第67回:横綱河童と鏡山坊
一階上の床は突入時に一部崩壊していたから、なにか利用すればはずれだけでも一つ上の階には行けるだろうが、屋上までどれだけあるのかわからない。エレベーターが使えないというのは、エレベーターは屋上まで行かないという意味もあるだろうが、エレベーターは監視されていて上昇中に停止される危険もある。瀬川の言う通り壁を登るしかないのだろう。その為には、邪魔な障害を排除して瀬川たちに連れて行ってもらわなければならない。
(……いや、確かビルの壁を道具を使わずに登った人がいた気がする。フランス人だっけ。アジア人の俺でもできるだろうか?)
などと考えていると河童に組まれた。戦いに集中しなくてはいけない。河童は右足をはずれの左足に掛けて思いっきり引く。はずれは利き足だけで踏ん張ろうとしたが、体勢を崩されて倒されてしまった。はずれは河童の腕をつかんで道連れにするように無理矢理引きずり倒す。背中に激痛。我慢して足で反動をつけてすぐさま立ち上がると、新たに向かってきた河童の胸を蹴りつけて、勢いに任せて起き上がろうとしていた河童の顔面に踵をめり込ませた。
チン
音が鳴った。はずれは河童の顔面に裏拳を叩き込むと、ちらりとエレベーターを視界に納めた。開きかけの扉の中に誰かが立っている。一人だ。敵か味方かもわからない。どちらにせよ、はずれの知らない顔だ。
その時あからさまに威圧的な気配を感じて壁の方を向くと、視界いっぱいに巨体が映った。河童であるが、そのサイズがとびきり大きい。他の河童の五倍ほどはある。他の河童も一般の成人男性かそれ以下はあるというのに、忍者映画の巨大蝦蟇のような体型のその河童は正に横綱級である。横綱河童は他の小兵たちの群れを、波をかき分けるように押しのけて、瀬川の眼前に立つと、ガチョウが火あぶりにされているような耳障りな笑い声を上げた。
「奥久慈の鏡山坊とお見受けする。ひさしかぶりだな。わしを覚えているか。わしの名は」
「悪いが」
横綱河童の言葉を遮り、瀬川は鳥獣のような異相に嘲笑を浮かべる。
「こちとらザコに構っている時間が、一刻一秒惜しいんだよ。名乗る間があればさっさとかかってきな、デブ」
「わしを怒らせたな。ならば、望み通り、一瞬で勝負をつけてやるわ」
横綱河童の顔が見る見る赤く染まった。怒りのあまりに血走った目玉を飛び立たせて、益々蝦蟇蛙のような顔になる。横綱河童は丸太のように太い腕をゆらりと引くと、次の瞬間には床が四散していた。はずれの目では動きを追うことができなかった。瞬間的に瀬川めがけて真上から打ち下ろされた張り手は大砲のようにビルを打ち砕いた。瓦礫が降り注ぐ。瀬川がいたはずの場所にその姿はない。痕跡が一切残っていなかった。訪れた静寂を破って、横綱河童がまたガチョウのようにけたたましく笑った。
「はっ。関東に広く名を知らしめし鏡山坊が、この程度とは。かの東の猛者も人に交っては劣ろうということか。みなも見たな。鏡山坊を倒したのだ。これを足がかりにこの都城の小文太がいずれは天下唯一の武人に……」
「誰を倒したと?」
瀬川の声がした。横綱河童の開けた穴から瀬川が這い出てきた。なんの怪我も負っていない。
「気炎万丈大いに結構。だが、諦めな。馬鹿力だけのお前じゃ到底無理な話さ。お山の大将が関の山だ。ああ、お前は川の大将か」
「ふざけるな」
「ふざけてなんかない。人は身のほどを知り、自分を見つめ、それからやっと自分の道を歩いていけるんだ。妖怪だって同じだ。見かけの強さしか見ていないお前じゃ、いつまで経ってもたどり着けないだろうがな。だが、折角だからお前の馬鹿力使わせてもらうぞ」
「ぬかしとけい」
はずれにはなにが起きたのかわからなかった。横綱河童がゆらりと動いてまたあの大砲のような張り手を繰り出すと思った瞬間、横綱河童は物凄い勢いで天井に向かっていったのだ。瀬川が張り手の軌道を蹴り上げて無理矢理曲げたのだった。何層にも渡り、ぶち抜いた天井の穴。その向こうに夜空を見つけて瀬川は満足げに笑った。
「馬鹿とハサミは使いようだな。ほら、早くこい。坊主」
と言った瀬川の顔が唐突に強張った。はずれは瀬川の視線の先を追って振り返る。そこになにがあるのか予想できないまま。
そこには惨状があった。