相手を正面に捉える位置に立った。
亜麻色の髪。
胸の開いたブラウスからは、相変わらず大きな胸がこぼれそうだ。
腰に手を当てて、おれを見下ろしているのは麻条美莉耶――魔女ミリヤだった。
これまでと同じように冷ややかな目だったが、今度は溢れんばかりの殺意を隠そうともしない。
これほど肌がひりつく殺意を感じるのはエクトラントのときと同じだ。
奇妙なことだが、そのときのおれの心に湧いてきたのは『歓喜』だった。
“It's an honor to meet you.”
――ついに見つけたぞ――おれはエクトラントの言葉で言った。
モップを握る手に力が入る。
一方、魔女ミリヤは相変わらず冷ややかな表情で、おれを見下ろしていた。
ただ、小さく鼻を鳴らすと、「こちらも会えて嬉しいわ」と日本語で返した。