第7回:緩慢な死の予感
はずれはふらふらとした足取りで駐車場を立ち去ろうとする。妙にぬらぬらとした感覚が額にはりついているので、触れて確かめてみると血液だった。
(洗濯で落ちるだろうか)
慌てた様子もなくため息をついて、無造作にコンビニの袋が中身ごと打ち捨てられている駐車場の入り口まできたとき、背後から呼び止められた。
「待てよ」
たらこ唇の声だった。はずれは待たずに駆けた。
背に悪寒が走った。
はずれは、咄嗟に左に跳ぶと、真横をビール瓶が飛んでいった。地面に落ちて、ガランガラと転がっていく。
振り返ると、たらこ唇の少年が不気味な笑みを浮かべてたたずんでいた。
「まだ、終わってないぜ。まだ、まだだ。まだ、てめえが死んでねえじゃねえか」
目は血走り、犬歯はむき出しで、まるで悪鬼のような形相である。薄い蒸気のような白煙が、身を覆うようにたちこめている。その表情の変化は、しかし、はずれを驚かせるには至らなかった。はずれは伸び放題の前髪の下から無感動に黒瞳をのぞかせている。
だが、変化はそれだけではなかった。
「う……ぐぁががががぁっ、がぁ」
唐突に、たらこ唇の少年の肩が隆起した。明らかに正常ではない盛り上がり方だ。筋肉の膨張ではなく、骨格自体が樹木の枝のように成長したようである。肌が黄色人種の肌色から人類にあらざる薄緑色へと変色していく。それに伴って、皮膚が硬質化していくようで、無機物的様相を整えていく。爪がナイフのようにとがる。髪が伸びる。額が隆起して角ができる。黒目と白目が反転する。
数秒の後に、たらこ唇の少年の姿はそこから消えていた。
そこにいるのは異形の風貌を持つ、人ならざるもの。
さながら、昔話に登場する鬼を連想させる、人外の怪物だ。
たちこめている白煙が、怪物の内側から湧き出るなにかに押し流されるようにたなびく。
その怪物がビルに囲まれた現代の街の一画に出現したというこの事実。異形への変身を目の当たりにしても、自分の目が信じられぬ光景だった。
残り二人の少年も、それぞれ同様の変貌を遂げていた。
「……おー、見事見事。まさか」
なにを思ったのか、はずれは感心して怪物に成り果てた少年たちに拍手を贈った。
(これがエスエフエックス。シージーってやつかぁ。もしかしてハリウッド仕込みかぁ)
のんきに的外れな感想を考えている状況でないことはすぐに知れる。
「……あぐぁ、なんだこりゃ、俺の体が変だ。熱い熱い熱い熱い熱い」
「コウちゃん、ヨウちゃん。二人とも、バ、バケモノ、に……俺もっ」
「……うるせーよ、タコ。なにが起きてんだかわからねえが、別になんだって構いやしねえ……俺は……おれは……オレハ、目ノ前ノ敵ヲ喰ウ……油ヲ搾ッテ吸イ尽クス……ソレダケダ……ソレーダケェ」
不良少年たちの呼吸は荒く、目の焦点は定まらず、急速に正気を失っていく。内面まで、怪物そのものになっていく。
怪物たちは、はっと自らの使命を思い出したかのように動き出した。低いうなり声をあげつつ迫ってくる様はまるで動物のようで、もしかしたら肉食動物が目前の獲物に襲う本能に従っているだけなのかも知れなかった。
はずれは身構えたが、怪物たちの速さは尋常ではない。
(急に動きに統率が……)
まず、一人が背後に回って退路を断つ。目で追えない速さで残り二人が近づき、前方にいる方が屈んで腹を狙った。はずれは咄嗟に両腕で身をかばうが、袖からむき出しの皮膚が鋭い爪で裂かれる。続いてそいつの後方をついてきたもう一人が、屈んだそいつの背の上で前転をするようにして縦の蹴りを放ってきた。はずれは直撃を受けて後方にふっとぶ。退路を塞いでいた怪物がびくともせずにはずれを受け止めた。手の内に飛び込んできた手負いの獲物を見下ろして、にやりと笑う。
(あ、やばいかも知れない)
はずれは、そのとき死を予感した。深刻な事態であるのにひどく間の抜けた感覚でいたのは、はずれが自分の死に対して恐怖を感じない達観した死生観の持ち主であるからだろう。少なくとも、はずれは今死んでしまっても、
(誠司たちに悪いなぁ。借りたシーデーも返してないしなー)
とか、
(今日の時代劇再放送、二回分連続で楽しみにしていたのになー)
と思うくらいでしかなかった。
都会の闇には魔物が棲んでいるなどと言う人がいるが、その人もまさか比喩でなく怪物が……どこにでもいる柄の悪い不良少年たちの振りをして……存在しているとは思わないだろう。まるで都市伝説だ。
(……あー、俺はここで死ぬのかー。昨日は明日死ぬなんて思ってなかったのになー。びっくりだなー。まぁ、いいや、俺が死ねばあいつらは救われるし)
はずれは、時が止まったかのようにゆっくりと流れるのを感じていた。死の瞬間とは、こんなにももったいぶるものなのか。それとも、これまでの人生を思い出して反省するなり楽しむなりするために設けられているのか。
怪物は鋭い爪を振り上げる。狙うのは頚動脈か、目か、心臓か。格闘技をかじった程度には習ったことがあるとはいえ、防ぐ自信ははずれにはなかった。ぼんやりと視線は空を向く。ビル影の枠組にはめられたぬけるような青空の四角形。
(あの時と同じ空。チロと別れた、あの空。あいつ、今頃なにしてんだろうね……ワンワン泣いてんじゃないだろうなぁ。泣いてたところで俺にはなんにもできないけどなぁ。俺が死んだらまた泣くかな……はぁ、おや、なんだ、最期の時間て長いなぁ)
最期の映像を目に焼き付けようとするように、じっと空を見ていた。




