第三話 蒼空と異世界
プレイア〝元〟帝国領、北方に位置するターニア山脈に設置された天体観測所。
空は雲一つないほど澄みわたり、夜と夕焼けのグラデーションに凛々と星光が輝く。
そこで、異変が起こっていた。
「どうしたんですか、先生?」
ヒラヒラと宙を飛び、先生と呼んだ人物に近付く少女。
背中に碧色の蝶の羽根を生やした妖精族のルタ・キリスは、星占学の師匠であるマーダン・クレセントに尋ねる。
豚顏で恰幅の良い、オーク族のクレセントは恐れに指先を震わしていた。
「おお……。 見ろ、キリスよ。 これを見なさい」
クレセントが指差したのは一つの水晶球だった。
天体に浮かぶ星の位置で未来を占う星占学者たちは、水晶球を媒介にして星詠みの力を発現させているのだ。
キリスは水晶球を覗き、ハッとした。
――計都、不吉な星が北の守護星に重なったのだ。
「……ッ! これは先生、もしかして!」
「ああ……」
クレセントは固唾を飲んだ。
「滅びの星が、落ちてきてしまった」
――起きなさい、ソラ。
知らない女性の声が、聞こえたような気がした。
自動車、黒煙、炎、炎……。
雨粒がポツポツと、頬を叩く。
暗く、湿っていて、カビとガソリンの匂いがした。
ソラは自分が地面に伏していることに気が付く。
頭の中身がガンガンと響き、耳鳴りと共に痛む。
ゆっくりと立ち上がり、周辺の状況を理解しようと見渡し、そして驚愕した。
鬱蒼とした樹々が、辺り一面に広がっていたからだ。薄暗い森の中。
そうとしか例えようがない空間が、ソラの目の前にあった。
そこにソラは一人、ポツンと存在していた。
「ここは、どこだ」
樹々は答えない。分かっている。
だが、ソラは見知らぬ森の中で自分の疑問を口にしたい衝動に駆られた。
軽く、頭の中がパニックに陥っている。
なぜ自分はここにいる。
あの空に浮かんだ黒い渦はなんだったんだ。
そして、なぜ吸い込まれたのだ。
ソラは思い出す。
タクマは、仲間たちは。
そして、リンはどこに行った。
黒い渦に巻き込まれる直前に見たあの光景。
タクマが、リンが宙に舞う姿が目に焼き付いている。
自分と同じように、黒い渦に吸い込まれた。
あれが見間違えでなければ、彼、彼女もまた、この近くにいるのではないか?
「タ、タクマ! リン! どこにいる?」
ソラは叫ぶ。
だが、返答は静寂だけだった。
この付近にいないのか。
自動車がボンッ、と火を吹き出し、近くの草むらへ延焼する。
ボディは大破して、フレームは歪みきっている。
幸いにも、車内には誰も居なかった。
そこでふと、ある考えがソラの脳裏を過った。
もしかしたら、タクマやリンは声が出せない状況に陥っているではないか、と。
自分は無傷だったが、そばにある自動車はここまで破壊されているのだ。
可能性は、ありえる。
それならば、一刻も早く救助をするべきだ。
――捜さなくては!
そんな使命感によって身体の中心から末端に至るまで力が湧いてきて、一歩、また一歩と歩みを進める。
途中、近くに落ちていた傘を拾い上げ、開いた。
体温が雨の冷気によって奪われていく。
それと比例して体力が失われていくのをソラは感じた。
歩き始めてしばらく経つ。
自分が倒れていた地点から時計回りに少しずつ大回りになるように、渦を巻くように歩いているが、誰も見つからない。
しらみつぶしだった。
あるのは木、草、枯れ枝だけだ。
あてもなく、さまよう。
靴が雨に濡れて、足の末端が凍えるようだったが、それでも歩き続ける。
ここはどこだ。 ソラは少ない情報量から懸命に、答えを出そうと努力する。
不意に、音がした。
草を掻き分ける葉音。
最初は野生動物かと思った。 次は人間だとも考えた。
もっとも、後者は人間に会いたい、というソラの希望的観測に過ぎないのだが。
だが、音の正体を知った時、ソラは驚愕した。
獣でも、ましてや人でもなかった。
樹々の間から飛び出してきたのは細い体で長身。
濃茶色のロングブーツに黒のレギングス。
黒い革のジャケットを羽織っており、オマケに腰にはレイピアと呼ばれている細剣をさげていた。
頭は毛むくじゃらで、黒猫の顏そのものだった。
猫と判断したのはマズルが低く、黄色の目で瞳孔は細く切れ長で、三角形の耳が頭頂部から生えていたからだ。
その頭が丁度良い大きさで胴体にはまっており、着ぐるみ等の作り物という印象はなかった。
ご丁寧に細長い尻尾まで生えている。
そんな珍妙な生物と目が合ってしまい、ソラは言葉失ってしまう。
思考が、真っ白になる。
ソラが思考を再開する前に、先に動いたのは黒猫だった。
「いたぞ! 〝ヒト〟がいたぞ!」
日本語を喋れるのか、と見当違いなことを考えてしまうソラ。
冷静ではない、理性が完全に振りきれてしまっていた。
そんなソラに近づいてきた黒猫が羽交い締めにして捕まえるのは、あまりにも容易なことだった。
洞窟の中だというのに、明るかった。
光源は白い石。それが光り輝いて洞窟の岩肌を照らしていた。
日本では、ましてやテレビの中ですら見たこともない物質。
ソラは牢屋の格子を掴みながら、向かいの壁に設置されている、その光石を見つめていた。
羽交い締めにされたすぐあと、黒猫の仲間が続々とソラの目の前に表れた。
灰色と白の縞柄、三毛、茶トラといった多様な猫の獣人ばかりだ。
「牢屋に連れていけ」と、リーダー格らしい縞柄が黒猫に命じる。
そして強制的にこの洞窟まで連れこまれて、設置された牢屋に放り出された。
洞窟の中だというのに、不思議と暖かい。
雨で冷えきった体のソラにとって、それだけは救いだった。
「あの、すいません」
牢屋の見張り役をしている三毛の猫獣人にソラは話しかける。
人間であるソラには猫の顏から性別を判別することは出来ないが、三毛の胸元が膨らんでいることからおそらく女性だろう。
三毛は返事をすることなく、手元のナイフで木の棒を鋭利になるように削っている。
だが、三角形の耳はピクピクとソラの言葉に反応していることから、話は聞こえているらしい。
「お姉さん、何作っているんですか」
「……獲物を捕らえるための罠よ」
良かった。 会話をしてくれるらしい。
そしてソラは、探りを入れてみた。
「なるほど、じゃあ捕まった俺も、これから食べられるのですか」
「まさか。 ヒトなんか食べるわけないわ。 それよりも売って、その金で美味しい物を買った方がマシよ」
どうやら、自分は後々売られるらしい。
とりあえずしばらくは命を取られないことに、ソラは安心した。
――ソラは落ち着いているように見えているが、今現在も冷静な判断ができてはいなかった。
捕まって牢屋に入れられていること、後に売られるということに実感が持てていない。
まるで、他人事のように。
「売るって、誰に? やっぱり労働奴隷としてですか」
「誰だっていいでしょ。 あと、貧弱で魔力もない〝ヒト〟が労働できると思って? 馬鹿馬鹿しい」
――魔力?
魔力なんてオカルトじみた物が、口に出せるほど日常的に存在するのか。
ということは、薄々ソラは感じていたことだがここは日本でも、ましてや地球でもないということか。
異世界。 そう、異世界だ。 自分はあの黒い渦を通って、異世界に来たのか。
「じゃあ、黒い渦を通って、ここに来る人が以前にも……」
そう言いかけて、ソラは口をつぐんだ。
冷たい殺気が、体を突き抜ける。
殺気の発生源は間違いなく、毛皮が逆立っている三毛からだ。
怒りに、それとも恐れから毛を逆立てている?
分からない、読み取れない。
少なくとも、これ以上尋ねるのは得策でないとソラは判断する。
ソラは黙って、岩壁に寄りかかった。
――黒い渦。 三毛はそのキーワードに反応した。
あの、辺り一面かまわず吸い込いこもうとした黒い渦が彼女に何をもたらしたのだろうか?
未だに尽きぬ疑問。だが、今は訊く時でない。
ソラはソッと、まぶたを閉じた。
その様子を聞き耳立てていた一人の猫の獣人がいた。
どれほど時間が経ったのだろうか。
洞窟内では時間の経過がわからない。
ふと、ポケットを探ると固い物に触れた。
ソラは思い出した。
――そうだ、時計だ!
リンから貰った腕時計の入った箱があるではないか。
ソラはすぐさま箱から腕時計を取りだし、時間を確かめる。
午後八時。 夜になっていた。
もっとも、この世界と元の世界が同じように時を刻んでいるかわからないが。
それでも目安ぐらいにはなるだろうと、ソラは腕時計をはめた。
不意に、牢屋の外から男の声がした。
「おい、ティス。 リーダーがおまえを呼んでたぞ」
部屋の入口にいた茶トラが声の主だった。
ティスと呼ばれた三毛の仲間だ。
「リーダーが? なんでさ」
茶トラはかぶりをふる。
「知らんな。 おまえ、何かミスでもしたんじゃないか?」
「覚えはないんだけどなぁ」
ガシガシと、三毛は頭の毛をかきむしる。
「ここは俺が見ているから、おまえはリーダーのところに行って用件を訊いてこい」
茶トラは洞窟の奥を指差す。
「わかった、すぐ戻る」
そう言って、三毛は牢屋をあとにした。
茶トラとソラの目が合った。
青い瞳。茶トラは三毛や黒猫と同じいでたちをしているからに、彼らは何かのグループなのだろうか。
ジッと、こちらを見つめている。
「なんでしょうか」
ソラはおそるおそる尋ねる。
「名は」
茶トラは短く尋ねる。
「雨蔵蒼空です」
ソラはあっさり本名を明かした。
そこでふと、しまった、と考える。
魔法が存在するのだ。真名を知ることによって、その名の持ち主を魔力的な縛ることができる。
そんな魔法が存在するかもしれない。
偽名を使うべきだったか、とソラは後悔した。
すると、茶トラは思いがけない行動を起こした。
「さあ、ここから逃げるぞ」
疑問の声が舌の上に乗る前に、茶トラの持っていた鍵で牢屋の扉が開き、ソラを牢屋から引っ張り出す。
手を引かれ、わけがわからないままソラは牢屋をあとにした。
雨は止んでいたが、曇り雲が月灯りを阻む。
夜の森は暗い海の中のようだった。
ゆくてを遮る枝葉は波のように体をかすめ、押し戻そうとする。
足元さえ闇で見ることは叶わず、まるで宙を漂うようだった。
それでも転ばずに前に進めるのは、手を引いてくれるこの茶トラの猫獣人のおかげだろう。
走りやすい獣道を選び、導いてくれているのだ。
「なんで、俺を、助けてくれるんだ?」
茶トラは振り返らず、答えもしない。
「あんたは、あいつらの、仲間じゃ、おわ」
ソラの足元が滑り、ふらつき、思わず倒れそうになる。
それをとっさに支えて、転ぶのを防いでくれたのは茶トラだった。
「舌を噛むぞ。 時間もない、話はあとだ!」
また二人で走り出す。
ソラの疑問は尽きなかったが、この様子では仕方がない。
「じゃあ、時間がありそうだったら、また訊くからな!」
呼吸が乱れ、ソラの体力が底をつきそうになった頃、不意に茶トラが立ち止まる。
崖と崖の間に架けられた木造の吊り橋の前だった。
川の流れは見えないが、谷底からゴウゴウと水音が響く。
「ハァ、どう、ハァ、したんだ?」
しどろもどろになりながら、ソラは訊く。
「……もう追ってきた」
ソラは驚いた。
「追ってきたって、あんたの仲間だったやつが? こんな暗い森だっていうのに?」
「こんな暗闇、俺らケット・シー族にとって昼間と同じさ」
ケット・シー。
ヨーロッパで、童話の中で語り継がれる猫の妖精の名前だ。
――目の前の茶トラは妖精と呼ぶには、いささか大きいが。
自分より頭二つ分、背が高い。
ソラは場違いにも、そんなことを思ってしまった。
「おまえはこのまま逃げろ」
茶トラは闇を指差した。
「ここからは傾斜になっている、森を抜けたその先に四方を壁に囲まれた街がある。 その街の入口にある教会に行け。 そこの持ち主は〝ヒト〟であろうと匿ってくれる」
「あんたはどうするんだ」
「俺は奴等を食い止める」
茶トラはナイフを抜き払い、冷然と言った。
「あんたは、その後に逃げるアテでもあるのか?」
「あるさ。 とっておきのがな」
ソラは茶トラの顔を見た。
――本当に?
それを察したのか、茶トラは優しく告げる。
「大丈夫だ。 それともお前、捕まって〝研究所〟に売られて、一生を人間としての尊厳がない実験動物として過ごす方がいいか?」
ソラはぞっとした。
実験動物? 自分が?
そんなところに売られようとしていたのか?
ここでやっとソラは、自分の身に起きている危険を実感することができた。
「まさか」
「なら、走れ。 生き残るんだ」
茶トラはそっとソラを押した。
「走れ!」
「……ッ!」
ソラは走り出した。
その背中を、懐かしげに見つめていたのをソラは知るよしもなかった。
「……どういうつもりだ?」
リーダーである縞柄が訊く。
「まさか、あの〝ヒト〟を売り払って、おまえだけが賞金を独り占めしようとしていたのか」
「…………」
茶トラは黙ったままだった。
「だとしたら、浅はかだったな。 おい、お前ら。 ヒトの方を追え」
三毛と黒猫が走り出す。
――が。
「うおっ」
「……ッ」
三毛と黒猫の一歩先の地面に、それぞれ一本のナイフが突き刺さっていた。
「……誰がこの先を通っていいと言った?」
ナイフは茶トラが投擲したのだ。
あまりの早業に、二人は思わず足がすくんだ。
「てめえ……ッ!」
縞柄が細剣を抜き、捲し立てる。
「お前、何やっているのか分かっているのか? 仲間だぞ! 故郷を失った者同士、友情を誓いあった仲だぞ!」
その問いかけに、茶トラは静かに答えた。
「今この場で勝るのは、友情ではない」
一歩、茶トラは踏み出し、言い放った。
「忠義だ」
その言葉に、他の三人は我が耳を疑った。
――忠義?
故郷を失い、仕方なく盗賊に身を落としながら、忠義だと?
騎士のような真似ごとを。
怒りが込み上げ、剣を茶トラに向ける。
三人は茶トラに向かって走り出す。
「……泣くなソラ」
ポツリと、茶トラは誰の耳にも入らないほど小さい声で呟いた。
夜の帳より黒い、暗黒空間が空に浮かんでいた。
――黒い渦だ。
森の上空に黒い渦が出現していたことを、その時は誰も知らない。
ずるり、と『黒い渦』の中心から『影』が這い出してきたことも。