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07 ゆめまぼろしの園

 あれから、言葉では表現できない溝が僕たちを隔てた気がする。

 僕は、遠くでねえさんの背中を眺め、ねえさんもまた僕の背中を眺める。そんなすれ違う生活を繰り返し、無為な日々を送っている。

 あの時見せた危うさを、ねえさんは二度と見せる事は無かった。だから僕も、思ったよりも落ち着いて見守ることが出来ている。

 あの後、継続していた調査のすべて一切を、僕はやめた。

 ねえさんは、そんな事を望んでいなかったし、正直に言えば、自分でも無意味だろうと認識し始めていたのだから、それはそれで良いんだ。だから、仕方の無い事だと簡単に諦められた。

 でも、本当は、それだけで済むような事じゃない。

 ねえさんの心には、間抜けな僕が想像できない程の闇が積もっている。

 その闇は、きっと子供の頃、楽になりたいと告白したあの時から変わらずあったのだと思う。

 それを知りながらも僕は、何もしなかった。いや、結局、何もしなくても平気だと思っていた。

 ねえさんは、僕の百万倍出来た人だから、きっと、自然に復調してまた僕を守ってくれると思っていた。 

 どれだけ、ノーテンキなんだろう……。

 ねえさんは、あんなにはっきりとしたシグナルを僕に送り続けていたのに。

 喉を痛めそうな咳払いをして自分に当たると、僕はベットに倒れこみ、勢いよく寝返りをうつ。

 それなのに――。

 それじゃダメだと分かっているのに、僕は、また、同じ過ちを犯そうとしている。ねえさんに甘えるだけで、心の枷に気がつかない振りで済まそうとしている。

 ヘタレの僕には、ねえさんのシグナルに、どうしていいのか分からないんだ。

 何があるのかと、はっきり問いただせばいいのか。何も聞かず、とにかく大丈夫だと、励ませばいいのか。

 ねえさんが、僕がやっている探索に対して、良い思いをしてないのはわかっているさ。だからと言って、探索をやめただけで片付く事じゃない。きっと、そんな単純な事なんじゃないんだ……。 

 苛立った僕は、枕を壁に投げつける。

 枕は、壁に貼ってある糸瀬河内調査マップ――ニコちゃんマークだらけのあのマップにぶち当たり、破けるような嫌な音を立て、それを引きずり落とした。

 僕は、一つ大きなため息をつくと、瞳を閉じる。こんな時には、夢の世界に逃避できればいいのにと思う。

 だけど、残念ながら、この世界に来てから寝られた試しがなかった。きっと、ここは、そういうものなんだろうと理解するしかないんだ。

 僕にとって睡眠は、無償で逃避と忘却と再生を与えてくれる大切な娯楽だった。辛い現実世界で、強く生きる秘訣だったのにな。

 それでも、心を休めることくらいは出来るかもしれない。そう思って、暗闇の中に思考を一旦投げ捨てた。

 遠くで二匹のツクツクボウシの輪唱が聞こえていた。

 何となく三匹目となった僕は、彼らの後を追いかけて心の中で輪唱してみる。そうして三度目のカノンを歌い終える直前に、蝉達は鳴くのを止めてしまった。

 少しの寂しさが込みあがり、大きく息を吐いていた。

 そんな事をする内に、僕は、落ち着きを取り戻していた……。

 ゆっくりと起き上がった。そして、自分で投げ捨てた枕を手に取り元の位置に戻し、剥げ落ちた例のマップを見下ろす。

 そこに貼られるスマイルシールの山達。それは、本当に膨大な数だった。

 本当に頑張ったよ僕は。と小さくつぶやいて自分をねぎらってはみるが、反対に気が重くなった。だから、湧き上がる妙な感情を押し込めるように、その地図をくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に投げ入れた。

 しかし――、地図の残骸は、丸いゴミ箱の淵の上を軽やかになぞった後、絶妙なバランスでそこに留まったんだ。

 奇妙な光景に、僕は思わず吹き出していた。

 そうする内に捨てるのがなんだか惜しくなった僕は、無用の地図をもう一度広げ定位置に貼りなおす。

 その時、地図を見て、ある事にはじめて気がついたんだ。

 見えない境界に囲まれたこの世界のちょうど中央部に、昔、僕とねえさんで作った秘密基地がある事を……。

 僕は、階段を降り玄関出て、秘密基地のある裏山の方角を眺める。僕の足は無意識のままに秘密基地を目指して動き出していた。


 

 黙々と歩き続け山林を抜ける。

 予感があった……。もしかすると、秘密基地に何かがあるのではないかと直感したんだ。

 僕の考えが的を射ているなら、きっと僕は違和感を見つけた事になる。それは、この糸瀬河内の、些細な不自然さというべきなのかな……。

 僕は、この閉鎖世界を便宜的に糸瀬河内と呼んではいるけれど、正確には違うんだ。

 この世界――ほぼ丸い境界の中には、僕の実家がある北糸瀬河内と、北部にある神海町の一部と項ヶ見村が存在しているんだけど、何故か、糸瀬河内の南側が含まれてないんだ。

 それ自体、だからどうしたと思われるかもしれないけど、僕には、何となく腑に落ちない感じがある。

 何故、僕とねえさん――二人だけの世界なのに、それ程縁も無い神海町や項ヶ見村があって、思い出の多い糸瀬河内の南部が存在しないのか?

 今思うと、ずいぶん前から僕の頭の隅に、かすかだけどその思いはあった気がする……。

 でもさ、きっとそういう世界なのだろう。これが、この世界のありのままの姿なんだと納得してしまえば、それだけの事になる。だから僕も、あれだけ色々探索していたにもかかわらず、深く考えずにいた。

 もちろん、それは人間の持つ冷静な思考なんだと僕は思う。

 だって、世界の存在理由や意味なんて、宗教家や思想家の考える仕事だし、その答えなんて、普通、神様以外知りようが無いと思うものだし……。

 でも、この狭い世界にはれっきとした存在理由があって、その領域設定が、なんらか要素に起因される結果だったとすれば、話は別になる。

 そして――、二人の『秘密基地』が、その因子だったとすれば……。

 半径五キロ程に及ぶ大きな円状の世界に、糸瀬河内と神海町と項ヶ見村があり、その中心に僕らの秘密基地がたまたまある――のではなく、僕たちの秘密基地を中心に、糸瀬河内と神海町と項ヶ見村が含まれた世界が構成されていると、考えられる。僕とねえさんのこの世界は、二人の思い出深い秘密基地を中心に成り立っていると考えられるじゃないか。

 そう考えれば、この世界に設定された領域こそが違和感そのものであり、秘密基地こそが法則だという事になる。 

 もちろん、それは偶然かもしれない。

 でも僕には、この世界の中心に、思い出深い二人の秘密基地が存在してしまう事が、単なる偶然とは思えないんだ。

 使われていない山道を、僕はしばらく歩き続ける。

 それにしても、僕は何故、秘密基地の事を完全に忘却していたのだろう。

 ねえさんが大学に進学する前には、ほぼ毎日通い詰めで、思い出深い場所だった筈なのに。本当に、奇妙な感じだった。

 途中、背丈程の雑草に侵食された段々畑の跡地を抜けると、崖に突き当たり道が途切れる。ここから右手にある斜面を登ると秘密基地のある廃墟があるんだ。

 ここの斜面は薮原となっていて、本来あった階段が殆ど見えない。

 両肩と顔を引っかく小枝を手で払いながら、僕は階段を登りきる。藪を抜けると、空間が開けた。

 そこにあるのは、懐かしい光景。

 山の斜面に建てられた順近代風の白い建物。民家というよりは、元々はお金持ちの別荘だっただろうと想像できる。そんな風情の造りをしている。

 ただ、外壁や屋根は雨風に晒され風化し、大部分が苔によって緑色に変色してし、所々コンクリートがむき出しになっていた。

 その建物まで続く前庭には、雑草が立ち並んでいる。

 初めてここに来る人には、はかなり不気味に見えるかもしれない。

 それでも、ねえさんと僕にとっては愛着のある建物だったんだ。当時は、僕たちなりにちゃんと手入れもしていた。

 雑草と瓦礫を超え正面玄関を抜ける。閑散とした正面通路を左手に曲がった先にある角部屋。四畳半の和室だ。ここが僕たちの秘密基地だった――。

 足を踏み入れるとしばし立ち止まって見渡した。

 埃まみれのむき出しの床、くすんだ壁、襖の無い押入れ。汚れたソファー。

 そして、正面には壁一面に大きな窓がある。それは、部屋中に満遍なく光を引き入れてくれる天然の照明で、夕方であっても部屋を明るく照らしてくれたものだ。僕たちがこの部屋を選んだのは、この窓が気に入ったからだった。

 だから、ここへ新しい畳を持ち込んで敷き詰め、部屋を改装したんだ……。あの頃は十分広い空間だったけど、今見ると、かなり狭く感じる。

 今、目にしているのは僕たちが手入れする以前。むき出しの姿だ。でも、それでも懐かしい。

 ここから二人で、一生懸命手入れをしたのだから。

 あの頃僕は、この部屋の隅にダンボールを置いて、宝物をしまっていた。

 左手側の押入れには、ねえさんの私物と僕たちの共有物を置いていたんだ。そこには、僕のために買ってくれたお菓子があって、学校から戻ると、それを一番楽しみにして向かったものだ。

 そして、右手にはちゃぶ台と座布団が並び、窓の側には、一人用のこぢんまりとした皮製のソファーがあるんだ――。

 僕は、部屋の中央に置きざらしになっている汚らしいソファーの背もたれに手を置いた。埃が舞い上がる。

 これが、そのソファーさ……。

 これだけは、最初からここにあった。ねえさんが、綺麗に掃除してくれて生まれ変わったんだ。

 だからこそ、その席は、僕のお気に入りの場所になった……。

 僕は、座席の埃を払い落とすとソファーを窓際まで移動させる。そしてゆっくりと腰を掛けた。

 この場所で、ねえさんが持参する暖かいお茶で一服するのが常だったんだ。

 目を瞑ると、あの時の光景を思い出せる。

 本当にこの夕焼けの糸瀬河内は、どこもかしこも懐かしかった。

 こんな特殊な状況でなければ、もっと過ごしようがあるんじゃないかと思う。いっそ何も考えず、ねえさんと二人でこの世界を穏やかに味わえば、それが一番なのかもしれない……。

 子供の頃のように、ソファーにのりあがり背後にある大きな窓の外を眺める。 当時よく見ていた特撮ヒーローものの主題歌が、自然と口笛となって漏れていた。

 何時の間にか、僕は、ここに来た目的を忘れてしまっていたんだ。

 その時、心地よい郷愁感に酔っていた僕の背後に、気配を感じる。

 あまりにも突然の事だったにもかかわらず、大して驚く事はなかった。

 この世界には二人しか居ない。そして、この場所を知る人物も、僕を除けばただ一人。

「ご機嫌ね」

 口笛を止めて振り向く。

「うん。だって懐かしいもの。ここには、思い出が一杯あるからさ」

 眉根を寄せたねえさんは、唇わずかながら動かし目を伏せる。そして、軽く部屋を見渡すようにして僕から視線を逸らした。

 それは、何かを口にしようとして考え直す風に見えた。僕は言葉を待つ。

「……どうして。うークンはどうして、ここに来たの?」

 それに僕は、ソファーから投げ出した足を、意味も無くパタパタさせながら「何となく」と、返してみた。

 二人を押し包む沈黙。ねえさんは、ずっと僕の瞳を見つめている。

 それは、真意を洞察するまなざしで――、僕は、昔からこの黒い瞳に見透かされるのが常だった。だから僕は、素直に答えなおす。

「本当は、ここに何かあるんじゃないかと思って来たんだ……。まだ、調べてなかったから」

 ねえさんは、表情をかげらせ微かな息を漏らした。

「まだ――。まだ、そんな事をしてたんだね」

 崖先での出来事が頭をよぎる。すぐに言葉を返せなかった。

 ひじかけに腕ごと体を預け、体勢を傾けて視線を逸らす。差し込む夕日の朱が顔半分にかかりった。眩しくて目を細める。

「我ながら馬鹿らしいと僕も思うようになったよ……。だから、もう止めるつもりだった」

 でも僕は、この世界、ねえさんとの生活を絶対に否定したくない。だから――肯定できるなら、思いつく限りの事はなんだってする。

 僕のこの行為が、ねえさんの心を傷つけているのは分かってはいるさ。それでも、これだけは譲れない。いや、ねえさんが相手だからこそ、譲れないんだ。 

 正面を向き直り立ち上がり、ねえさんの深く聡明な瞳にあらがった。

「ここが――僕らの秘密基地が、ちょうどこの世界の中心に位置していたのが気になったんだ。……そりゃ、ねえさんは馬鹿らしいと思うかもしれないよ。けど、僕には、なんらかの因果がこの場所にはあるとしか思えなかったんだよ!」

 苛立ちのこもった心の叫びは、建物内を反響した。

 ねえさんは、微動だにせずそれを受け入れ静かに僕を見守っていた。しばらく目をつむって自分の心を落ちつける。

「ゴメン……」

 怒鳴りつけた事を謝る僕に、ねえさんは軽く微笑んで見せた。

 でも、それはきっと僕を安心させる為のものだ。それは優しさで、決して僕の行動に賛同してくれているわけじゃない。

「うークンの探し物は、見つかりそう?」

「分からないよ……。でもやっぱり、今の内に見つけなきゃ、僕はダメな気がするんだ」

 僕のその言葉を飲み込んだねえさんは、ゆっくりと背を向ける。そして、ためらいがちにこう言った。

「それは無理よ。見つからないよ……。うークンの探しているモノは、この世界には絶対存在しない」

 一旦は治まったはずの苛立ちが、再燃する。

「どうして言い切れるのさ!?

 ここが、中央に存在するのも、僕とねえさんがぴゅうたんで結ばれ同じようにこの世界に紛れ込んだのだって、何かしら論理的なベクトルを感じることができるじゃないか!」

 ねえさんの肩が、ピクンと跳ねた。

 断定的な否定が、どうにも僕には納得できなかった。一体、何故そこまで言い切るのか問いただしたかった。

 苛立つ僕に、ねえさんはゆっくりと振り返えり、

「うークン……。私はね、うークンの作った調査マップを見て、この秘密基地が中心にある事にいち早く気がついていたの」

 と、全く的外れな答えを返した。

 何を突然言い出すのかと思った。ねえさんの話は、時々分かり難くて回りくどい。

「なぜだと思う?」

 更に苛立ちがつのる。そんなの分かる筈が無いじゃないか。

「――簡単なことよ。私は、現実世界の秘密基地で、あの携帯コンピュータを触っている内に、この世界の秘密基地に迷い込んだの。

 その経験があったから、うークンが境界線を書き込む度、もしかして――と、簡単に推測できた。そして境界線の半分程が完成した時、確信に変わった。やっぱりここが中心なんだなって」

 一瞬僕の思考が止まった。予想外の答えに驚いたんだ。

 ねえさんの言葉は、この秘密基地の存在が特別だと、明らかに裏付けるものだ。

「それで、ここが中心なのか! ぴゅうたんは、この場所を中心に架空の糸瀬河内を作り出したんだよ!」

 僕は、興奮していた。

 秘密基地を中心としたこの世界は、ねえさんの行動が元になっている。

 これこそ、この現象の起因の中心で、僕たちとこの世界の繋がりを示す一番の証じゃないか!

 ――でも、ねえさん自体が、そこまで分かっていているのに、どうして否定的なのだろうか。

 高ぶる僕とは対称的に、ねえさんは表情を暗する……。 

「でもね……、そんな事は無意味よ。それは、あくまで推論にしかならないから」

「なんでさ。この世界と現実を結ぶ状況証拠になってるよ」

 ねえさんは、目を瞑って辛そうに首を振ると、言葉を詰まらせ壁に視線を動かした。それから、言葉を選ぶように話し始める。

「これは、アインシュタインの言葉なんだけど――目の見えない虫はね、球体の表面を這っている時、自分が通ってきた道が曲がっていることに気がつかないの――」

 ねえさんの倫理の飛躍。謎かけの様な言葉に、少し混乱する。

 僕は、文字通り口をあんぐりとして表情を濁した。僕の顔を見て、ねえさんは直ぐに言葉を付け足す。 

「生まれつき盲目の虫は、永遠に続く直線上を這いずり続けるしかないの。

 一次元的感覚しか持たない彼は、三次元を捉えることが出来ずに、同じ場所をぐるぐると回り続ける。

 そして、自分が不毛な事をしているのに気がつかないの。何かの切欠で、目を開けられる様になるまでね……」

 ねえさんは、僕たちが――いや、僕が、その目の見えない虫と、立場は同じだと言っている? 自分の足元だけしか見えない僕は、ふとした切欠を起きるまで、ただ、がむしゃらに走り続けるしかないのだと……。

「つまりね。この世界の中でいくら推測しても、状況証拠を考察しても、それは暗闇の中で夢想した絵空事にすぎない。今の私たちは、目を開くことが叶わないのだから、それの本質を確かめられない。

 わたし達はね……例えるなら、今、生まれて初めて見た夢の中に居るのよ」

 生まれて初めて見る夢。すべては、ねえさんのその言葉に集約されている気がした。

 初めて見る夢を、夢であると識別する為には、まずその夢から覚めなくては始まらない。当たり前のことだ。

 ねえさんの言葉をやっとの事で咀嚼した僕は、愕然と立ち尽くす。

 結局、夢か幻かも分かりもしない暗闇の中――この世界の中で、僕が真実を発見したと勝手に息巻いても、それは未だ思い込みの域を出ない。蓋然性の枠を超えることはないんだ。真実とは、目を見開き確認した上で、はじめて明らかにされるものなのだから。

 つまり僕は、初めてみる夢をその夢の中で夢であると認識しようとしていた……。

 それは、本当に短絡的で愚かな事。

 僕が、ここでの出来事が真実だとねえさんに立証するには――現実世界に戻った上、外からの第三者的な視点でこの閉鎖世界を捉え、その上で改めて検証確認してみる他はないんだ。

 僕だって、当然、その他大勢に証明するのは絶対に無理だろうし、科学的に立証など不可能な事だとは理解していたさ。

 でも、きっとねえさんだけになら納得させられると思っていた……。だけど結局、ここでは、それすら叶わない。

 脱力した僕は、ソファーに倒れこむように座った。 

「うークンは、切欠を――目を開く事を望んでいるの?」

 ねえさんの瞳が潤んで見えた。

 何も考えずに僕がやっていた事――それは、ねえさんには、僕がここから出て行こうと足掻いているようにも見えていたのかもしれない。

 そして、それは多分、ねえさんの心の闇の一要素だったのだと思えた――。

 だから僕は、神妙な顔つきで静かに答えを待つねえさんに、黙って首を振り否定して見せた。

 ねえさんの事を思ったからというのもある。でも、本当はねえさんに会えなくなってしまう事が怖かった。

 僕は、決してここから出て行きたくて、こんな事をしていたわけじゃない。

 ただ、ねえさんに対して証明したかっただけなんだ。 

 しかし、その為には、この二人だけの世界から外に出なくてはならず、その現実には、もうねえさんは存在していない……。

 それは、最初から不可能というゴールが定められたボードゲームに似ている。だから僕たちは、その途中のイベントを楽しみつつ出来るだけゴールを避けるべきなんだろう。 

 否定する僕を見たねえさんは、僕の頭を軽くなで微笑んでくれた。

 きっとそれは作った表情じゃなくて、心から込みあがる自然なものなのだと僕は感じた。

 もう僕には、この糸瀬河内を考察する意欲が、すっかりなくなっていた。

 ねえさんとのこの有意義な時間を、穏やかに過ごせればそれで良いと思うようになったんだ。


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