身長
見ている世界が違うのだという物言いは比喩だ。その主語は価値観、あるいは、世界観というような言葉と置換することができる。諦めや悲しみ、ときには憧れを込めて、人はそんな風に他人を突き放す。
そういう意味で言えば、僕と彼女の見ている世界は同じだったのだろう。詩的な比喩は全くあてはまらず、僕たちの心は一致していた。同じものに感動し、同じものに怒り、涙する。だとしても、僕たちの見ている世界が、無視しがたく異なっていることは知っていた。本当のところで、人は他者と同じものを見ることなどできないことも理解していた。それでも同じ世界を見ているのだと信じられる限り、人は誰かと隣合っていられるはずだ。僕と彼女もそう信じ合えたからこそ、特別な関係を結んだのだから。
けれど僕たちはどうしようもなく10才だった。健全な成長が、僕たちを隔て始めていた。
彼女と視点がズレていることに最初に気がついた日のことはよく覚えている。掃除の時間だった。僕は雑巾用のバケツを探していた。僕がうろうろと視線をさ迷わせていると、彼女は、あら、そこにあるじゃない、と軽やかに掃除用具入れの上を指さした。はっとして見上げた僕にはわずかに取っ手の木の部分が見えるような気がする程度にしか、はるか頭上のバケツの存在を認識できなかった。
流石に彼女でもそのまま用具入れの上からバケツを取ることはできなかったけれど、それは本当に幸いなことだったと思う。もしあの時点でそんなことができてしまったなら、僕はもう彼女の横に立つことはできなかったに違いない。男としての自尊心がどうのという話ではない。ことはもっと単純で、致命的な問題だった。僕に見えないものを見つける彼女の心も、彼女が気がつかないものを見る僕の心も、同じくらい信じられなかった。上下にずれていく世界の距離を超えることは不可能であるような気がした。背の高さくらいで何を言っているの、なんて笑われれば笑われるほど、彼女を遠くに感じた。
彼女はそれからも次々と僕には見えない世界を見た。高く弧を描いて落ちてきた野球ボール、担任教師の後頭部の寝癖、一緒に公園に行けば僕にはかすりもしない木の枝が彼女の額を打った。やっちゃったあ、と彼女に笑いかけられたとき、僕はもう限界だと思った。
僕が男で、彼女が女の子で、僕たちが10才であることは変えられない。彼女が女の子から女性へと変わって行くことを止めることも、僕が一足飛びに大人の男になることもできない。けれど、時が解決するまで待つなんてことはもっとできなかった。僕は彼女と同じ高さで、同じものを見ているのだと信じたかった。
だから、僕は考えて、考えた末に、踏み台やシークレットブーツのような虚飾を選ばずに、その上でたった一つできることを見つけた。
僕は計画し、入念に準備し、そして実行した。思惑の通り、僕たちの視点は再び横並びになり、この先それぞれがどんな風に成長しても、それが変わることはなくなった。二人ともベットの上の住人になり、身長と視点の高さの間には関係がなくなったのだから。二人同時に歩けなくなる程度の事故を装うのはどうにも難題で、結局はまず彼女の腰を、その後で自分の腰を砕くしかなかったことだけが惜しい気もした。
彼女は僕が想像した通りに泣いて、僕が想像した以上に心を弱らせた。僕の身長が彼女を越え、生きるために車椅子で仕事にありついた頃になっても、彼女は10才とほとんど変わらない大きさの身体をベットに無造作に横たえていた。足の自由を失った日から言葉を発することはほとんどなくなっていた。
僕は彼女の病室に通い、そのたびに車椅子の上で腰を折り、彼女の顔の横にそっと自分も顔を並べてみる。そうしたら彼女と同じものが見えるのではないか。10才の僕が焦がれた世界が見えるのではないか。そう願いながらも、それは不可能なことなのだと本当は気がついてもいるのだと思う。凍り付いたように見開かれた彼女の瞳には病室の天井が映り込んでいるけれど、心に届かないその色がどんな風に見えるのか、彼女と同じであることを願う僕には、願う心を持ったままの僕には、決して分からないだろう。
彼女と同じ世界を見るために、この心を壊す方法をもう何年も探している。