BlueBird 第73話 ~棘~
冷たい床。どこからか隙間風の通る音がして、僕の髪を、肌を、ぬるい風が撫でていく。
気づくと僕は、目が眩みそうなくらい白い空間で横たわっていた。どこからが床で、どこからが壁なのか瞬時に分からない。まるで立体という概念が失われたのかと疑うくらい、ここには陰が無く、やけに平坦な世界が広がっている。
そして辺りを見渡すと、僕以外の人間が誰一人見当たらず、気配すら感じなかった。
(ここは……皆は?)
「やあ、目が覚めたんだね。ツバサ君」
ほんの少し前まで人気を感じられなかったのに、突如声が聞こえ、振り返るとそこには見覚えある男が立っていた。闇に近い紫紺の髪を揺らしているが、それとは対照的に、こんな明るい空間にも関わらず光を放つ青い目を、彼は持っていた。気づくと僕の目もほんのり光っている。
「アラベル……」
「まずはここまでの活躍に、お疲れ様と言うべきかな。本当に強くなったね。最初の時と比べて、すっかり未来使いとしての自覚もあるようだ。最も、こうなる事を僕は最初から知っていたんだけどさ」
「最初から知っていた?」
どういう意味だろう。これもまた、僕の心を惑わせるための罠か。
僕は彼の言葉にこれ以上耳を貸さぬよう、自身が言いたい言葉を唱えた。
「アラベル、一体何が目的でこんな事をしているんだ? 影を利用して人々を襲い、再統合される世界の秩序をわざわざ乱すような真似して、一体何がしたいんだよ!? おまけに僕の家族や友人を巻き込んで……君は、僕に何をさせたいんだよ!?」
「その口ぶりだと薄々気づいているようだけど? けど、お望みと言うなら教えてあげるよ。君の知りたい真相とやらを」
皮肉のつもりか、彼はシュウヤと同じように長髪を一つにまとめ、いつもの敬語を忘れて気さくに話す。
僕は、今にも剣を振るいそうだったが、それもまた分かっているかのように、彼が不適な笑い声をあげるので、これ以上腕が上がらなかった。
「まずは記憶に新しい所から話そう。君が城で最初に訪れた書斎の件、あそこでわざわざ世界や未来使いにまつわる本を置いたのは僕だ。君はあの件について既に察していたようだから、その勘を確信へと導いたのさ。
次はゼロという執事の件、あれはユールの計画には無くて、僕が勝手に付け加えたんだよ。本当は、闇の階段で落ち瞑れて欲しかったんだけど、何せあの希望とかいうケダモノが邪魔だったからね」
「母さんをそんな呼び方するな」
「ああ、そうだね。彼女は君のお母さんだったね。全く自分勝手な人だよ。我が子にもう一度会いたいがために、生死の輪廻を抜け出した挙句、あんな形で君と接触するなんてさ。神への侮辱にも程がある」
「人間ってそういうものなんじゃないか? 自分の欲望のためなら、時には条理から外れるような行為に陥る事だってあるんだよ」
「君はどこまでも優しいね。君が彼女の立場だったら、ここまで勝手な事出来ない癖に。だってそれは、君自身の願いなのだから。それなら自分よりも、他人の願いを叶えて欲しいって投げ出すだろうさ」
「知ったような事を……」
「いやいや知っているんだよ。僕は、その辺りについても全て知っている。君の意思、君の信念、そして今君が抱いている恐怖も……僕は、最初から知っているよ」
「へえ……何でかな? 君とは少なくとも、シュウヤやカノン、ペロよりもずっと会っている時間が短いはずだけど、どうしてそこまで自信を持って言えるのかな? それこそハヤテみたいに、尾行していたとか?」
「いやいや、僕はあんな悪趣味な事しないよ。それよりもずっと巧妙かつ確実な手口さ」
気持ち悪い。大体、僕の聞きたい所から話が反れている。真相をはぐらかす上に、そんな気持ち悪い返しをされてしまったら、いくら他人思いと賞される僕であっても、堪忍袋の緒が切れそうだ。大体彼には、前科があるから、他人といっても例外の他人かもしれない。
いい加減ここから抜け出したい気持ちに駆られたと思うと、彼の目が僕の視線を奪うように眩く光った。
「僕はね、君と同じ『未来使い』なんだよ」
「…………え?」
未来使い――彼の口からその言葉を聞く事は幾度かあったが、今回は意味がまるで理解出来ない。
彼は自分自身が未来使いだと、言ったのだ。僕ではなく、自身の事を未来使いと称し、そしてその証拠と読める発言を、今までに何度も唱えていたのだ。
僕は息を飲む。だが、信じるのを拒むように、僕の喉はなかなか動いてくれない。
「どういう事だ? 君が僕と同じ未来使いって……」
「分かっているじゃないか。付け加えると、本来一人しかいないはずの未来使いが、二人いるんだよ。それが、君と僕って話さ。僕は最初から君が未来使いに選ばれ、そうして旅を繰り返して、ここへやって来る事を最初から知っていた――予知していた。そしてこれから起こる事態も、僕はある程度見据えている」
「それは……?」
「いい加減とぼけるのは、やめたらどうだい? 君だってもう、知っているんだろう? 本来いるはずの無い未来使いがいて、そのせいで世界に『歪み』が起きる。そしてその歪みと解くために、君が――」
――命を散らすんだよ。
知っていた。僕は知っていたんだ。
だからこれ以上進むのが怖くて、ペロが目的を反らさぬよう訴えるのに応えて、カノンにあんな言葉を愚痴ったんだ。今更驚くような事ではない。分かっている。
けれど、それでも僕は怯えていた。彼に向けていた剣は、気づくと僕を守る盾の代わりとなっている。だが、こんな玩具みたいな武器で、彼の攻撃を防げるはずなかった。そもそも、彼の攻撃はどんな強靭な武器でも簡単に壊され、貫かれてしまうものだ。
彼の言葉は、どこまでも僕の心に届いてしまう。
「君は、自分の死をいつからか夢で見ていた。それは紛れもない未来予知であり、未来使いが予知した未来は必ず実現する」
「違う……」
「君はその死から逃れられず、おまけに自分が今までやってきた善行が、全てその未来を実現させるための要素である事にも気づいている。確かに僕は影を生み出したが、それは人々を襲わせるためではなく、他ならぬ君が歪みとして完全体になるのを促すためだったんだ。それも君は、ある時から気づいていた。止めたかったけど、体が言う事を利かなかった」
「違う……!」
「君は、自分の体が限界を訴えていても、無理して戦った。あれは、紛れもなく君が歪みとしての認識を高め、己の意思を棄てたからだ。君はもう、自分が自分でない事を知っているんでしょ。君は、僕の影に完全に侵食されたんだ」
「そんなはず……ない!」
「少し前までは幸か不幸か、君の探していたお兄さんがその影を払ってくれていたんだよね。君が完全な影と化すのを、無意識のうちに防いでくれていた。でも、その守りも今はもう無い。君を君として守ってくれるものは、今どこにも存在しない」
「!!!」
「君は、君こそが、皆の恐れる影の親玉なんだよ。偽の未来使い君」
僕の抵抗も虚しく、足元から急に伸びてきた透明な何かによって、僕は壁に押さえつけられ、身動きが取れなくなる。
アラベルは目を細めて舌なめずりをすると、手を後ろで組みながらゆっくりと近づいてきた。
「未来使いが使う未来予知というのは、あくまで危険予知が主であって、常に使えるものではない。つまり、命に別状が無い時は、なかなか発動してくれない。不便だよね」
「ぐあっ……!」
「そして……これは、気づいているかな? 未来使いの力というのは、あくまで時の力であって、光ではない。つまり、君はいつでもこちら側に入れるんだよ」
「誰がお前なんかに……!」
「ご安心を。もう君は影の存在だ」
「ああああああっ!!!」
僕の脳裏で、彼と最初出会った時の記憶がよみがえる。
あの時と同じ。眠りから目覚めて、彼が意味深な事を言った後、僕はこうして彼に首を掴まれたんだ。
しかも今は両手が透明なものによって拘束され、抵抗すら出来ない。
僕は呼吸がままならない中、かすれた声で悲鳴をあげた。次第に視界は闇のオーラによって真っ暗になる。
彼の不敵な笑みを最後に見た事が、僕にとって何よりも嫌だった。
――……それで終わり? 君はここで死ぬのかい?
誰かが僕に問いかける。
――何もかもあいつの思惑通りで、自分の運命を転がされて、それだけ苦労した末に、君はあっさり死ぬのかい? 何ならあの時——あれだけ痛い目に遭って、心を壊されて、漸く治ったと思ったらそれもめちゃくちゃにされて、挙句の果てに君が思っていた事全てが偽物だったら、君は一体どう思うんだい?
どうも思わない。似たような質問を、いつかどこかでされたような気がするが、あの時と今の答えは少しも変わっていない。
すると、僕に似た声の誰かが、再び話しかける。
――憎くないのかい? 悔しくないのかい?
この世の全てを恨んだり、自分みたいに辛い思いをしてほしいって思わないのかい?
思わない。そんな事をしたら、それこそ、あの文書に書かれていた事の再現になる。
未来使いは決して死神じゃないし、少なくとも僕はそんな事しない。
――……何も思わないのか?
何も思わない。
――自分以外のものを恨まないのか?
思わない。
寧ろ、この運命を変えられなかった自分の無力さを恨みたいくらいだ。
――……そういうところがムカつくんだよ。
「え……」
目を開けると、さっきと同じ白い空間。だが、どうやら場所は違うらしい。
壁が不自然に歪み、さっきまで笑っていた彼の姿も見当たらない。そして何よりも、少し離れた所に、本来こんな床の上で生えるはずの無い花が、つぼみを膨らませてそこにあった。
僕はそれ以外に気になるものがないので、花の元へと歩み寄る。
白い花びらに、黒い茎……一体何の花だろうか。
違う角度からも見てみようと、僕はそっと花に触れる……が、その直前に突如僕の手首に激しい痛みが襲いかかった。床を突き破って伸びた棘のある蔓が、僕の手に絡まり刺してくる。かなり大きな棘が幾つもあったので、僕の手からは血が流れてきた。
だがその血は下へと滴り落ちず、何故かふわふわと浮かびながら花の方へと吸い込まれていく。
そして、花は僕の血を吸うとゆっくり開花し、内側から眩い光を放った。
「!?」
あまりの眩しさに僕は思わず目を瞑る。その時にはもう、蔓は僕の手に絡まっていなかった。
光が弱まると同時に目を開けると、花は消えて代わりに白い衣をまとった少年が浮かんでいた。
しかもその少年は、僕と全く同じ顔をしている。
「なっ……!?」
僕よりも少し黒っぽい茶髪に、変わった癖毛、彼が目を開けると、その目は緑と水色の二層になっている。もう一人の僕は不敵な笑みを浮かべた。
「あ~、やっと自由になれた。退屈のあまり死んじゃうかと思ったよ」
「……?」
「でも、あれだけの量じゃ手足までは作れないんだな。というわけで、あんたの腕ちょうだい」
と言いきる前に、彼は僕のそばへと急接近し、袖から伸びてきたいばらの蔓を、僕の腕に絡めてきた。
抵抗する事も悲鳴をあげる間も無く、僕は自身の手が彼の元へと移っていくのをただ茫然と眺める。もう一人の僕は、離れていった僕の腕を自身のあるべき部位に近づけ、棘を血管の如く繋げて我が物とした。
「で~きた! あ~、やっぱ手があるのと無いのじゃ全然違うね」
彼から解放されると、僕は膝を崩し、残された方の手で必死に肩を押さえる。
何故か血は流れていない。それどころか、まるで最初から腕が無かったかのように、外された部分の皮膚は傷一つ無かった。そして、ショックで倒れてもおかしくないくらいの激痛も感じなかった。
頭がグルグル回る。もう訳が分からない。
「あれ、もしかして泣いてる? いいじゃんか、君は腕が二本あって、僕は無かったんだ。これで平等だろ? ああ、この流れだと君から足も片方貰うはずなんだけど、僕はこの通り浮けるから別にいいよ。寧ろここで君の移動手段を奪ってしまったら、不平等になっちゃうしね」
「君は……一体?」
「さあな。僕の心から生まれたドッペルケンガーとでも言えば、聞こえはいいんじゃない?」
彼は僕から奪った手を胸に当て、わざとらしくお辞儀をした。すると、彼の背中から漆黒の棘で出来た翼が生えてくる。美しさと同時に畏怖を放つ棘のそれを見て、僕は「いばらの自分」と勝手に名付けた。
もう一人の僕はケラケラと笑いかける。
「別に恨みは無いけどさ。何もかも自分のせいにして、自己嫌悪だの自虐だのに走るあんたの考えには、心底ムカつく。だから、ちとばかし付き合え。八つ当たりとは何なのか、憎しみや妬みが何なのか、お前に無い感情について、僕が思う存分体教えてやるよ!」
片手と片手。僕と僕。
対称的だが対照的な自分に、僕は困惑を、もう一人の僕は嘲笑を浮かべる。
そこから互いの思いが、優しく結びつくような事は起きなかった。
棘は絡まると痛いのだ。