うろなで天狗 昼 10/9
僕、六条寺華一郎は名前を除けばそれなりに目立たない奴として、何と無しに成長して来た。そういう自信がある。
僕の人生が現在の通りになっているのは、偏に僕の上司で教師で先輩である和倉葉朽葉教授が関係している、のだろう。よくよく、僕には奉仕種族としての適性があるのだと思う。そう思うと悲しい気も、ちょっとはするのだった。
それはそれとして。
それはそれとして、和倉葉朽葉は寝起きが良い。ぱちりと目覚め、即座に行動を開始する。ただし、内面は混乱している。遥か昔、どこかの研究会に出席する為あるホテルに泊まり、朝迎えに行った時、彼女はいつもの微笑をたたえて「おはようございます」と言ったが、その時はどうもスーツの着方を一部忘れていたようで、その時の扇情、もとい惨状については言及を省くが、とにかく少なくとも確実に『スーツの着方』では無かった事だけは確かだ。そういうわけで、僕は宿泊施設に行く際、必ず彼女のスーツ(多分ブランド物だ。良く知らない)とシャツをかけるハンガーの位置を正確に定め、ズボン吊りはズボンに取り付けて置いておく。僕から口にするのを憚られる衣類については散々言い含めた結果、ちゃんと彼女自身で決められたところに片付けるようになった。外見(と言動の半分くらい)は完全超人に見える教授の内情は、家事力不足生活力皆無人間力絶無の無い無い尽くしなのである。
そういう事だから、教授がダークのスーツでぴしりと格好を決め、口元の柔和な微笑みの端に煙草をくわえ、悠然と椅子に座って(僕の用意した)コーヒーを飲んでいられるのは僕の尽力も、まあ多少はあるというわけだ。
ただし、僕に出来ない事は大変多い。僕に出来る事の大概は、教授が何か『やらかした』後の事後処理か残務処理であり、また世間一般には尻拭いともいうが、とにかくそういう事だ。教授はやっている事が特殊だから、残すものもそれなりに特殊であり、また処理も特殊だったりする事が多いのだ。
何が特殊か、と言われると答えに窮するが、端的に言おう。
教授は、世の『不思議』を探しているのだ。
多少不本意ではありますが、と彼女は前置きして、白いカップに残っていたコーヒーを飲み干した。
「大学の決定に従わざるを得なくなりました」
え。
ひょっとして……。
「だ、大学に戻るんですか!」
「不正解です」
……やはり違うか。ちょっぴり悲しい。
「じゃあ、何があったんです?」
「ゼミナールの件です」
教授は何とも思っていなさそうにそう言い、僕は一瞬で状況を理解した。
「ダメだったんですか、代替教員」
「正解です」
簡単に言ってくれるものだ。
教授は現在研究休暇中で、彼女が受け持っていた多様な授業については(僕の尽力八割で)代替の教員を用意する事ができた。しかし、彼女が持つ『和倉葉ゼミナール』についての代替教員は僕ではとても見つからず、教授と教務課に探してもらっていたのだ。しかし、どうやら見つからなかったらしい。当たり前と言ったら当たり前なのだが。
教授がカップを差し出し、僕はおかわりを注ぐ。
「すると、どうなるんですか」
「例によって横車があったようです。このホテルの部屋について追加契約は完了しているという事ですし、他の単位については本人と大学了解の元、継続取得が可能なようです」
「ああ」
やっぱりか。
つまり、この恐ろしい研究休暇旅行に、もう一人の恐ろしい人員が加わるのだ。
「それが本日、十月九日付です」
え。
「じゃあ、これからどうするんです?」
「迎えに行きます。電車に遅れが無ければ、三十分後には到着しますから」
「……分かりました」
秋の柔らかい日差しの中、僕と教授は駅に向かっていた。教授は口元に煙草をくゆらせ、のんびりと微笑んでいる。僕は、今後の事を必死で考えていた。これから現れるのは、下手を打てば教授以上に扱い辛い人物なのだ。
必死過ぎて教授を追い抜いた事にも気づかず、角を曲がった途端何かにぶつかって、僕は転んでしまった。
「おお、すまぬ御仁」
「あ、いえ、大丈夫で」
「おお、六条寺殿ではないか!」
聞いた事のある声がして顔を上げると、そこには天狗がいた。
否、彼は天狗仮面、らしい。というのも、ぱっと見は文字通り『不思議』な、有り体に言えば変なニンゲンにしか見えないからだ。確かに赤い鼻も高らかな艶めいた風貌をしているが、それはどう見ても立派なお面で、しかも服装はジャージである。申し訳程度の要素として番傘を小脇に抱え、唐草模様の粋なマントを羽織っているが、どちらかと言えば天狗の要素ではない。これを『不思議』と言わずして何と呼ぶのか。
初めて会ったわけではない。夏に一度だけ会って、その時は彼の艶やかで威厳のある仮面をちょっと触らせてもらった。僕の浅い『不思議』体験の中では最上位の部類である。彼に助け起こされながら、僕はあの時の手触りを思い出していた。
ただし、僕の隣で煙草をくわえている教授は彼と初対面のはずだ。
「む、歩き煙草は往来の方々に対して危険である」
「正解、です」
教授は素直に頷いて、煙草を懐から出した携帯灰皿に突っ込んだ。教授はどこであろうと煙草を手放さない超絶愛煙家で、場所を問わず大概の場合はくわえている。ただ、言われればやめるから、彼女の場合、注意とか警告は儀礼に近い何かなんだと思う。多分天狗仮面氏と別れればまた吸い始めるだろうし、そして言われた事もすっかり忘れるだろうから、未来で誰かに同じような事を言われるだろう。
そして、今日は天狗仮面氏の横に女性が一人、笑みを浮かべて立っていた。しなやかな猫を思わせる佇まいで、オトナの女性的な雰囲気は若干教授に似ているが、彼女からは何となく、それ以上の何かを感じる気がする。ただ、僕は女性観が教授の所為で著しく歪んでいるので、やっぱり気のせいだろう。
彼女は僕を一瞥して、それから教授に視線を向けた。そして、何故かとても嬉しそうに笑った。
「彼女とは初対面であったかな。猫塚千里といって、私の同居人である」
天狗仮面氏は彼女を示してそう言い、女性は軽く会釈した。
「どーぞよろしく、教授サン?」
「初めまして」
教授も微笑みと共に会釈を返して、それから天狗仮面氏を見上げた。教授は女性としてはまあ高身長なのだが、やはり天狗仮面氏は上背もある。伊達に天狗ではないのだろう。
「貴方が、天狗仮面さんですか」
「如何にも」
大儀そうに頷いてから、天狗仮面氏は胸を張った。
「私は、このうろな町の平和を守る天狗仮面である」
「天狗では、無いのですか」
教授は、いきなりそう言った。天狗仮面氏はちょっと首を傾げ、しかしはっきりと答えた。
「私は、天狗だ」
そこなのだ。
前回会った時も、彼は自らを『天狗である』と称した。そして、教授は僕の見聞を元に『天狗仮面氏は天狗である』という仮説を立てた。ただし、それ自体は彼の言を信用しているだけに過ぎない。
だから、教授は彼自身に確かめたかったのだ。そして、今その機会が眼前にある。彼女が行動しないわけが無い。
教授は微笑みながら、挑みかかる様に言う。
「では、それを立証して頂けないでしょうか?」
む、と天狗面の奥から声がして、天狗仮面氏の動きが止まる。表情がこれっぽっちも分からないのだが、多分困っているのだろう。悩んでいる、というのが正確か。教授は微笑みを崩さず、右手がスーツのポケットに伸びていく。
「教授」
「何でしょう」
「煙草、今はダメですよ」
ぴたり、と彼女の腕が止まってふらふらした挙げ句、右手は口元に当てられて止まった。
「……正解です」
ふふ、と猫塚さんが笑った。
「ねえ、教授サン」
「はい」
彼女は妖艶、という言葉がぴったりな風に笑って、言う。
「貴方は、それを知ってどうするの?」
今度は、教授が動きを止めた。猫塚さんは笑いながら、す、と天狗仮面氏の前に立った。
「この変人がただの変人だったとして、貴方はそれで、どうするのかしら?」
教授は答えず、黙って猫塚さんを見ている。何か言おうとした天狗仮面氏を片手で制して、猫塚さんはさらに畳み掛ける。
「そして、彼が天狗だったとして、それをどうしようというの?」
ひどく楽しそうに、彼女はそう言った。
そして、それはある意味では、僕の疑問でもあった。確かに教授は『不思議』を探している。探しているのだが、彼女が何故それを探すのか、そしてそれをどうするつもりなのか、僕は知らないのだ。というか、多分教授以外の人間は誰も知らないのだと思う。
猫塚さんは、一歩だけ前に出た。
「知識欲だけならば、それだけのためにこの変人のプライバシーを侵害して、それでいいの?」
教授はまだ動かない。僕は後ろにいるのでちっとも表情が分からないのだが、多分いつもの微笑みを浮かべてはいるのだろう。
ただ、珍しい状況になっているのは間違いない。少なくとも僕の知る限り、教授が人類に口頭で敗北した記憶は無い。特にこういう倫理的な話題では。
だが、何となく気になって、僕は二歩ほど前に出て教授の横顔を覗き込んでみる。
教授は、どうやら猫塚さんではなく、天狗仮面氏をじっと見ているようだった。そして、いつも通りの微笑みを浮かべている。
余計不安になった。表面上はいつも通りなのだから、行動もいつも通りでないのは若干おかしい。というか、怪しい。
沈黙が嫌になって、僕は必死で言葉を探す。
「え、ええと、天狗仮面さん、のご意見をお伺いしたいかなぁ、と」
そう、やっぱり大事なのは当事者だ。
天狗仮面氏はむ、とまた唸って、それから腕を組み直した。
「私は、見ての通り天狗である」
その通り。
……以上。
僕の目論みは潰えて、くすくすという猫塚さんの笑い声でかき消された。
「ほら、彼はそう言ってるわよ?」
何でやたらと楽しそうなのか分からないが、とにかく猫塚さんはどうも楽しんではいるようだ。
僕は教授を横目で盗み見る。教授は、天狗仮面氏ではなく猫塚さんを見ていた。
そして。
「仮面とは」
教授が、ようやく涼しい声をあげた。
「シンボルかも知れませんし、あるいは願望投影、もしくは防御行為であるかも知れません。ただ、鏡像にはなりますが、少なくとも鏡ではありません」
「どういう意味かしら」
猫塚さんは、また楽しそうに声を弾ませた。教授は軽く頷く。
「彼が『天狗仮面』を標榜する理由は、自らを天狗とする為ではない、という事です。何故なら、彼がそれを被って天狗を名乗る理由が無いからです」
「……でも教授、単に天狗大好きで天狗になりたい、って思ってるだけかも」
そこまで言って、自分が死ぬほど失礼な事を口走った事に気づいた。大慌てで天狗仮面氏に頭を下げたが、彼は特段気にしていない様に手を振ってくれた。いや、自制心の賜物かも知れないから油断は出来ないが。取りあえず黙ろう。
教授は、首を横に振った。
「不正解です。それであるならば、面を外さない理由が無いのです。面でもって天狗としているのならば、それを外せば天狗ではなくなってしまう、ということになりますが、それなら何故、彼は面無しで自分が『天狗』である事を標榜しないのでしょう」
「……だって、天狗のお面が無かったら、天狗だって分かりませんよ」
あ、また失言だったかも。
しかし、教授の続けた言葉はさらに失言だったのではないかと思う。
「正解です」
教授はいつも通りにそう言って、猫塚さんが軽く吹き出した。天狗仮面氏は腕を組んだまま黙っているが、これはなんというか、不穏なんじゃないか。
「貴方の面は天狗のものです。誰もがそう言うでしょう。だから貴方は『天狗仮面』です」
然り、と天狗仮面氏は肯定して、教授も頷いた。
「天狗の容貌、赤く高い鼻、衣装、使用する神通力等は、比較的一般に知られるものとなっています。しかしその姿を、一般科学が信頼しうるカタチで証明した物は存在しません。ただ、そういうモノである事だけは誰しも理解しています」
科学は万能ではありませんが、と教授は付け足して、それから宙をさまよう右手に気づいて、何でも無かったかの様に左手で押さえつけた。禁断症状である。
「ぱっと見で天狗だと分からないから、仮面で『天狗』を表してるって事?」
猫塚さんがにこにこしながら言い、教授は微笑みを返した。
「正解です」
「じゃあ、やっぱりこいつは天狗じゃないって事じゃないの? これを外したら、天狗の顔じゃないんでしょ?」
猫塚さんは天狗仮面氏の赤い顔を指差した。
「この中は、ニンゲンなんじゃないの?」
「不正解です」
教授は、首を横に振った。
「ニンゲンの顔であったとしても、あるいはそれ以外の顔だったとしても、天狗である可能性は常に存在します。天狗を民俗学的見地で見ても、意味が無いのです。民俗学には意味付けがあります。天狗は山中異界に於ける異人、理解されるため創造された言葉を使えば『マレビト』と呼ばれるモノであり、それ以上にはなり得ない。そこより先に行けない見地は捨てなくては、先には進めません。端的に言えば、天狗の真の容姿はこの際、問題ではないのです」
ふぅん、と猫塚さんは息を吐いて、それからまた笑みを浮かべる。
「じゃあ、どうやって証明しろって言うの? 神通力でも使ってもらう?」
微かに天狗仮面氏の首が動いた気がしたが、どうだったか。僕は良く知らないのだが、天狗ってそういうモノを使うのか。
いや、そうか。空だって飛ぶし、団扇を持ってるんだから風を起こす、みたいな事は出来るんじゃないか。なるほど、そういうのを見せてくれれば……。
「不正解です」
え。
「あら、それって『不思議』な事じゃなくって?」
猫塚さんは、僕の考えを代弁する様に言った。
「正解です」
教授もまた、僕の思う事を肯定した。
…………。
え。
「ですが、不正解でもあります。天狗は、私の見解で言えば『不思議』ではありません」
いつでも理解困難な教授は、今日も理解困難だ。
「私が天狗仮面氏を『不思議』と認識する理由は、貴方が天狗面を被って天狗を標榜し天狗仮面と名乗っているからに他なりません」
教授は天狗仮面氏を見上げて、微笑む。
「貴方は、自分を『うろな町の平和を守る』者だと、言いました」
「然り」
天狗仮面氏は重々しく頷く。
「であるならば、それが天狗でないといけないのは、何故でしょうか」
「天狗が大好きなニンゲンだから、じゃダメなの?」
猫塚さんの声は、とても楽しげだ。気づいたのだが、彼女はひょっとしてこの状況を楽しんでいるだけなんじゃないだろうか。なんだか不安だ。
教授は答えず、愛用の手帳を懐から取り出すと、朗々と読み上げる。
「『気のいい天狗の兄ちゃん』『変な天狗のお面かぶってる人』『天狗の人』『自称天狗』『天狗面をつけた変な兄ちゃん』」
……うわぁ。
ぱちん、と手帳が閉じられて、その後ろから教授の微笑が見えた。
「私の採取した『天狗仮面』についての情報です。実に興味深い」
いや、思いっきり失礼だ。
僕の気持ちなんて分かってもらえる筈もなく、教授は微笑むだけだ。
「これらが示すのは、彼が『天狗』である事を如何に重要視し、標榜し、浸透させようとしているかという事です。天狗としてのあらゆる要素をその仮面に詰め込んで、貴方は『天狗』であろうとしている、ように思います」
天狗仮面氏はじっと黙り込んでいて、その表情は伺えない。
教授は、微笑みと共に言葉を続ける。
「『天狗とは天狗である』という全許容認識でないと、天狗面を被って天狗を名乗る天狗仮面を理解する事は出来ないのです。故に、貴方は天狗です」
以上です、と言って、教授は黙った。
天狗仮面氏は少しの間じっと黙ったままだったが、やがて軽く首を振って、教授の方に顔を向けた。
「理屈ではないのだ」
天狗仮面氏は、静かにくぐもった声で呟く。
「私は天狗だ。天狗仮面だ。うろなの平和を守る、天狗仮面だ」
彼の声は誇りに満ちていた。
猫塚さんはちょっと眉を上げて、それから苦笑して首を振った。
教授は、何故だか妙に嬉しそうに、微笑んだ。
「正解です」
彼らと別れるまで、とにもかくにも僕はひたすら頭を下げまくった。天狗仮面氏は全然気にしていないのである、と言っていたが、僕には彼の気持ちが分からない。仮面の奥に、あるいは彼の怒りとか哀しみとかが隠されているのではないかと思うと気が気ではない。
ただ、猫塚さんは物凄く楽しかった、という風に満足げな吐息を漏らしてにこにこしていた。やっぱり状況を楽しんでいたとしか思えない。
煙草は健康に悪いから程々に、と天狗仮面氏は小言を言って、猫塚さんと共に商店街の方へ歩いていった。僕はそれを見送りながら、教授の右手の指が挟む物を求め、疼いて蠢くのを黙って見逃す不毛な努力をしていた。
彼らが完全に見えなくなるまで待ってから、教授の指は素早く懐に突っ込まれ、次の瞬間には都合五分ほどの禁煙期間と別れを告げていた。まったく。
「教授」
「不正解です」
……まだ何も言っていない。
「この件に関する話は、後ほど行います。私達は、元の予定を遂行しましょう」
彼女は簡潔にそう言って、すたすたと歩き出す。僕は後を追う。
教授は、少しだけ歩く速度を緩め、僕にしか聞こえないような声で、小さく呟いた。
「久しぶりです」
「何がですか」
教授は答えず、てくてくと歩みを進めていく。彼女の涼しげな笑みの下、首の辺りを見て、僕は思わずひっ、という音を立てて息を飲む。
あの教授の、恐ろしいまでに変わらない表情の元にある首筋は、汗でじっとりと濡れていた。
枯竹四手です。宜しくお願いします。
連載八話目の投稿です。
三衣千月様の天狗仮面さん、猫塚千里さんをお借りしました。
天狗仮面さんは二度目ですね。