第72回:土地神還る
だが、はずれにもう怒りはなかった。復讐してやろうという気持ちも微塵もなかった。言葉にできない、平和的な感傷が全身を満たしていた。
はずれは震える左腕を弱弱しく持ち上げて檜垣の腰の辺りに掌底を放った。あまりに力がなくて、虫も殺せないような一撃だった。だが、檜垣はこれ以上もない恐ろしいものであるかのように怯えた。
「これで全部チャラだ」
檜垣は絶叫した。なにかとんでもない過ちを見つけてしまったかのようだった。そしてそのままぴくりとも動かなくなった。はずれが許しを与えるものになってしまったからだった。
はずれは頭の方が明るくなったのに気づいた。朝にはまだ早すぎた。果たしてそこには求めていた少女が浮かんでいた。色素の薄いクリーム色のサラサラとしたボブカット。子供のように華奢な体。間違いようがなかった。
少女は全身に優しい燐光を纏い、巨大なものを背負っていた。それに実体はなく、大天使の翼のようでもあり、大樹の葉のようでもあった。それは葛城市全体よりも大きかった。
「お疲れ様。はあ君。よくがんばったね。えらいね」
少女は温かな日差しのような笑顔を見せてくれた。すべての苦労は報われる思いだった。
「……なぁ。俺、昔、俺が覚えている以上に取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないだろうか? 本当なら到底許されないような悪いことをしてしまったんじゃないだろうか? 教えてくれないか」
少女は黙って首を振った。否定というよりは、許しを与えていた。
「本当にいいのか。俺は、本当に罰を与えられなくていいのか」
少女ははずれの頭を抱いて赤子に接するように優しくなでる。いつの間にか血は止まり、光の粒子がはずれの体を再構成していく。
「嫌なことは思い出さなくていい。いいんだよ。悪夢は今日で終わる。あたしが終わらせてあげる。はあ君は、目を覚ましたらちゃんと朝ごはんを食べて一日を始めればいい。人はいつだってこれからを生きていくんだから」
「でも、俺は、なにか……」
「誰だってやっちゃいけないことの一つや二つは必ずしたことあるよ。そうやって学んでいくんだもの。そうしたことも含めて罪というなら、生き物が罪を負うのは当然のこと。でも、君は、君たちはそれを愛に変えることができる。奪うだけの悪魔じゃなく、求めるだけの妖怪じゃなく、生み育むことができるんだ。君たちは誰よりも優しくなれる可能性を持っているんだ」
少女が手をかざすと、檜垣が光に包まれて光球となった。他の多くの妖怪たちも次々と光球に姿を変えていく。
この町のどこかでは、母親を欲するがために殺した若本も、ヒステリックに友人を殺した長里も、最後まで現実からの逃避を選んだ日野も、淡い光の集まりになっている。
すっと、温もりが離れた。あれほど欲した優しい感触が遠ざかる。
少女は、妖怪たちを救いの地に連れて行く。
「行くのか。もう、行ってしまうのか」
「大丈夫。どこにも行かないよ。僕はもう誰でもない。土地神だ。いつもずっと、君たちのそばにいる。いつだって、君たちを見守っているよ」
「そんなこと言ったって。もう話もできないんだろう? 頭をなでることもできないんだろう? どうしてお前を感じろって言うんだ」
「僕はどこにもいる。木にいる。虫にいる。土にいる。大気にいる。君たちの中にいる。君が願えば、そこに僕はいる。忘れないで、はあ君。僕たち、ずっと、一緒なんだよ」
少女は、少年と他の多くのものを見守るための存在となった。だから、それにふさわしい場所へ行くのだった。
はずれは声が嗄れるまで少女の名前を呼んだ。
しかし、土地神は既に光球とともにいずことも知れぬ空の向こうへ去った後だった。一番遠くて、一番近いところに去った後だった。
天井に開いた大穴から星の光が降り注いだ。嫌味なくらいにたくさんあって、輝いていて、綺麗だった。はずれはまぶしくて何度も何度も目を擦り続けた。