08 僕の世界、ねえさんの世界
あの一件をきっかけに、僕とねえさんは、今まで以上にべったりになった。
今までも、そこらの恋人同士よりは、一緒に居たことは確かなんだけど。大体は思い思いの事を好き勝手にやっていただけで、言い換えれば、空気の様な間柄だった。
それが、顔を合わせば、どうでも良い無駄口を叩きあい、何かと一緒に行動するようになった。ねえさんも、一人の世界に篭って本を読みふけるのを止めたし、僕も漫画や一人用のゲームはあまりやらなくなった。
おそらく、ある共通意識が僕たちの心に生まれたからなのだと思う。
それは、この唯一無二の刻を一緒に楽しむ事。お互い、口にはださなくとも、そう思っていたに違いない。だから、暇さえあれば、互いがアイデアを出し合い、二人で楽しめる何かを模索した。
時には、二人で近所の商店街へ足を運び、ウインドウショッピングの真似事をし、ある時は、一軒しかない映画館の映写室を乗っ取ると、互いが交代にホストとなって好きな映画の上映会を開いたりもね。
思いつく限りの方法で、二人の時間を構築していった。
その中で、僕たちは、あの秘密基地をもう一度作りあげる事にしたんだ。
僕たちは、秘密基地の前庭で生え放題の雑草を抜き、周辺の瓦礫を取り払い、外壁はデッキブラシで磨き、玄関から正面通路の床を掃きあげ水拭きする。そして、僕たちの住処である角部屋の和室は、相当の時間をかけて念入り磨き上げた。
その間ずっと、わくわくしていた。
もちろん、出来上がった部屋を想像する事で高揚したのもある。
だけど、それだけじゃない。もう一度、ねえさんと共同作業で、この秘密基地を一から構えられる。
それは、僕にとって何事にも変えがたい喜びだった。
昔と同様に、畳は僕の家の倉庫から持ち出し、ちゃぶ台は本家の蔵から。そして、他の小物は、ねえさんの家から調達した。最後にソファーを拭き上げ修繕して定位置に据え置く。
僕らの秘密基地はもう一度完成したんだ。それは、まるで現実で作りあげたそれをトレースするようにして。
秘密基地は、僕らの新たな居場所に加わった。
それから、この狭い秘密基地が僕らの生活の大半を占めるようになる――。
このような当たり前な生活をどうして最初から、選ばなかったのだろう。そうすれば、こんなに簡単に穏やかで居られたのに。
満ち足りていたと思う。ここから出られなくても良いとさえ思えるよう程に。でも、そうなって初めて僕は、怖くなった。
果たしてこの生活は、永遠なんだろうか……。
世の中に永遠なんてものは無いという。それが、不思議なこの閉鎖世界に当てはまるかは分からない。けれど、物事には始まった以上終わりはあるんだ。
誰かが言ったっけ、終わらない線香花火なんてつまらないってさ。
秘密基地のお気に入りのソファーで漫画を読みながら、そんな事を考えていた。
気になって、正面の座椅子で本を読むねえさんに目をやると、僕の視線に直ぐに気がつき「なに?」と微笑み返してくれた。だから――、今は、このままでいいんだと僕は思う。
こうやって以前と同じ事をしていても、ねえさんと共にある事を肌に感られる。この雰囲気程、心地よいものは無い。
余計な考えを振り払い、僕も微笑んで返した。
そんなやりとりの後に、ねえさんは、孫子の兵法書を閉じた。そして、唐突に二千十八年の世界の事を聞いてきたんだ。
「前に話さなかったっけ?」
「話してくれたけど、もっとあるでしょ。未来がそんなに単純だったら詰まらないじゃない」
ねえさんにとって、それは他愛もないじゃれあいの一つだったんだろう。
だから僕は、元の世界に戻ったら僕の話をネタに一儲けする気じゃないのか――とかフザケながら要望に答える。
空前のシマウマブームになって、町中ゼブラだらけになった話とか。黒人ハーフ五人組のアイドルユニットが大ブレイクして、世の男共を虜にしてしまうとか。 投影式のディスプレイとキーボードを搭載した手のひらサイズの箱型コンピュータが発表されたとか。
これが地雷原に進む曲がり角だとは知らずに。
ねえさんは、僕の話一つ一つに感心したり、顔をしかめたり、あり得ないと笑ったりした。
そして、僕がよもやま話を終えた時、ねえさんはこう呟いた。
「私は、そのころどうなってるのかな――」
突然の事に、息を呑んだ。僕は、その問いに対して答えるすべを知らない。
近い将来、ねえさんは心を壊す事になり、誰にも見取られず病死してしまうなんて……。
ねえさんの顔から笑みが、ゆっくりと消えていくのが分かる。
聞こえない振りをするとか、微笑みながらはぐらかすとか、即座に対応できていれば、何とかやりすごせた筈だった。
でも僕は、言葉も返さず表情を止めてしまった。それは、ほんの数秒だったとは思う。
その数秒は取り返しのつかない時間だったのだろう。
聡明なねえさんは、僕のその間から多くの事を悟ったのかもしれない。
自分の失態に気がついた僕は、外の夕日を見る振りをしてねえさんから背を向けた。
それでも、その時の僕は、まだ取り繕えると思っていた。
だから、この空気をごまかそうと、咄嗟に思いついた話、この秘密基地にまつわる思い出話をする事にしたんだ。
「ねえ、ねえさん。覚えてる?
前に一度、僕たちがこの廃墟で遊んでいるのが、所有者に見つかって本家筋で問題になった事があったでしょ。あの時、何も咎められずに事が済んだのには訳があったんだよ……。
あの頃、一度だけ秘密基地に忠叔父さんが来た事があったけど、あれは、建物と僕たちの様子を見に来てたんだって。
それで、大丈夫だと判断した叔父さんは、あの建物と土地を買い取って、僕たちの自由にさせてくれたんだよ。
この話を後で聞いた時は、驚いたよ。あのケチでお高いおじさんが、意外だよね。人は見かけによらないってのはよく言ったものだよ――ね」
振り返った僕は、言葉を呑んだ。
僕の目に映るのは、空ろな目をしたねえさんが唇をわななかせる姿……。
「何が見かけによらないのよ。何が見かけによらないのよ……。あんなゲス野郎、見かけよりも酷いわ」
ねえさんに一体何が起こったのか分からなかった。だから、どうしていいのかも分からない。
とにかく、ねえさんをなだめようとした。
「どうしたの、ねえさん。そんな事言って、ねえさんらしくもない。僕も、叔父さんは好きじゃないけど、そこまで言わなくてもさ……」
すると、ねえさんは立ち上がり、
「――何をどうしたら、わたしらしいの? 忠の事をゲス野郎というのがわたしらしくない?」と言った。
視線が絡みつく。僕は、言葉を返すことが出来ない。
「じゃあ、ゲス野郎の事を本気で殺したいと思っているわたしは、どうなるのかしら……」
ねえさんは、頭を垂れ自嘲する様に笑って見せると、部屋から立ち去ろうとした。僕は咄嗟に追いすがりねえさんの腕を掴む。
「――どうしたんだよ、ねえさん」
その腕は小刻みに震えていて、僕にはそれをとめることが出来なくて。
「うークンはね、私が本当はどういう人間なのか知らないのよ……」
そんな事はない。ねえさんの事は、僕が一番よく知っている――筈なんだ。
「ねえさんは、ねえさんだよ。頭が良くて強くて優しい、僕の自慢のねえさんだよ」
ねえさんは振り返る。
その表情が、崖先で見せたあの時のものと重なった。
果たして僕は、ねえさんのすべてを分かっていると言えるのか。ねえさんの心の影を僕は、ずっと見て見ぬ振りをしていたのではなかったか。
「うークンはわたしの事を分かってない……私はね、そんな大層な人間じゃないよ。それどころか、私の心の根はとっくに腐っているもの」
何かを吹っ切ったかのように穏やかな声だった。僕は、ねえさんの腕から手を離していた。
乾いたため息を一つ吐き出したねえさんは、淡々とこういった。
「わたしがどんな人間か教えてあげる……」
呆然と独白を聞く事しか出来ない。
それは、ねえさんの心の影からずっと目を逸らし続けた罰なんだろう。
「――わたしはね、あのコンピュータに入力した内容が実現する事が分かった時、喜び勇んでこう望んだの。
最初に、平実忠の死を。次にね、平沼義光の死。平沼貴子の死。平実系一族の消滅。そして糸瀬河内の消滅をね……。
所詮、こんな人間なのよ。
もし、あのコンピュータが本物だったら、とっくの昔に、うークンもこの世界も亡くなってるんだよ」
そう言って冷めた表情のままアハハと笑った。
ねえさんの表情と態度は次第に狂気じみたものへと変貌していく。
その姿は痛々しくて、僕の心は不安に掻きむしられる。本当は、すぐにでもねえさんを止めたかった。それでも、僕は聞かなくてはならないんだ。
「皆、必死で隠していたけどね、実をいうとわたしは平実卯之助の子だったのよ。わたしの両親、平沼義光、貴子夫妻は本当の親じゃなかった……」
平実卯之助とは、本家の忠叔父さんの祖父に当たる人だ。
久米平市を基盤に幾つもの事業を成功させ、政界や財界に太いパイプを作りあげた。落ち目だった平実家を再び磐石にさせた功労者だった。ただ、女癖が悪くスキャンダルには事欠かなかったのは公然の秘密になっている。
その卯之助は、八十越えた頃にホステスの愛人を作り、そしてその愛人は子を宿した。卯之助の死後になってホステスは、膨らんだ腹と卯之助の遺書を持って糸瀬河内に現れたという。
遺書は、卯之助がボケた後に書いたものだった。だから、当然、本家としては、女の言い分を安易に認める事など出来る筈がなかった。
その後、遺産をめぐり平実本家と裏で数年間やり合い、表沙汰にしないよう誓約書を書かせた上で、大金を渡して決着をみた。
そして、金を手に入れるとすぐに女は、生まれた娘を捨てて何処かへ消える。
その残された娘というのが、三二美ねえさんだったというのだ。
これも表ざたにならない、平実家の黒い歴史なのか……。
「そんな……」
「この事は、誰も口にはしないけど一世代前の平実家の者なら誰でも知ってる話よ。簡単な話、この私は、居てはならない人間だったの。
だから、忠を中心に本家の人間に疎まれ、糸瀬河内に住む他の大人たちにも疎まれ、毎日顔を会わせる戸籍上の両親さえも、まるで嫌な物を見るような目つきで見たわ。
何が三二美よね。誰が名づけたのかしら、笑っちゃうでしょ? 親にすら愛されてもないのにね」
冷笑が建物内に反響した。コンクリートで増幅されたねえさんの笑い声は、いかにも機械的な音質となり僕を一層、不安にさせる。
何も知らなかった。ねえさんの不幸な出生も、不遇の境遇も……。
僕の心は、折れかけていた。ねえさんの影がこんなにも辛くて苦しいものだなんて思わなかった。
だが、ねえさんの心の影は尚も深かったんだ。
そこで空気を吐き、ゆっくりと瞳を閉じたねえさんは、また静かに視線を交差させる。
その深い漆黒の瞳は暗闇を、映り込む夕日の紅は狂気をイメージさせた。
「うークンはさっき、忠が、私たちのためにあの廃墟を買い取ったと言ったよね。
確かに忠が、あの土地を買い取ったのは事実よ。
でもね――あれはアイツが自分の欲望の為にやっただけ。
どうせ、恩着せがましく周囲に風潮したのだろうけど。そんなのは全くのデタラメ。アイツはね、根っからのゲスなの。忠には、もっと単純で即物的な目的があったの」
ねえさんは、そう言って優しく微笑んだ。そして言葉を続ける。
「――うークン。あの時、アイツは何しに来ていたと思う?」
気がつけばねえさんは、ニタリと冷酷な笑みを浮かべていた――。
僕は、もう耐えられなかった。それ以上聞くのが怖い。決して聞いてはならないと、僕の理性が警鐘を鳴らす。
「もういいよ!」
しかし、ねえさんは止まらなかった。
「アイツはね、私を――。アイツは私を抱きに来ていたのよ!」
視界が収縮した。鈍った思考が、ねえさんの独白を受け入れるのを拒んだ。ねえさんの呪詛が僕の頭の中で鳴り続ける。
「アイツはただ、わたしを犯す為の新しい空間が欲しかっただけ。
うークンが学校から戻るまでの時間、アイツはここでわたしを抱いたのよ。
――私はね、そうやって事あるごと忠に陵辱され続けてきたの。うークンに会う前からね」
涙が溢れた。思考は停止している筈なのに、聞きたくないのに、何故かねえさんの言葉は、直接僕の心に届く。涙が止まらない。
「私は、その度に貴子にも義光にも何度も相談した。でも、アイツらは何時も我慢しなさいというだけだった。この久米平では、何があっても平実本家、卑劣な平実忠に誰も逆らえないのよ!」
こんなに辛い独白をしているのに、ねえさんは嬉々とした笑い声を上げる。僕のひ弱な心は、今にも壊れそうだった。
「あのハゲ、普段はゴミを見るような目で見る癖に、私を抱くときは猫なで声で私のいう事を何でも聞いたわ。
平実家なんて、まるでゴミ溜。本家も分家の人間も、この私自身も! 私には誰も味方なんていなかった! 昔も今も! これからだって!」
「僕は、味方じゃないか!!」
ねえさんに挑みかかり腕を掴んだ。僕は、ねえさんを止めたかった。自ら深い傷に塩を塗り込もうとする、ねえさんを見ていられなかった。
「何も出来ないガキだった癖に……」
ねえさんと僕は、そのまま床にへたり込む。そのまま、しばらくを縺れ合ったまま動作を止めた。
遠くでツクツクボウシが何度鳴いただろうか。その内にねえさんの呼吸が穏やかになっていく。
でも、僕は、ねえさんの腕を放さなかった。放せば、崩れ塵となって消えてしまいそうで怖かったんだ。
目と目が合う。それに、ねえさんは、自嘲の笑みを浮かべる。
「……私がうークンと仲良くしたのは、この一族の中にありながら、うークンがとびぬけて不幸だったからなのよ。私に近いと思ったからだったの――。
これで私が、汚らわしくて矮小で、価値の無い人間だって分かったよね?」
僕は、子供の頃に事故で両親と妹を失った。
ねえさんと仲良くなったのは、確かにその直後――。僕が心を病んでいた丁度その時期と符合する。
その独白は本当なのかもしれない。だが、それを誰が咎められるだろう。
ねえさんは、不幸のどん底を這いずっていたのだ。ずっと――。
なのに、その辛さを微塵にも表面に出さず、僕を慰めてくれて、僕の弱った心を元気付けてくれた。何時も当たり前のように一緒にいてくれた。
例え、そのねえさんの姿が虚像だとしても、僕の中の事実には変わりは無い。 僕を救ってくれたのは、間違いなくねえさんなのだから。
僕は、ねえさんが特別穢れているとは思わない。穢れているのは平実本家と糸瀬河内だ。
「――だからわたしは分かってる。自分は、現実であのまま生きていても、幸せになれる人間じゃない。だから未来の事を聞いた時、うークンの表情が曇るのを見ても納得が出来た」
ねえさん、それは違うよ。平実本家が不幸になる事があっても、ねえさんは、ねえさんだけは、幸せにならなければならないんだ。
この時初めて、ねえさんを愛しく思えた。ねえさんのトラウマと弱さと負の心を知ったこの時に、敬愛の念が本当の情愛に変わった。
その情愛は決して同情じゃない。僕は、ねえさんの負の部分を支えてやれると確信したんだ。
ねえさんの腕を引き寄せ、僕は、そのまま抱き寄せた。
「きっと、後悔するよ……」
胸の中で響く姉さんの鼻声が終わらぬ内に、僕は押し倒した。
ねえさんは、僕の意思を確かめるかのように強い瞳で僕を見詰める。僕は、自分の覚悟を視線に込め、ねえさんのそれに交差させ続けた。
軒先で、ジジジと蝉が飛び去った後、ねえさんは瞳を閉じ、体の力を抜いて僕を受け入れたのだ。
荒ぶ行為の中で、ねえさんは一度だけこう言った。
「もし、この世界がうークンのいう通り現実だったとしたら、元の世界で、今のうークンに会う頃には、私はおばさんになってるのかな」
そのねえさんの潤んだ瞳は、『貴方は、それでも側に居てくれるの?』そう語っていた。
不器用な僕は、力強く抱きしめ、その薄く整った唇に吸い付く事で、答えて見せる他なかった。
そして僕は、ここに来て初めて、まどろみの中に落ちていった――。