うろなで食べる
ずっと言うのを忘れていたと思うのだが、僕の上司である和倉葉朽葉はとある大学の文学部にて教鞭を、文字通り鞭を振るっているのだが、それが愛の鞭であるのかどうかは、まあ、受け取る側の感性である。
僕こと六条寺華一郎が今問題にしたいのは何を目的にそんなモノを振るっているのか、という事なのだが、彼女の専門が何なのか、正直な話僕には良く分かっていない。驚かれると思うが、本当に良く分からない。いや、本当だ。
彼女は文学史や文学概論、表象文化から民俗学、宗教学、日本文化学までありとあらゆる授業をそれはもう、恐ろしい勢いで担当し続けている。本当にそれが許されているかは分からない、というか分かりたくない。分かったらヤバい気がする。
とにもかくにも、彼女の「専門」は何なのか、という質問には「返答不能」と返すしかない。まあ、された事がないので助かっている。今後される予定はないし、僕から教授に聞く事も、多分無い。
しかし、何よりも重要であるのは今、正にこの時、彼女が何をしたいのか、という事なのだ。勿論、経験則で。
「正解です。私は、私のやりたい事をしているに過ぎません」
ぎくり。
提灯を模した電灯の下でいつもの如く静かな笑みを浮かべる教授は、灰色のソフト帽の下から鋭い眼光を覗かせていた。
「教授は読心術が使えるんですか」
「不正解です。読心術という技術は習得していません。これもまた経験則です」
「経験則、ですか」
教授は正解です、と言う代わりに小さく頷き、満足げにコーヒーを飲み干した。それを見ていた僕は何となくいたたまれなくなり、彼女の後ろで何とも受け取れない笑みを浮かべている、大陸風の内装と非常にマッチした刺繍入りの清服を着込んでいる長身の青年に軽く会釈した。
ホテルの夕食に飽きたらしい教授が外食を提案し、僕たちは商店街で見つけた中華料理屋に入っていた。店名が『クトゥルフ』という不可思議な所に惹かれたのか、それとも単純に中華が食べたかったのか定かでは無いが、少なくともこの店のコーヒーには満足しているらしい。というか、中華料理屋でコーヒーを頼むのはどうなのだろうか。そして、頼めばコーヒーが出てくる中華料理屋とは何なのだろうか。
店長らしい青年は「何でも作れるアルよ!」と胸を張って言うので、僕は無難に回鍋肉定食を頼み、教授は少し考えてから、微笑して顔を上げた。
「鱈の西京焼の調理は可能でしょうか?」
「よゆーアル!」
彼は胸を叩いて、中華鍋を振りながら鼻歌と共に厨房に消えた。……中華鍋で鱈の西京焼を作れるのだろうか。そして、中華料理屋で鱈の西京焼を注文するのはどうなのだろうか。
何はともあれ、調理者が作ると言うならそうなのだろう。僕らに出来るのは美味しい料理が出てくるのを待つ事だ。
さて、その間にやりたい事をやってしまおう。
「で、僕はそんなに分かりやすいですか」
「正解です」
ソフト帽を丁寧に脱ぎ、テーブルの端に置いて、彼女はゆっくりと足を組んだ。
「ですから、読心術の範疇外です」
「ですが、読心術は経験則の集大成だと」
「不正解です。それを言い出してしまえば、知識とは全て経験則の集大成です。貴方の場合はもう少し別な問題が発生しています」
別な問題。何だろう。
「ひょっとして気づいていないのですか?」
教授は何だか冷ややかな笑みを浮かべて、コーヒーを飲み干した。
「貴方は何か考える時、唇が動くんです。つまり、私が貴方の考えている事が分かる、という事ではなく、貴方が自分の考えている事を自ら吐露している、というのが正解です」
「なるほど」
読心術ではなく読唇術であったという事か。音は全く同じだが、意味は……あれ?
「教授」
「何でしょう」
「どくしんじゅつって、心だろうが唇だろうが結局意味合いは一緒じゃないですか? 何にせよ「読む」という行為な訳ですから」
「不正解です。「心」の読心術は観察と知識です。相手の身体の動きや会話内容によって、正解かそれに近い内容を推理し、また話術をもってそれを「正解」まで昇華します。いつも言っていますが」
「推理とは知識を引き出す事である」
「正解です。しかし、対して「唇」の読唇術は技術です。対応した言語体系と同時に習得すれば誰にでも可能で、多少の類推は必要ですが、それはゆらぎの範疇です。そもそも用途とそれが必要とされる状況が違います」
彼女はコーヒーの入っていた茶碗を持って、ちょっと振った。
「では、今厨房では何が行われているのでしょう?」
中華鍋の上で食材が跳ねているのであろう、じゅうじゅうという炎と油の音が厨房から響いている。
「……調理、です」
「何故ですか」
「音で判断しました」
「正解です。この場合、貴方に出来るのは聴覚による推理です。調理の音を「知識」として知っていれば、誰にでも出来ます。では、耳を塞いで頂けますか」
僕が両手で耳を押さえると、周囲の音はぐっと小さくなり、静かになる。教授は微笑んだまま数秒何も言わなかったが、その口元がゆっくり「もう結構です」と動いたのを確認して、僕は手を離した。
「何故、耳から手を離したのですか」
「教授の口の動きで判断しました」
「正解です」
「これが、読唇術ですか」
「不正解です」
……訳が分からない。
教授は、小さく微笑んだまま小首を傾げた。
「それは言語体系の取得によって可能になった「推理」です。それでは、もう一度耳を塞いで下さい」
言われた通りにすると、今度は教授の口が高速で動き始めた。必死で追ってみるが、てんで何を言っているのか分からない。僕が混乱している間に教授の唇は動きを止め、また「もう結構です」とゆっくり動いた。僕が耳から手を離すと、教授はまた微笑んだ。
「私が何を言っていたか理解出来ましたか」
「いえ、分かりませんでした」
「私は、英語で「私の講義にお付き合い頂き御協力大変感謝しています、もう耳から手を離して元の状態に戻って下さって結構です、ありがとうございました」と言いました。意味合いとしては「もう結構です」と同じものです。にも関わらず、貴方は手を離しませんでした。何故ですか」
「分からなかったので」
「正解です。私の会話内容は高校英語までの範囲で聞き取り可能だったと判断出来ますし、私の発音等に問題があったとは思いません。言語体系を理解して口元が見えていれば、聴覚や会話速度に依らない聞き取りが可能になるのが、読唇術です。先ほど言った「言語体系の取得によって可能になった推理」との境目は会話速度に依らない、という一点のみですが、皆が皆ゆっくり丁寧に発音するわけではありませんから、唇の動きを瞬時に判断出来る「技術」が必要です」
そこまで言ったとき、厨房からひょいと清服の青年が出て来た。手には湯気の立つ皿が載ったお盆を持っている。
「お待たせアル! 回鍋肉定食と」
そう言って僕の前に差し出されたのは、豚肉とニンニクの芽がタレでからまった、大変美味しそうな回鍋肉とご飯、中華風スープだった。なるほど、回鍋肉定食である。
「鱈の西京焼アルね」
もう一方の手に載っていたのは、また見事な焼き目の付いた鱈の切り身だった。味噌の匂いが香ばしい。
「ごゆっくりー!」
彼はひょいと頭を下げて、厨房にウキウキと消えて行った。
「いただきます」
教授は箸を掴んで丁寧に会釈し、西京焼をゆっくり崩して口に運んだ。僕も食事と厨房と調理人に感謝し、回鍋肉の豚肉をかじった。
美味しい。凄く美味しい。甘辛のタレは多すぎず少なすぎず、豚肉の脂を殺さない。中華スープはガラの効いた薄い色とそれに反比例する適度な濃さが胃に心地よいし、ご飯も真っ白でふかふかだ。教授も無言で西京焼を口に運んでいるが、心無しか箸の速度が速い。
僕が無言のまま回鍋肉を堪能していた所、教授がふと顔を上げた。
「貴方は回鍋肉が好きですか」
「はい」
「では、回鍋肉の具材を一つ思い浮かべて下さい。二秒で」
言われた通りにする。キャベツ。
「はい」
「キャベツですね」
ギクリとすると、教授は満足げに笑った。
「これが読心術です」
「なんで分かったんですか」
「先ほど申し上げた通り、読心術とは観察と知識です。今回の具体例で考えると、まず、先ほどの店主は中国出身か、少なくとも中国にいた経験があると判断出来ます。理由は彼の語尾と回鍋肉です」
言われて回鍋肉に目を落とす。冷めそうなので、豚肉を口にいれた。もぐもぐと豚肉を堪能する僕を見る教授の目は、ちょっと呆れた感じだった。
「日本で人口に膾炙している回鍋肉は、豚肉とキャベツを使用しています。しかし、こちらの回鍋肉は豚肉とニンニクの芽を使用していますし、タレの色も少しだけ赤い。匂いからしても豆板醤が多い事は明白です。四川方面で発達した、正統の回鍋肉であると予測出来ます。ここまでは知識です」
「はい」
「ここからは観察です。貴方は私の質問に答えてから、一度回鍋肉を見ました。それから一瞬目を離して、また回鍋肉を見ました。その際鼻が動いて、匂いを感じていたのだろうと判断しました。ここで知識に戻り、その回鍋肉が本場のものである事を勘案した時、逆説的に貴方が思うのは「いつも食べている回鍋肉」です。すると、この二つにおける差異を考え、また私が現在目にしている回鍋肉を照らし合わせると、違いはキャベツかニンニクの芽か、あるいはタレの調合です。ここまで良いですか」
「はい」
「そして、私は「具材」と指定しました。一般に「具材」と言った場合、「具」ですから調味料はまずいきなりは思い浮かびません。これで貴方が豆板醤や甜麺醤などの答えを出す可能性は否定されます。するとキャベツかニンニクの芽の可能性が高いですが」
「待って下さい、僕が「豚肉」と解答する確率は?」
「当然ありましたが、低いので除外しました。これもまた一般的にですが、人はいくつかの選択肢から一つを選ぶ場合、それが他人からの「挑戦」と捉えた時は、まず裏をかこうとして一番大きな主たるものを除外します。回鍋肉の場合は、豚肉でしょう。短時間での思考を指定されれば、尚更です」
なるほど、そうだろう。実際僕はちょっと裏をかくつもりだったのだ。僕が頷くと、教授は薄く微笑んだ。
「以上の理由と同じ様に、他人からの「挑戦」に対する解答を考えた時、よほど深く考えなければまず「ヒントのないもの」を考えます。今回の場合は、一般に知られているにも関わらず目の前には無い「キャベツ」が該当するでしょう。解答と論理は以上です。これが読心術の正体で、つまり推理術です」
彼女が言葉を切ると、後ろからぱちぱちと拍手の音が聞こえた。彼女が振り向くと、いつから聞いていたのか、背の高い店主が楽しげに笑っていた。
「凄いアル! 名探偵アルね!」
教授は座って振り向いたまま優雅に一礼すると、立ち上がった。
「大変美味でした、店主」
「それほどでもないアルよ。あ、名前は清志アルよ、よろしく」
謙遜する店主の顔は、それでもやっぱり嬉しそうだ。
しかし、本当に美味しかった。本当に。
会計を支払って、僕たちは店を出た。陽は落ちているのに蒸し暑い、夏の天気である。
「それで、調査はどうするんですか?」
僕が尋ねると、彼女はソフト帽の鍔をつまみ、被り直して微笑んだ。
「不正解です。調査は行いました」
「え?」
「事前情報で、先ほどの中華料理店には「不思議」がある事を聞いていました。だから、あのお店にお邪魔したのです」
不思議らしき事なんてあっただろうか。僕が首をひねっていると、彼女は呆れた風に帽子に手をやった。
「『中華料理店であるにも関わらず、注文次第であらゆる料理を、しかも美味しく作る』。これが不思議ではないとでも?」
……それは確かにそうだ。
「で、調査結果は?」
「継続、です。今日は和食しか堪能していませんので」
彼女はにっこりとしてそう言った。
またお邪魔する事になりそうだ。
枯竹四手です。宜しくお願いします。
「うろな町」企画連載3話目の投稿となります。
まず、本作執筆にあたり、寺町朱穂様の清志さんをお借りしました。
やたらとテンションが高めになってしまいましたが(笑
次回もどこかにお邪魔する予定です。
感想等ありましたら、宜しくお願いします。
やっぱり喜びます。