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09 灰白色の手記

 目を覚ました時、僕の目の前にあったのは、壁とロッカー黄ばんだソファーだった。いや、正気に戻った時と言った方がいいかもしれない。

 この光景には見覚えがある。それは長らく遠ざかっていた記憶。

そうだ。今、僕は、バイト先の控え室で立ちすくんでいる。こもった空調の音だけが、僕の耳で反響していた。

 後ろにある鏡を覗いてみる。そこには、白いシャツに黒のチョッキ。そして蝶ネクタイを付けた野郎が居る。それは紛れもなく僕。バイト先で衣装を着込んだ僕だ。これは日常の風景……。

 混乱していた。

 自分の手のひらに目をやる。この手に、僕は大切なモノを掴んでいた筈だ。ねえさんの華奢な指を絡め、解けぬように握り締めた筈だ。

「あっ! ホーケー野郎!」

 ふいに背後から浴びせかけられた罵声。これも記憶にある声。朱美嬢だ。

僕は、振り返りざまに蹴りつけられる。いきなり理不尽だ。痛いじゃないか。それにパンツは紫だ。

 これは紛れも無く現実だった。

 無意味に、蛍光灯を見上げながら記憶を辿る。

 なら、あの糸瀬河内での、ねえさんとの生活は夢だったのか? 僕の長い長い妄想だったというのか? ねえさんの言った通りなのか?

 朱美を無視して、ぴゅうたんを探す。周囲を見渡し、棚の雑誌をひっくり返し、奥の机の引き出しを引っ張り出すが、何処にも存在しない。

「なあ、俺のぴゅうたん知らないか?」

「何、それ?」

 もしや、ぴゅうたんまで妄想だったというのか……。

 気が遠くなり、その場に座り込む。ぴゅうたんまで存在しないとなると、あの世界の証明どころか、すべてが完全に妄想であると裏付けることになる。

 あの穏やかな日々も、僕にだけ晒してくれた心の最深部も、すべてが妄想だったというのか。

「――ああ、もしかして、あの玩具の事かい? あれなら、あんたのロッカーに入れて置いたよ」

 即座に立ち上がり、僕はロッカーを開けた。そこにはぴゅうたんがあった。

 僕は、安堵し、ぴゅうたんを手に取った。だが、ぴゅうたんは、電源入れても起動する事はなかった。

 すべてのキーであるぴゅうたんが、動作する事を止めた今、すべての希望はついえたのだ。

「そんな馬鹿な……」

 またもや気が遠くなった。あの妄想を、甘く切ない不思議な思い出として、僕は心に留め青春の一ページを飾るのだろう。

「ねえ、聞いてるの? あんた、仕事もほったらかしで家にも帰らず、一体何処ほっつき歩いてたんだか。バイト風情が横柄なんだよ」

 黙ってくれ。相変わらずうるさい女だ。お前は、確かに巨乳で美人さんだが、僕のねえさんに到底叶わないんだ。しばらく感傷に浸らせてくれてもいいじゃないか。

「あんたさ、一週間も連絡もせず何やってたのさ!」

 その言葉に、僕は一瞬にして意識を現実に戻すと、朱美ににじり寄った。そしておもむろに、ぴっちりとした朱美のタイトスカートの裾に手をかけ捻る。

捲れた生地の下には、ガーターベルトとストッキングに飾られた、ゴージャスでパープルなパンチーが見えた。

 ふむ、確かに、けしからん紫パンツである。

「きっと、妄想なんかじゃないんだ!」

 記憶が正しければ、例の世界を経験する直前の朱美は黒パンだった筈だ。だから、あれから時間が経過しているというのは事実。

 やはり僕は、朱美の言葉通り、一週間の時間を何処かで過ごしていたのだろう。

「お前は、普通に妄想と現実の区別をつける事も出来ない可哀想な子なのか!」

 朱美の足の甲が、僕の股間を叩き上げた。

「計五十本だ」

 僕は、それから十分ほど床に這いつくばって、内臓をえぐられる痛みに耐えた。だが、きっとねえさんの痛みに比べれば、カスも同然。そう考えると、笑みすら浮かべていられた。



 一週間もの時間、僕は、失踪していたのは事実だった。あの後、色々と確認してみたから間違いはない。

 それに、あの世界で読んだ漫画や本、読みふけった資料の記憶も、間違っても妄想では得られるものではない。同じ本を買って確かめてみたが、それらは明らかに一致していた。

 そこまで調べると、僕は家に引きこもった。

 それらの根拠をシンプルに捕らえるなら、僕は、あの閉鎖空間で生活したと結論付ける他ないんだ。あのリアルで長い二人きりの生活を、どう考えても妄想だとは思えない。

 確かに、もっと複雑な現象に巻き込まれている可能性はある。だけども、それ以上踏み込んで考察したところで、自分の精神までも疑わなければならなくなるのは分かりきっている。

 僕は、それ程利口じゃない。そんな不衛生な考察は、精神科医か哲学者に任せればいい。

 どちらにしても。一週間も妄想に耽っていたと考える方が不自然だと、僕は判断した。

 確かに、もっと今以上に検証のしようはあるかもしれないけど、あの世界の事を誰に理解して欲しい訳でもない。あの世界を、自分自身が納得できればそこで僕の意欲は当然消えうせる。

 僕が証明したかった相手は、ねえさんただ一人だったのだから――。

 きっと、これ以上思い悩んだ所で、僕の結論は変わらないし、それが何を生むわけでもなかった。

 ため息を付きながら大盛りカップ麺、味噌味をすする。

 どの道ぴゅうたんが壊れた以上、あの世界には二度と行く事はできない。そうでなくても、あの偶然が起こるかどうかも分からないのだ。

 僕は、もう、ねえさんに会うことが出来ない。

 あの世界で交わしたねえさんとの心のつながりは、断ち切られ、確認する事も継続することも叶わない。

 つまり僕は、ねえさんの願いに対して嘘をついたということだ……。

 ねえさんとの記憶を持っているのは、二千十八年のここに生きる僕でしかない。 そして、二千十八年のここには、もうねえさんは生存し得ないのだから――。

 なのに僕は、一時の思いでその心に触れたのだ。ねえさんの思いに答える事など出来やしないのに。

 美味しくもないカップ麺を半分ほど食った所で、僕は、箸を置き寝転がった。 一つゲップを吐き出して、側に放り出してある壊れたぴゅうたんを見る。

「つくづく、僕は駄目な奴だよな……」

 すべてが妄想だと考えた方が、よっぽど気楽だった。

 僕は、そのままごろごろと寝転がり、額と体を壁に張り付けた。やっぱり隅っこに埋もれるのが落ち着く。

 それから、更に三日間僕は、家から一歩も出なかった。

 誰とも話したくなかったし、何もしたくなかった。食事をすることすら億劫で、トイレに行く以外、ただ、ねえさんの事を考えていた。考えていたというより、後悔の思いにさいなまれ続けていた。結構ウジウジする方なんだよね……。

 でも、もうそこに月末が迫っていた。

 もっと、引き篭もって居たかったけど、そろそろねえさんの部屋を引き払う必要があったんだ。

 やっとの事で重い腰を上げた僕は、掃除用具一式を持ちねえさんの部屋に向かう事にした。



 電車を乗り継ぎ、弥生駅の側のコンビニで二リットルサイズのお茶を買う。鬱だったわりに、足取りはそれほど重くなかった。

 あの部屋は、唯一、ねえさんの空気を感じられる場所だったからだ。

 パシフィックプラウド弥生入り口の警備員が、また僕を止め、根掘り葉掘り聞いてきたけど無視した。そんな気分じゃないよ。

 部屋に入ってすぐ、部屋中のカーテンと窓、扉を開け空気を入れ替える。

 そして、ベッドの布団をテラスに干し、部屋中の埃を拭き取り、窓の汚れをスクイジーで洗い流した。僕は、掃除屋でバイトしていた事もあり、ちょっとばかりこだわりがある。

 二時間かけて、ねえさんの部屋を丹念に磨いた。

 フローリングもシンクも窓も光沢が戻る。ぴかぴかだ。本当に気持ちのよい瞬間。まるで、ねえさん自身が生き返ったような錯覚を覚える。

 ねえさんの微笑みを貰ったような気がして、僕の気分は少し晴れた。

 一仕事終えた僕は、心地よい風が吹き込むテラスの前に陣取り、冷蔵庫で冷やしていたお茶をがぶ飲みし、タバコを一飲みする。そのままフローリングの上で横になった。

 もし、万が一、もう一度ねえさんに会えるなら、今度は、すべてを話すのに。

 自前のバッグの中から、壊れたぴゅうたんを取り出し、もう一度電源を入れてみる。もしかしたら、動き出すのではないかと思えた。

 だけど、ぴゅうたんは、無機質な表情のままで動く気配は無かった。

 僕は、小さなため息をつく。

 それから暫くテラスから外の景色を眺めた後、ねえさんの残りの荷物に取り掛かった。

 クローゼットの衣類、食器類、ラックの専門書類、などを分別しつつダンボールへ詰め込んでいく。

 そして、寝室にあったキャビネットの中身を取り出していた時、僕は、ねえさんの手記を手にする事になる。それは、A四ノート二十二冊にも渡りびっしりと書き込まれていた。

 日記様式のノート十八冊、残りの四冊は雑記や研究日誌のようなものだ。

 興味をそそられた僕は、雑記を手に取る。

 そこには、携帯コンピュータについて調べた内容が纏められていた。例の助教授のノートとやらから引用した内容と共に、考察が書き加えられている。

 専門的な言葉が多くて適当に読み飛ばしたが、どうやら、この携帯コンピュータには、出所不明な特殊なチップが組み込まれていて、ねえさんは、それが元で妙な事が起きていると解釈したようだ。

 まず、チップがありき、例の助教授が、科学哲学の要素をそこに組み入れた。それが、こいつの正体らしい。

 更に読み飛ばし最後の方のページを捲る。

 すると一年と少し前の新しい日付で、ある検証内容が追記される様な形で記されていた。

 それは、僕があの世界でねえさんに説明したEMOS構文についてだ。

 そこでは、ぴゅうたんのROMを解析して抽出した結果がまとめられ、EMOS構文に必要なパラメータ等が羅列されていた。それらのパラメータは僕が知りようのなかったものだ。 

 ねえさんは、それだけでなくEMOSを何度も実行させ時間をさかのぼり、それらを検証した内容と、プログラムソースを書き記している。

 実に細かい作業だ。

 そして最後に、時間をさかのぼった先で事象を捻じ曲げても、現在には影響が無いと結論付け、結果的にCissus関数と同様、EMOSで現実世界への干渉は観測できない。やはり、実行者の意識への干渉と考える方が自然に思えると、まとめてあった。

 僕は、軽く目を通した後、ノートを閉じる。

 確かに検証内容は興味深い話だが、今の僕には、どうでも良い事だった。

 僕の凡庸な食指は、高尚な現象の探求ではなく、その現象の結果にしか向かない。EMOSの検証結果など、ぴゅうたんが壊れてしまった現状では、全くの無意味だと分かっているからだ。

 しかし、それでも僕の頬は緩んでいたと思う。

 あの世界で僕がねえさんに語ったEMOSについて、こうしてねえさんが検証し記しているという事。

 それは、あの世界から続く流れのようなもので、僕はそれをおぼろげに感じたんだ。

 だから、もっと、確かめたくて僕は、残りの手記を手に取る。

 一番古い日付は十三年前指していた。これは、ねえさんが十六の時、僕と出会う一年ほど前から書かれていたものだった。

 ねえさんに悪いとは思いつつも、ページを捲った。

 だがその手記は、恨み言から始まる。書かれる内容は、僕の想像を遥かに超えていたんだ。

 どうして何時も自分ばかりが、不幸に見舞われねばならないのだろう――。そう書きなぐられ、始まるその文章は、感情ばかりが先走る激しい内容。

 どのページを捲っても、ねえさんを取り巻く腐った糸瀬河内の情景や、受けてきた理不尽な仕打ちが克明に描かれる。

 そこに書かれる内容は、あの世界でねえさんの口から聞いた話を表わしていた。それらは、間違いなくあの世界と現実を繋ぐ絶対的な証だった。

 けれども、そんな事を確かめたいと思う気持ちなど一瞬にして吹き飛んでしまう程、痛く苦しい内容だった……。

 ページをめくる度、僕の胸は怒りと悔しさと悲しみで、締め付けられた。

 ねえさんは、僕と会うずっと以前から継続的に虐げられ、その悪夢は、僕と知り会った以後も続けられていた。

 一緒に虫取りした日、一緒にカレーを作って食べたあの日の夜、一緒に歌ったあの後も辱めを受けている。僕に優しく微笑んだねえさんは、こんなにも酷い目にあっていたのだ。

 本家に疎まれるという事は、特に糸瀬河内では、世界に否定されるに等しい。糸瀬河内とは、本当に異常な世界だ。腐った世界だ。

 僕は、自分の血を恥ずかしく思った。

 ねえさんが、あの世界で僕に伝えたのは、ほんの一部にすぎなかった。ねえさんは、日常的に苦しみを味わって生きていたんだ。それは、僕ならきっと耐えられない程のモノだ。

 激情を堪え読み続ける。どんなに酷く凄惨な内容でも、目に焼き付ける義務が僕にはあると思ったからだ。

 そして――、二千七年の十月十六日の日記にたどり着いた時、僕は肩が震えた。

 そこで、ねえさんが酷い目にあっていたからじゃない。

 僕は、自分の犯した罪に震えたんだ――。

 二千七年の十月十六日。それは、ねえさんが、僕に弱音を吐いたあの日。崖前で『ここから飛び降りたら楽になれるかな』と言ったあの時の事だ。 

 あの閉鎖世界で取り戻した記憶の一部始終が、そこには書かれてあった。

 僕はあの時、ただ泣きじゃくりながら何時もとは違うねえさんを引き止めた。でも本当は、それだけの事じゃなかった。あの日は、ねえさんにとって、いや、僕にとってとても重要な出来事だったんだ。

 頭の中で抜け落ちていた重要なピースがはまり、痛い記憶を繋ぎあわす。

 脳が揺れる。

 何故、こんな大切な事を忘れてしまっていたんだ。

 あの時、僕は、ねえさんに約束したんだ……。

『僕がねえさんをずっと守るから』と。

 フラフラと立ち上がり、意味もなく外の夕暮れを見続ける。

 ねえさんはその日の事を、文章の中で嬉しそうに語っている。あの後、忠に陵辱された事など、どうでも良い風に感じられる程に……。

 ねえさんを引き止めたのは、僕のその言葉だったのに。

 それなのに僕は、守るどころか相変わらずねえさんに庇護されるままで居続けた。それだけじゃない。その言葉の大切さを理解しようとせず、あろう事か忘れてしまったんだ。

 僕は、こんなにもねえさんを裏切り続けていた。

 脱力するように座り込んだ僕は、しばらくそのまま動けなかった。

 デジタルの置時計から、何の特徴のないアラーム音が幾度か通り過ぎて行き、明かりのない部屋は、完全な闇となる。 

 何時しか時計は、二十一時を指していた――。

 耳に入るのは、二十一時ちょうどを知らせるジムノペティの音色と、遠くから風に乗って届く列車の走る音。

 暗闇の中、手記を閉じる。

 そして立ち上がって、ねえさんのその手記をバッグに詰めた。

 何をすべきなのかなんて、僕には分からなかった。それでも居ても経っても居られなかった。 

 着の身着のまま駅に向かうと、僕は夜行列車に乗り込んだ。

 列車に揺られながら、夜通しねえさんの手記を読み進める。そして、十七冊目の途中まで読み終えた時、僕の心は決まっていた。

 手記をまとめバッグにしまった僕は、そのまま意味も無く外の暗闇を眺め微睡んでいった。

 翌朝、名古屋駅に到着した僕は、矢継ぎばやに山陽行きの列車を乗り継ぎ電車に乗り換え、正午過ぎには久米平市、糸瀬河内にたどり着いた。


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