02 携帯コンピュータ
僕は、翌日のバイトも休んだ。
疲れ果てていたにもかかわらず、葬儀から戻ってからも寝ることができなかったからだ。やはり、ねえさんの死には堪えた。僕の中で大きな存在だったと再認識するに至る。
結局、通夜から数えると丸二日寝てない。
本家へ向かう途中のうたたねを睡眠時間ととらえるなら、二日で二時間になる。どっちにしても僕にとっては、非常事態だった。
僕は睡眠不足に非常に弱い。寝てない僕は、数々の伝説を残してきたツワモノなのだ――。
症状としてはだ。
不意にマッチ棒がエロく見えたり、誰を見ても全裸に見えたり、唾液が常時、佃煮味で一杯なったり、触覚と羽が痒くなったり、スタンドが現れたりと、なかなかふぁんたじっくで、多岐にわたる。
このあたりは、人に迷惑をかけないからまだ良い。
酷い症例をあげると、土砂降りの雨の中、仮想ルパンを追走し町中をさすらったりするからマジで洒落にならない。
末期症状として、あの恐怖新聞を読んだ事すらあるんだ。僕は多分、十年前後寿命が縮まっているに違いない。
したがって、僕の寝不足に世間は優しい。
だから僕は、バイト先の店長に『三日寝てないんで、緑先生が来ました』とメールで打って、そのまま寝た。これでしばらくは大丈夫だ。
少しの嘘くらい良いだろう。許せ店長――。
三日は嘘だけど、半透明でぶよぶよしている緑の物体を目撃した事は本当なんだし。
メールを打った後、安心したのか、いい感じで睡魔を迎え入れる事が出来た。お陰で昼過ぎには気分よく目覚めた僕は、ニクドでハンバーガー三つとオレンジジュースを食した。しめて三百五十二円だ。
これで今日一日分の熱量を補給できた。傍でキモイ笑顔を振りまくドナルドさん人形に敬礼する。
最近、スマイル零円のサービスを廃止したのが寂しいが、今でもドナルドさんだけは別だった。全く良い奴だよ君は。僕は、ドナルドさんに心から感謝した。僕の食生活は、彼女に支えられていると言って良いのである。
満腹になったその腹で、今は亡きねえさんの部屋へ向かった。
今月末までに、ねえさんの部屋を引き払わなくてはならない事を思い出したからだ。
ねえさんの住むマンションは中心区から二駅離れた弥生町駅、そこから徒歩十分ほどの場所にあった。
高級マンション群の一角に聳える、一際お洒落な風体をした三十階建てのパシフィックプラウド弥生。正直、僕の貧相な経済観念では、パシフィックプラウド弥生様のハイクラス加減を語る事が出来ないのが残念だ。
それにしても、なんという威圧感だろう。
オートロックで仕切られた玄関口の先に、厳つい警備員まで居るのだ。
激貧の自分を罪深く感じた僕は、玄関前でたっぷり三十分躊躇してしまった。だが、ねえさんの為だと自分を奮い立たせ玄関をくぐる決心をした。
よれよれのTシャツ、ジーンズ、サンダル履きの僕に、警備員が、不審な目を向けてきたのはいうまでもなく、絡まれて少しだけ泣きそうになったが、三時過ぎには何とかねえさんの部屋までたどり着いた。
玄関の扉を開け、足を踏み入れる。その大きなワンルームの室内は、想像以上に整然としていて驚いた。内装に高級感はあった。だが、それはこのマンションに据え付けられたもので、手を一切加えてない感じなのだ。
僕の記憶にあるねえさんは、男勝りで雑な部分はあったが、実は少女趣味で、自分の部屋は可愛らしく飾っていた。
二年も暮らしていれば、昔のねえさんなら間違いなく、そうしていた筈だろう。想像と違うこの部屋に、ふと壊れた頃のねえさんとが重なってしまった。淡い不安感が頭をもたげる。
死ぬ間際のねえさんが、昔のねえさんのままであって欲しいと、僕は勝手に願っていた。だから、自分の記憶に持つねえさんの痕跡を探さずに居られなかったのだと思う。
整ったキッチン、トイレ、バスと見回り、最後に仕切りの奥にある寝室のベットに、脱ぎ散らかされた衣服を僕は見つける。それを見つけ、僕は、ようやく安心しできた。
少女趣味は見られなかったが、やっぱり、このあたりはねえさんだと感じる事ができたからだ。
部屋中のカーテンを開け、部屋を見渡し荷物に一通り目星をつけた。
僕は、収納から、女性用スーツ・シャツ・丸くなった下着・雑誌・小説・小物入れに隠してあったローターなどを取り出し、淡々とまとめる。
いや――、本当は淡々というのは嘘で、奇妙な興奮を覚えながら作業をしていました。特にローターが出てきたときには取り乱し、落ち着くまでに数十分を要したのを告白しておく。
そのあたり、僕は男の子なんだ。幾ら故人であっても好きだった女性の部屋を漁って平気である筈がないのである。
妙な情欲が沸くたび僕は、ねえさんに謝りながら作業を続けるしかなかった。
片づけから一時間近くを経過し、飲み物でも持参すればよかったと後悔する頃、机の引き出しの奥に、隠すようにしまい込まれていたモバイルコンピュータらしきものと、付属品を、僕は見つけた。
いや、モバイルコンピュータというよりは、一昔前のポケコン、携帯コンピュータに近いものだと思う。
ステンレス製の無機質で飾り気のないフォルム。小さなディスプレイと、キーボードを模した小型の入力装置が一体化してある形状だ。ボディには、どこかにぶつけた様な凹みと傷があった。
ねえさんが、理工系大学の院に通っていたのを思い出す。その時の物じゃないかと推測した。
何気なく電源をつけてみると、小さなファンの音と共に、ディスプレイに英数字の羅列が走りだし、最後に『E.S.S_BC Version 0.82』の文字が浮かびあがる。E.S.S_BCが何の略かは分からないが、独自プログラム言語の略称だとは分かる。
そこまで、音も画像もない。全く簡素だ。
一般的なコンピュータとは違い、無駄なものを省いた専門性を感じる造りに感じた。ただ、メーカー名もコードも表記されてはなかった。
添えられていたお手製の命令一覧表を見てみる。最初の数ページが失われているが、これが簡素なプログラム言語の搭載されたコンピュータである事だけは分かった。
プログラムの知識が少しだけあった僕は、
PrintS ('test’,7,15);
と入力して実行し、黄緑色で大きく『test』とディスプレイに表示されたのを見て満足した。ちなみに7は文字色、15は文字サイズの指定だ。
結局、日暮れまで片づけを続けた僕は、ふと帰り際に思い立ち、ちょっとした玩具のつもりで小型コンピュータ一式を借りる事にした。
部屋の片づけの謝礼として、ねえさんから借りる。そのくらいの軽い感じだった。
木造アパートの蒸し暑い部屋に戻った僕は、まず服を脱いだ。そしてシャツを脱ぎ、パンツも脱いで畳む。
なぜ畳むかといえば、明日また履くためだ。暑い日は基本裸で暮らす僕は、下着と服は外出用として二日使うのだ。これで、コインランドリー一回分を節約する。とっても経済的だから、皆試してみるといいよ。
生まれたままの僕は、窓を全開にし、そこで仁王立ちになり、しばし股を開いて心地よい風を受けるのだ。少しだけ恥ずかしいのでレースのカーテンだけを広げておくけど。
夏場帰宅するとまずこれをしないと気がすまない。
こうすると、とっても癒される。汗がひんやりと下半身から体を冷却してくれる。ぐだぐだになった僕のラジエーターが、ものの数分で、引き締まるのだ。これぞ自然のクーラー効果なんだ。本物のクーラーなんて、クソ喰らえ。
外から、丸見えだろうって?
それはない。普通のレース地のカーテンは、夜、明かりをつけると外から丸見えになるが、うちのカーテンは違う。ヤニで黄ばんでいるから、透けて見えないのさ。まあ、外から確かめた事ないけど。
引き締まった所で、懸賞で当たったドラ○もんのポータブル型冷蔵庫から、激安ショップで手に入れた一個五十円の賞味期限切れ缶ビールを取りだし、一気飲みする。少しぬるくてマズイが、ビールは喉越しである。味なんてどうでもいいのである。そう、芸能人の人が言ってた気がする。
二缶開け、気持ちよくなった所で、僕は例の小型コンピュータを取り出した。ねえさんには悪いけど、いい玩具を手に入れた気分だった。
付属の命令一覧を確認しながら、どうでもいいプログラムを組んでは消し、また組む。
どうやら、グラフィック表示の機能すら存在せず、音すら鳴らせないことが分かった。表示できるのは文字記号だけという、貧相な作りだ。
だが、そのレトロ感が新鮮だった。今時当たり前の、モバイルコンピュータや、携帯端末、高性能ポータブルゲーム機よりも、何故だか楽しい。
記号を使った、もぐら叩きゲームや、ぎこちないテトリスゲームを作り、一人はしゃいだ後、付属してあった旧式の小型記憶装置に保存した。これで何時でも遊べる。明日、バイト先でまた、弄ろうと考えるとわくわくした。
トイレで今日の残りかすを、力いっぱい排出した僕は、寝る前に、にやけながら記憶装置の中をもう一度確認する。
すると、そこに見知らぬデーターが保存されている事に、ふと気が付いた。それは、Sample.essとの名のファイル。僕が保存したファイル名はaramakisan.datとoretsueetetorisu.datだから、明らかに異なるものだ。
しかも更新日時を確認してみると、それは二年前に保存されている。
気になったので、そのデーターを読み込み実行してみる。
結果、そのプログラムはInitialize Errorとエラー表示を吐き出すだけで、一切動作しなかった。そこで中身のプログラム記述を覗くと、知らない構文EMOS()が使われていることが分かった。
#Sample.ess;
for(time=0;time<=-60;time--){
EMOS(time,1000);
}
命令一覧が完全でなかったことを思い出す。
Initialize Errorとは、特定の命令文や変数を使用する際などの、定義忘れなどで起こったりするエラーだ。
Sample.essを要約すると、謎の構文EMOSに変数timeを使って0から-60までの数値を逐次代入していくだけのしごく単純なプログラムだと推測できた。
エラーには、EMOSが影響しているとしか考えられなかった。エラー表示を考えるとEMOS 構文の定義ミスが有力だったが、どのように間違っているのかは手元にある資料では分からなかった。
「イミフー」
僕は、我慢できず大きなあくびをすると、引きっぱなしの布団に転がり込む。そして、愛用の薄汚れたミッキー抱き枕にしがみ付き眠りについた。