第68回:檜垣
ほんの数分前までそこでは戦いが繰り広げられていたはずだ。大勢の河童たちに対して、はずれの協力者たちが劣勢ながらも勇敢に戦っていた。そのはずだ。
しかし、はずれが振り返ったとき、そこは様変わりしていた。地獄になっていた。ユニスが赤い水たまりの中に沈んでいた。化け火使いは火が消えて奇妙に捻れた格好で壁際に転がっていた。他のメンバーは壊れた人形のように目を見開いてそこいらにあった。河童たちはあるいは千切れ、砕け、齧られ、ばらばらになって飛び散っていた。なぜ今まで気づかなかったのだろうか。これほどむせ返るような鉄の臭いが立ちこめていたのに。気化した赤い液体が喉に絡みつくような気がして、はずれは嘔吐しかけた。全身が麻痺してこのまま萎びていきそうだった。はずれは立っていられず、膝を屈した。
ツェツィだけが、満身創痍の様子でかろうじて立っていた。
「おい、これは、一体、なにが起きたんだ……」
はずれの問いかけに答えず、ツェツィは眼前の敵をひたすら見つめていた。エレベーターの前には一人の男がいた。
「あ」
なんで見覚えがないなんて思ったのだろう。はずれは戸惑った。こいつじゃないか。担任の檜垣じゃないか。この騒動の黒幕の檜垣じゃないか。一発ぶん殴ってやろうかと思っていた相手じゃないか。
(なら、なぜ。俺は動かない……?)
体が緊張している。小刻みに震えている。わかっている。恐怖を感じているのだ。目の前にいる、三十過ぎの男に。この惨たらしい場所にいて満面の暗い笑みを貼り付かせている痩せ型の男に対して。
「……絶対、許さない……和羽ちゃ……んを返して……」
ユニスが最後の力を振り絞って檜垣に手を伸ばす。檜垣はぐんと背を曲げて覗き込んだ。
「おや、まだ私にはむかう気かな、かわいいお嬢さん。そんなになってでも、巫女を救いたいんだね? いいだろう。妖怪化してみなさい。妖怪となって、今一度私の喉に食らいついてきなさい。そうしたら、巫女を返そう。約束するよ。私は紳士だし、仮にも先生だから約束は破らない。ほら、早く。やってみなさい。早く、早く。妖怪化して見せろ。やれるか? やれるか? あー、やっぱりできないのね。じゃあ、もういいよ。出来の悪い子は、先生いらない」
檜垣はユニスを汚れた雑巾であるかのようにつまんで放り捨てた。ツェツィはユニスが床にぶつからないように飛び込んで抱きとめた。檜垣を睨む。その形相は彼女にここまで激しい感情があったのかと見る者を驚かせるほど熾烈を極めた。鬼が宿ったと思えるほど柳眉は逆立ち、皺が刻まれ口の端からは血が滴っていた。ツェツィがユニスの体を優しく置こうとすると、ユニスが「……あ」と一言だけしゃべったようだった。ツェツィは一転してとても愛しそうな表情をすると、ユニスの頭を撫でて檜垣と対峙した。
「君は良い生徒だったよ」
「うるさい、死んで黙れ」
ツェツィが剣を構えて突っ込んでくるのを檜垣は笑って見ていた。飛燕のごとき速さでシガールスホルムの剣が檜垣を切り裂いた。そう思えた瞬間、何かが破裂する音を聞いた。檜垣は易々と刃をかわしてツェツィの胸を手刀で貫いていた。
「君の心には幸福がこびりついている。それでいいじゃないか。妖怪なんかにならずに虫けらのように死ね。子供の出る幕じゃないんだ」
カヒュウー、カヒュウーというかすれた呼吸音。
檜垣の手からぼとりとツェツィの体が落ちた。檜垣は首だけこちらを向けて口をにんまり開けた。
「次は誰かな」