第69回:エスケープ
はずれの肩を押しやって、瀬川が前に進み出た。あれほどいた河童たちは、動ける者は一匹残らずいなくなっていた。巻き添えになることを恐れているかのようだった。
「ようやく、お出ましだな。そのそっ首、俺がもらう」
瀬川は半身に構えた。居合いの構えに似ていた。目に見えぬ刀を構えた静謐な様子は、武芸の達人の立会いを見ている気分にさせられる。歴戦の士の中でもごく限られた者だけが到達できる領域。そのオーラ。
(だが、勝てない)
はずれは恐怖を払拭できない。敵の親玉を目にしてその思いに捕らわれていた。あいつは戦って勝てる相手ではない。そういうのではない。そもそも、戦ってはいけないものなのではないかとはずれには思えた。
瀬川が先に動いた。一足で間合いに踏み込み、形のない刀を抜く。檜垣は避けようとしなかった。避ける必要などないとでも言いたげな表情だ。瀬川は腕を振りぬいた後、残心を置いて、刀を納めた。
檜垣の体から盛大に血が噴出した。
なにが起きたのか、わからない。はずれには経過も見えてはいないのだ。ただ、檜垣が逆袈裟に切り裂かれて血が天井まで飛んだのはわかる。結果だけがはずれには見えた。
「他愛な」
パン
唐突に瀬川の頭部が破裂した。
「……え」
死んだのか?
瀬川竜一は死んだのか?
首から上を失くした瀬川の体が倒れた。檜垣の体から噴き出た大量の血液はそれ自体が生きているかのように蠢いて鞭のようにしなっている。血が糊のような役割を果たして分断された体を繋ぎ止めている様は、まるでヌガー入りのチョコレートを割ったかのようだった。
あの血が瀬川の頭部を吹き飛ばしたとでもいうのか。理解できなかった。はずれにとって理解できないことばかりではずれは激しく混乱した。様々な考えが氾濫する中で一番強かったのは「この男に関わってはいけない」ということ。今、立ち向かえば確実に死ぬ。その結果は火を見るより明らかだった。
「今はこいつに構うな。はずれ」
背中を押すような言葉が耳元で囁かれた。黒髪切りの声だ。声はするが、姿は見えない。
「こいつは略奪者だ。自分からはなにも生み出さず、すべてを奪うものだ。暴力によって、無理矢理に、無慈悲に、徹底的に奪う者だ。こんなに肥太りやがって一体どんな人生送ってきやがったんだ。クレイジー野郎」
「黒髪切り……ツェツィが胸を貫かれて……瀬川の頭が……」
「みんな、承知の上でのことだ。妖怪に関わるということは、常に略奪者と向き合うことを覚悟しなければならない。それより見とけ。こいつが、てめえがなりかけた悪魔の成れの果てよ。てめえはこんなもんになろうとしてたんだよ」
「俺がなりかけた悪魔」
檜垣は体を元通りに修復したと思ったが、それは勘違いだった。逆再生のようにつなぎあわされたと思った途端に、檜垣の内側でなにかが暴れるみたいに肉が隆起し、餅のように脹らみ、全身から節操なく完全なあべこべに爪が生え、服が破けて露出した胸から腰にかけて爪のない巨大な人差し指が六本生えていた。一通り変化した後も、人差し指たちは骨がないかのように蠕動を繰り返し、顔は常に粘土細工をこねくり回すようにゆがみ続けている。横綱河童ほどではないが天井に届く巨体。醜悪で不快な姿だった。
「ここは俺が食い止める。行け、はずれ」
檜垣の影から浮き出るように、黒髪切りが現れた。真っ黒なハサミを首と腰にあてがう。
はずれは堰を切ったように駆け出した。振り返らない。黒髪切りが命懸けで足止めをしてくれているのだ。勝たなくては意味がない。勝利とは和羽の救出に他ならない。
和羽の顔が脳裏に浮かんだ。続いて、ユニス、菊間、朝香の顔。
(あいつらのためにも、はずれは和羽を救う。あいつらのために、俺は勝つ。あいつらのために……)
はずれはビルの外壁に出ると窓枠を伝って上へと登り始めた。