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第一話 蒼空との別れ

 今にも死にそうな彼がいた。

 肌寒い五月雨がシトシトと降る夕方、当時幼稚園生だったソラが帰宅する途中に彼と出会った。

 彼とは猫だ。 ダンボール箱に入れられた猫だった。

 茶色でトラ柄の猫だったが砂埃と雨に濡れて、毛皮は暗い色に変色し、目ヤニで片方のまぶたが塞がっている。

 ダンボール箱には何も書かれていない。

「捨て猫です、拾ってください」

 と、それぐらい書いてもよさそうなのに何も書かれていなかったのは、きっと元の飼い主はこの猫にあまり関心を持っていなかったのだろう。

 見るからに猫はやせ細っており、餌を満足に食べていない様子だった。

 猫は片方の目でこちらを見つめているが、鳴くことはない。

 人に媚びないだけなのか、それとももう鳴く体力すらなかっただけなのかは分からない。

 ただソラはその姿を見て、この猫を捨てた飼い主に憤りを感じるよりも先に、この猫を救いたいと思った。

 偽善なのかもしれない、哀れな猫が不憫に思っただけもしれない。

 ソラは後々思う。

 それでも彼、のちにマオと呼ぶ猫を抱えて走っている時は何も考える暇はなかった。

 この夜、仕事から戻った親を説得するためにソラは人生初の土下座と、「一生のお願いだから!」という言葉を呪文のように繰り返し、マオは家族の一員になる。


 動物病院に何度か連れて行くと、マオの片目は開くことができるようになる。

 だが、片目は光を感じるまでしか治せなかった。

 人間に捨てられたマオだったが、意外にも人間が好きなようにソラは思えた。

 家にあがる初対面の人間ですら、しっぽを立てて足元に近寄り、すねに頭をこすり付ける。

 もちろん家族にもよく懐いた。

 構って欲しい時には猫のオモチャを人の目の前まで持っていき、こちらを無言で見つめてくるのだ。

 マオ、と呼ぶとニャア、と応える賢い猫であった。

 そんな愛想の良い猫だったから、始めは飼うのを反対していた親も、いつしか嬉しそうにマオと遊ぶ機会が増えていった。

 マオはますます家族として受け入れられた、とても楽しい日常だった。

 そんな日々が、当時のソラはずっと続くと信じていた。


 広がってゆく冷たさに、死への実感を確信せずにはいられなかった。

 自分のではない。

 目の前の彼、マオという茶トラの雄猫のことだ。

 マオは今年で十二年以上、この雨蔵家で飼うことになる。

 拾った時はすでに成猫していたから、詳しい年齢は分からない。

 老衰だ。 寿命が尽きようとしているのだ。

 もう長くはない、ソラは心の奥底で感じた。

 最近では餌を残すこともある。

 苦しそうに息を吸い、吐き出すマオの体は力なく、横に平べったくなっていた。

 以前、苦しむ彼を病院に連れて行くと、いっそのこと安楽死させるべきでは、と医者に勧められたことがある。

 けれども、その時まだマオが鳴く体力があった頃、彼はこちらを見て甘えるような声で話しかけてきた。

 すり寄って来る時にいつも鳴く声色だった。

 それでソラはマオを安楽死させるなんて、できなくなる。

 マオの言葉はわからない。 彼の心が理解できる、なんて言えない。

 でもマオがこちらを信頼しているのは、確かだった。

 だから、せめてソラはマオの信頼に応えたく、最後まで一緒にいることを選んだ。

 病院から帰ってくる時には、もうマオには鳴く体力すら残されていなかった。

 そして今、ソラは家の二階にあるマオ専用のソファーのそばで彼と寄り添っている。


 どのくらい時間が過ぎただろうか。

 気が付いた時には膝を抱えたまま、ソラは思わず眠っていた。

 顔を窓に向けると、窓の外はすでに夜の帳が下り、暗くなっていた。

 家の前に設置された街灯のわずかに入ってくる光だけが、部屋を薄らと照らす。

 その時、不思議なことが起こった。

「ソラ」

 声が聞こえた。

「ソラ」

 聞きなれない低くしがれた声がした。

「誰だ」

 ソラは警戒する。

 最初はテレビの音声かと考えた、しかしテレビ特有の雑音がない。

 遠くから聞こえたわけでもない、近くから声がした。

 ソラは起き上がって見渡して、声の発生源を探る。

 そして、思わぬところから声が発生していたことに気が付いた。

「ソラ」

「……マオ?」

 マオの口が動く。

「そうだ、俺だ」

 ソラは絶句した。 マオが、猫が言葉を喋っているのだ。

 十数年の長い付き合いになるが、こんな経験は初めてだった。

 マオは姿勢を正して、こちらを向いている。

「マオ、お前喋れたのか?」

 夢を見ているような気分だった。

「……猫は生涯に一度、人の言葉が喋ることができる時期がある、今がそれだ」

 落ち着いた声色でマオは語る。

「そして理解した、猫が人の言葉を喋れる時、それは……」

 死ぬ直前だ、そうマオは、はっきりと宣言する。

 ソラは驚いた、だが同時に理解し、受け入れた。

「……死ぬのか」

「ああ、もうすぐ死ぬ」

 淡々とマオが、まるで他人事かのように言う。

 その時を、マオが弱っていく時にソラは受け入れていた。

 受け入れているつもりだった。

 だが……

「泣くなソラ」

 目頭が熱くなる、眼がチクチクと痛む。

 泣くな、とソラは言われたが、心を制御することができなかった。

「せっかく、話すことができたのに、それが最後だなんて、そんなの……」

「俺はその最後に話すことができて、神に感謝している」

 猫も神に感謝するのだなぁ、とソラは思わず場違いなことを考えてしまった。

「ソラ、お前に伝えたいことがある」

 ソラは黙って聴いた。

「ありがとう、お前は俺にとって最高の友人だ。 家族だ。 そして、恩人だ。 感謝しても感謝しきれない」

 頬を伝う何かが、流れ落ちる。

「もし、あの時お前と出会えなかったら、俺は死んでいただろう。 そんな俺を救ってくれたのが、ソラ、お前だ」

 涙だ。 涙があふれて落ちる。

「この十数年、これほど平穏な毎日を送れたのは奇跡のようだった」

 何も言えない。 ソラはただ優しく語りかけるマオを見つめるだけだった。

「これを喜ぶことはあれど、悲しむ必要なんてどこにもない」

「でも、これからは……」

「泣くなソラ、お前は男なんだろう。 しっかり気構えて、受け止めなくちゃならん」

 しばらくの沈黙。 そしてソラは、涙を拭った。

「そうだ、それでいい」

 マオは目を細めて、嬉しそうにソラを見つめる。

「お前は誰よりも優しい、だからこそ誰よりも強くならなくてはいけない」

「……疲れるんだね、優しいって」

「ああ、疲れるだろうな。 でも、だからこそ価値がある」

 また泣きそうになるのを、ソラは必死に堪えた。

 マオの心に応えたかったからだ。

「ありがとう、ソラ。 また、どこかで……」

 そこでソラの意識は途絶えた。


 どのくらい時間が過ぎただろうか。

 気が付いた時には膝を抱えたまま、ソラは思わず眠っていた。

 顔を窓に向けると、窓の外はすでに夜の帳が下り、暗くなっていた。

 家の前に設置された街灯のわずかに入ってくる光だけが、部屋を薄らと照らす。

 あれは、夢だったのだろうか。

 ハッとして、ソラはマオに目をやる。

 マオの体が大きく痙攣している。

 これが死だ。

 死という嘴が、マオの体をつついているのだ。

 ソラは呼び掛ける。

「マオ、マオ」

 返事はない。

 マオはすでに意識を手放しているのだろう。

「マオ、マオ」

 それでもソラはマオの名を呼び続ける。

 そうすれば奇跡が起こるかもしれない。

 死の淵から甦るかもしれない。

 でも、奇跡は、起こるはずがなかった。

 マオの体が一際大きく痙攣を起こした後、膨らんだ風船が萎むように、彼の体は静かになった。

 静寂が訪れる。

「マオ」

 マオだった物は返事をしない。

 もう、二度と。

 その事実がソラの心に刃を突き立て、静かに、ゆっくりと布のように引き裂いていく。

 そして理解した。

 マオは死んだ、と。

 以前、人間の死体をソラは見たことがある。

 葬式で、だ。

 その時は、人間は死ぬとマネキンみたいだ、と思ったことがある。


 マオの死体は、まるで剥製のようだった。


 マオが死んだという現実を噛みしめ、ソラは階段を降りる。

 キッチンには母親がいた。

「……マオは?」

 憔悴した様子のソラに、優しく声をかける。

「今、死んだよ」

 先刻、理解したものを母親に伝える。

「そう……」

 母親はうつむくと、それ以上のことは聞かなかった。

 あえて聞かなかったのだろう。

 それがソラにとっては救いだった。


 ソラは自分の部屋に戻ると、ベッドに倒れこんだ。

 すると記憶のカケラがまるで投影機のように、ソラのまぶたに映し出された。

 よく一緒に遊んだ記憶。

 マオが何かをくわえて自分にくれたこともあった。

 ――それがネズミの死体で、当時は悲鳴をあげるほど驚いた。

 その事件のせいで、今でもソラはネズミが苦手だ。

 マオにとっては、大事な食糧を分け与えたつもりなのだろう。

 家に帰ればお出迎えしてくれたマオ。

 テレビを見ていると、邪魔するように膝の上にのしかかってくるマオ。

 ソラにとって、マオは分身だった。

 兄弟のようでもあった。

 ソラは目を閉じる。

「泣くなソラ」

 涙だけは流さなかった。



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