第四話 蒼空と輝く鎧
気がついた時には、自分がマオではなくルナ・リュミエールというケット・シー族の子供になっていた。
穏やかな死があると、信じていたのに。
マオは自分が老衰で死んだはずでは、と自己が芽生えた初期は混乱した。
だが、時間と共に「そんなものか」と結局、心は受け入れていく。
それでも、生まれ変わる前の記憶が色褪せることはなかった。
数人の兄弟と母猫に囲まれて産まれたこと。
ある日、少女とその両親がやって来て、自分を連れ帰ったこと。
歳を取るごとに、自分と少女の心が離れていったこと。
少女たちが新しいマンションに引っ越すことになり、自分は連れて行かれず、捨てられたこと。
そして、ソラという少年に出会ったこと。
全部覚えていた。
きっと、これにはワケがあるのだろうと、リュミエールは悟った。
少数のケット・シー族だけが集まってできた村に生まれ、農家を手伝う日々が続いた。
現代日本の頃と比較すると、食べる物は数ランク味は落ちていたし、仕事はキツい。
最初の頃は生まれ変わる前の世界に戻りたい、なんてことも考えた。
だが、確かな平和はそこにあった。
自然に囲まれてのどかな麦畑が眼前に広がり、小川は緩やかに流れて小魚が泳ぐ姿が見える。
空気は澄み、夜には満天の星が輝く。
夜空に浮かぶ両目のような月にも、いつしか慣れ、愛着がわくようにもなった。
ここに、骨を埋めてもいいかもしれない。
そんなことを思うようにもなる。
――その矢先だった。
『黒い渦』が現れたのは。
運命の日は、突然訪れた。
『黒い渦』から大量の暗い『影』が吐き出され、畑を、家を、この世界の家族を襲いかかった。
小さな集落にすぎない村はあっという間に壊滅する。
そして、身寄りの無かったリュミエールこと茶トラは孤児になった。
人間は正しい『道』を、『運命』を選ぶことが出来る、とある人は言う。
だがしかし、茶トラにはそんな余裕など、存在しなくなっていた。
生き残るために孤児同士が集まり、初めは盗賊団の真似事をするようになる。
月日は経ち、真似事はいつしか本物へと変わった。
子供の頃には考えられなかった、荒んだ生活。
それもいつしか受け入れるようになった。
自分はきっと、今度死んだら生まれ変わるのではなく、地獄へ行くだろう。
そんな予感も茶トラは受け入れた。
だが、「なんで自分は生きているのだろうか」という気持ちだけは、日に日に大きく膨らんでいった。
そんなある日のことだ。
見知った、一度たりとも忘れなかった顏があった。
この世界で出会うはずがない人物が現れた。
そして、茶トラは確信する。
自分はこの人を助けるために今まで、さ迷っていたのだと。
闇の中をさ迷う。
ただただ足を動かして、森を駆けるソラ。
茶トラの言っていたとおり、走る道は傾斜になっていた。
息が乱れる。
不意に、顔を何かにぶつかる。 それは樹だった。
勢いよくぶつかったものだから、鼻から血が吹き出し悶絶する。
地面を転がり、痛みが引くのを待つ。
その間にも、ソラの脳内はある思考で満たされていた。
――あの茶トラ、どうして自分を逃がしてくれたのだろう?
――本当に逃げる算段はあるのだろうか?
――自分は、このまま逃げてもいいのだろうか?
地面に這いつくばったまま、考える。
その時、ソラの視界に光が入った。
街の灯り? 日の出?
それはチロチロと輝く炎の光だった。
自動車が炎上していた。
ソラが目覚めた場所に、知らず知らず戻ってきたのだった。
レギングスに赤いシミが広がり、ポタポタと地面に血が落ちていくのを茶トラは感じた。
八寸の短剣が二本、右のモモ肉を抉り、腹をかすめた細剣がいくつもの裂傷を作る。
溢れ出る血と共に体力が奪われ、呼吸は乱れ、目が霞む。
だが、それでも茶トラのリュミエールは立っていた。
逃げる気配など、対峙した時から微塵も感じられない。
違う、逃げる算段など初めからなかった。
文字通り、命懸けでソラというヒトを逃がそうと、茶トラはその身をなげうったのだ。
捨て身の仁王立ち。
吊り橋の前から決して引かない、という強固な意志。
その気迫に、眼前の三人は気押されていた。
「なんで、なんでだよ」
縞柄のケット・シーは問う。
理解できない、とでも言いたげに目をみはっていた。
他の二人も同様らしく、ただただ傍観する。
「あのヒトは、おまえのなんなんだよ」
ああ、そんなことか、と茶トラは答えた。
「友であると同時に、恩人だ」
呼吸は乱れ、かすれた声だった。
しかし、ハッキリと言い放った。
「命の恩人だ。 ずっと、ずっと昔から恩に報いたかった。 生まれ変わっても、忘れられなかったほど、心に焼き付いていた。 だから……」
――頼む、アイツだけは見逃してくれ。
――俺はどうなってもいい。
自分の命を賭した、他者の命乞い。
多量の出血で、震える指でナイフを、しかし敢然と茶トラは構えた。
その姿に三人は、茶トラの裏切りによる怒りに身を焦がしていた先程とはうってかわって、冷静になっていた。
なんでこんな目になっても、一人のヒトを庇う?
自分の身は可愛くないのか?
そんな、理解に苦しむ感情を、三人は共有していた。
疑問が怒りを上回る。
殺意を削がれ、縞柄が細剣をゆっくりと降ろす。
その瞬間だった。
――ざわり。
例えようもない違和感が、獣人特有の第六感を刺激した。
「これは、まさか」
何かを知っているように、黒猫は声をあげた。
いや、ここにいる全員が知っていた。経験していた。
「おい!周囲を警戒しろ!」
毛を逆立てて、声色を荒立てて縞柄は叫ぶ。
その隙だった。
音もなく、『影』は縞柄の喉笛に鋭利な牙で喰らいついていた。
――『影』。
文字通り、影のように光の当たらない影のようなに黒い人型のモノ。
表面はプラスチックのようになだらかな皮膚だった。
爪は獲物を切り裂くために鋭く、目は紅く爛々と闇の中で輝く。
『影』は『黒い渦』からやってきたのを、この場にいる誰もが知っていた。
何故ならば、この場にいる誰もが、この『影』によって居場所を奪われたのだから。
一瞬のことに、誰も悲鳴を発することは出来なかった。
「あ、が、がぁ」
メシメシと、首の肉を『影』のあぎとに押し潰されて、縞柄が呻く。
ここでやっと、三毛が反応を起こす。
「ユースを、離せッ!」
短剣の一閃。
その攻撃を、『影』は牙を縞柄の首筋から離すことによってかわした。
後ろに飛び退く『影』。
その隙に三毛は縞柄を抱き抱える。
「ユース! ユース!」
首から多量の出血。
誰の目からも、縞柄が助からないことは明らかだった。
――死。
それはこの世に存在する、確かな事実。
だが、現実はそれ以上の事実を縞柄に与えようとしていた。
縞柄の首の傷口が、黒く変色する。
血液によるものではない。
――侵食。
いや、感染とでも言うべきか。
和紙に落とされた黒墨のように、牙を突き付けられた部分から『黒』が広がっていた。
頭を、胴を、爪先まで『黒』に染まる。
「ユース……」
三毛の目から涙が零れ落ちる。
全身を『黒』が覆う頃には、もはやそこには縞柄は居なかった。
そこにいたのは『黒い渦』の劵族、もう一匹の『影』だった。
「ティス、離れるんだ! もうソイツはユースじゃ……」
黒猫の、その先の言葉が舌の上に乗る前に悲鳴が起こる。
縞柄だった『影』の牙が、三毛の腕に食らいついていた。
そこから始まる感染。
『影』に噛みつかれた者は、その『影』と同じようになるのだ。
『影』に襲われた者の終着点は死ではない。『影』となり生者を襲うようになる。
黒猫は知っていた。
だがしかし、改めてその光景を、事実を目の当たりにした黒猫は戦慄した。
「ひ、ひいッ」
一歩、後退る。
そんな黒猫を、縞柄と同じようにまたしても『影』が背後から襲いかかった。
『黒い渦』から出現したのは、一匹だけではない。
二匹だった。
数刻を経たないうちに、吊り橋の前には『影』が新たに三匹出来上がった。
合わせて五匹が、茶トラを囲ぶ。
「…………」
絶望的な状況に対して、茶トラは黙っていた。
耳を傾けていたのだ。
昨日から雨が降り続けて増水した、谷底から響く川音に。
ごうごうと反響するほど、激しい音だった。
「お前らの……」
茶トラは一歩、後退する。
「お前らの仲間になるくらいなら……」
また一歩、後退。
「溺れ死ぬほうが、マシだな」
また一歩後退した瞬間、茶トラは浮遊感に襲われた。
足を崖から踏み外したのだ。
茶トラには後悔など無かった。
結果的に、ソラを逃がすことができた。
恩に報いることが、やっとできた。
それだけで満足だった。
流されるまま、生きるために生きてきた『道』などに未練はない。
茶トラは目を瞑り、死を受け入れた。
「おい莫迦!」
突然、罵声が茶トラを襲う。
と、同時に宙から崖に引き戻される衝撃をうけた。
茶トラは目をみはる。
眼前に逃がしたはずのソラが居て、心身ともに衝撃を受ける。
茶トラの服をソラが引っ張っていたのだ。
上着を脱いでいて、片手には火の点いた棒を握っている。
茶トラが目を凝らしてみると、棒にはソラが着ていた上着が巻き付けられ、松明のように炎を宿していた。
まさか、これを武器にして戻ってきたというのか。
自分を助けるために?
茶トラは唖然とした。
「フンッ!」
ソラは力強く腕を引き、茶トラを地面の上に戻す。
「危なかったな」
平然と、ソラは言う。
――プツン。
何かが茶トラの中で弾ける。
「莫迦は、おまえだ!」
持てる力を込めて、茶トラは叫ぶ。
「逃げろと言ったはずだ! 危険なのを承知で戻ってくるなんてばか……」
「おっと!」
茶トラの叫びを遮るように、ソラが叫んだ。
『影』がソラたちに襲いかかろうと、向かってきたのだ。
火の着いた木の棒を振り回し、茶トラと『影』との距離をなんとかして広げようとするソラ。
『影』は火を恐れるように、後ろに飛び退く。
「やっぱり、えっと、生き物? ……だから、火は怖いんだな。 で、なんだって? 莫迦?」
ソラは茶トラに訊く。
「莫迦だ! 俺が逃がそうと体を張ったのに、逃げないなんてばかだ!」
「それは……」
「どうして逃げなかった!」
茶トラは息を荒げ、尋ねる。
すると、またもや平然とソラは答えた。
「あんたは俺を助けてくれた。 そんなあんたを見捨てるわけには、いかねぇだろうが」
それに付け加えて。
「あと、あんたの毛皮の模様が、なんか俺が昔飼っていた猫の模様と似ていたから見捨てられなかった」
「…………」
ソラの言葉に、茶トラは絶句した。
――本物のばかだ。
馬鹿げた理由だ。
ソラのばかさ加減に、茶トラは呆れ果てた。
と、同時にソラのお人好しに笑みが零れた。
――こういう性格だから、自分は救われたんだな。
そう、茶トラは納得してしまった。
「……おい」
「なんだ」
「俺は足を怪我して走れない。だから、俺を置いて逃げろ。……なんて言っても聞かないだろ?」
「当然だ。と、いうかそれじゃあ助けに戻った意味がない。ほら、肩を貸すぞ」
茶トラは先程の戦闘で血だらけであった。
それにも関わらず、自分の服が汚れることは気にせず、ソラは茶トラを支えた。
「なら、火を絶やすな」
ポツリと、茶トラは助言した。
「こいつらは火を怖がるからか? というか、こいつらはなんなんだ?」
「こいつらはお前を追いかけた盗賊の、俺のかつての仲間の『残骸』だ。 あと、火を怖がる、というのは正確じゃない。 こいつら『影』はエネルギーに弱いんだ」
続けて茶トラは言う。
「炎や冷気、雷といった強いエネルギーに触れると『影』は消滅する。 理屈は分からん。 だが、自分が消滅するのを『影』は嫌がるのは確かで、唯一こいつらに対抗する手段だ」
「唯一、ってことはあんたが持っているナイフとかは効かないのか?」
「怯みはするし、腕や足、頭を切り離すことはできる。 だが、切り離しても殺すことはできない。 残った部分で襲ってくる」
「まるでゾンビみたいだな……」
ソラは海外で発売されたホラーゲームを思い出した。
頭を吹き飛ばしてもプレイヤーに襲いかかってきて、四肢を切断しない限りどこまでも追ってくる、というものだった。
「で、火を絶やさないとして、どうするか……」
「その火で吊り橋を焼いて、谷底に落とせ。 それでこいつらは立ち往生になる。 あんまり賢くない、『影』って奴は。 本能だけで行動するんだ」
なるほど、とソラは呟いた。
「……ていうか、あんたの仲間が追ってくる時に、そのナイフで橋を落とせば、あんたも無事だったんじゃないか?」
「吊り橋に使われるような丈夫な縄に、俺のナイフじゃ刃が立たん」
「そうなのか、まあいいや。それじゃあ逃げるぞ」
茶トラを庇いながら、ソラは吊り橋まで後退した。
反対岸まで下がり、吊り橋を見ると、『影』は狭い吊り橋の中間で一列に並んでいた。
ソラの持っている火を嫌がるようで、こちらを睨んでいるだけだった。
「よし、あとは橋に火を点ければ……。クソッ、雨で湿っていてなかなか火が燃え移らないぞ」
「しばらく待っていれば乾いて火は点く……」
茶トラが言いかけると、吊り橋が急にきしんだ。
『影』が走り出したのだ。
ダンダンと木製の吊り橋を踏みしめて、ソラたちに向かってきた。
「ソラ! 火を『影』に向けろッ!」
「分かっている!」
火の点いた棒を『影』に向けるソラ。
そして、茶トラは息を飲んだ。
信じられないことが起こった。
「なっ……」
「え……?」
『影』は火を消したのだ。
自分の体で覆うように、火の点いた棒の先を掴み、揉み消した。
炎のエネルギーで、『影』自身の体が半分消滅するのにも関わらず。
辺りは再び闇に閉ざされた。
「こいつらは、賢くないはずじゃ……」
明らかに本能から逸脱した行動。
自衛本能を抑え、目的を達成しようとするのは、それではまるで……。
茶トラはハッとした。
「ソラ!」
火を消した『影』を飛び越えて、後ろにいた『影』が襲いかかってきた。
茶トラはソラを突き飛ばす。
ソラは勢いよく、湿った土の上を転がった。
「おい、あんた……ッ」
すぐさま起き上がって、ソラは見た。
『影』の鋭い爪が茶トラの胴体を一閃したのを。
「が……ッ!」
その傷口は黒く変色していた。
かつての仲間たちと同様に、『影』が感染したのだ。
茶トラは、自分はもう助からないことを悟り、叫ぶ。
「逃げるんだ、ソラ! 俺はもうだめだ! お前だけでも……」
だが、しかし。
「あ……?」
ソラは自分の胸を見た。
『影』の黒く鋭い爪が、背中から貫いている。
胸から手が生えているかのようだった。
いつの間にか、『影』の一匹が背後に回りこんでいたのだ。
あまりの速さに、ソラは反応することすらできなかった。
爪を引き離される。 と、同時におびただしい出血が起こった。
口からも吐血する。
茶トラが何かを叫んでいる。
しかし、ソラの耳には耳障りなノイズだけが響いていた。
◆ ◆ ◆
――暗い。
真っ暗だった。
暗黒の空間。
頬に受ける空気の流れも、暖かさも冷たさも感じない。
ただ、自分の意識だけが更なる暗闇に落ちる感覚は研ぎ澄まされていく。
落ちる。 落ちる。 眠りに。
ふと、落下の途中で、ソラは考えた。
このまま眠ってしまってもいいのだろうか?
しかし、その思考も暗闇に掻き消されていく。
ああ、だめだ。 力が出ない。
暗闇にその身を委ねようとした、その時。
声が聴こえた。
――お前が選ぶ道は二つ。
誰の声だろうか。
思い当たらない。 だが、何故かソラはこの声に懐かしさを覚えた。
―― 一つは運命に従った穏やかな死。
――もう一つは運命に抗った苦しみの死。
なんだ。 結局どのみち死ぬんじゃないか。
ソラは微かな思考の中で、呆れた。
しかも後者は明らかに部が悪い。
「抗った先に、何があるんだ?」
返答はあっけないものだった。
――無い。 全ての道の終着点は死だ。
声は続けて言った。
――だが、終着点をさきのばしにすることはできる。
さきのばしに。
さきのばしにして、やりたいことは?
ある。 たくさんある。
ソラの指先に、力が宿った。
――選べ。 お前を選んでやる。
ソラは、選んだ。
◆ ◆ ◆
広がってゆく冷たさに、死への実感を確信せずにはいられなかった。
自分のではない。
目の前の彼、ソラという黒髪の〝ヒト〟のことだ。
傷口は深く、内臓までズタズタになっていた。
血液は多量に溢れ出し、更には『影』にまで感染してしまった。
――守れなかった。
後悔と絶望の感情だけで、茶トラの心は満たされていた。
茶トラは死が怖くなかった。
盗賊稼業をしているゆえに、いつ討伐隊に駆除されるか覚悟していたから。
悪行の報いがいつか返ってくると、分かっていたから。
だが、この〝ヒト〟は別だ。
ソラは何もしていない。
なのに、この仕打ちはなんだ?
茶トラは神を呪った。
『影』は二人が感染したことを知っているのか、ただその紅い瞳で見つめているだけだった。
「……ソラ、すまない」
諦念を込めて、茶トラは呟くように謝罪する。
その時、不思議なことが起こった。
――光。
激しい光だった。
夜の闇の中で、ソラの体が輝き瞬いた。
「な、なんだ?」
茶トラは驚きの声をあげる。
やがてその光は、ソラの一点に収束した。
腕にまとわりついた光がガントレットに。
脚にはグリーヴスが。
胴体はアーマーを。
そして、頭にヘルムが装着された。
『影』に侵食された部分を払拭するように、鎧が覆い尽くした。
深い傷口までも。
その光景を一部始終、茶トラは見ていた。
――群青色の鎧。
暗闇にも関わらず、輝きを放つ鎧は、まるで蒼空のようだった。
何も言わず、ソラは立ち上がる。
やることは、分かっていた。
鎧から受ける意志を、ソラは感じ取ったのだ。
運命を正せ。運命を戻せ。
一番近くにいた『影』に歩み寄り、『影』の腕を掴んだ。
一瞬のことだった。
あまりにも自然な動作で、かつ俊足で近づいたからか、『影』は身動ぎ起こすことはなかった。
そして、ソラは力を発現させた。
「――戻れ!」
『影』の姿がぼやけたのを、茶トラは見た。
まるでノイズが走ったようだった。
すると、今度は『影』の黒が失せていく。
縞柄の体が、復元されていった。
ビデオテープを逆方向に回したように、縞柄の『影』に感染した体が元通りになっていく。
数秒も経たないうちに、『影』は消え去っていた。
倒れ崩れる縞柄。
それに関心を示さず、鎧を纏ったソラは次の『影』に歩み寄る。
今度の『影』は抵抗を試みるように、鋭利な爪を振り上げた。
しかし、ソラは素早くその腕を掴み、そしてまた力を発現させる。
三毛が『影』から解き放たれた。
そして再び、ソラは『影』に歩み寄る。
一分も経たないうちに、この場から『影』は消え去っていた。
倒れる縞柄、三毛、黒猫、そしてオーク族の男と妖精族の女。
後者二人は『黒い渦』から現れた『影』の元身であった。
ソラはこの場にもう『影』がいないのを確認すると、茶トラの元へ戻った。
茶トラの身体を蝕むように、黒色が広がっていた。
「な、なにをしたんだ?」
茶トラの問いかけに、ソラは鎧をガシャガシャと脱ぎ捨てながら答える。
鎧は光の瞬きとなって消える。
「『元に戻す』、……らしい。 自分にもよく分からない」
ソラは茶トラに刺さった短剣を掴んだ。
そして、一気に抜く。
「痛ッ!」
「我慢してくれ。 こうしないと多分一緒に治せない」
ソラは鎧無しでも力は発現させた。
手が触れると、茶トラの黒が薄れていく。
茶トラは見た。
ソラの腕時計の秒針が、逆巻きに高速で動いていた。
――時を戻している。
時を戻す魔法なのか?
茶トラがあれこれ考えているうちに、かつての仲間たちとの戦闘で着いた傷口が塞がる。
穴の空いたレギングスまで元の状態に戻ろうと、治っていく。
痛みも消えていた。
茶トラはソラの力の正体が分かった。
――だがしかし、なぜソラがこのような能力を使える?
この世界では最下層に位置する、魔法も使えないはずの脆弱な『ヒト』なのに。
そんな疑問が思い浮かぶ。
しかし、突如襲う微睡みに、茶トラは抵抗することができず、意識を閉じてしまった。
夜はまだ深くなる。
ソラだけがただ、この場でハッキリと意識を保っていた。