第61回:二人
「……やだ。そんなの入っているわけないじゃない。急になにを言うの」
「ごく少量だが、アルコールが入っているな。俺は、前にこのジュース飲んだことがある。そのときはこんなに苦くなかった」
「……気のせいじゃないの。メーカーが味を変えたのかもしれないし。あ、もしかして異物混入とか? それやばいわ」
「俺は、この薬の味も知っている。クロルプロマジン系統と後なにか混ぜているだろう」
はずれはなぜ自分が薬の名前さえ知っているのかわからなかった。だが、不鮮明な記憶の中でこの薬を服用した確信はあった。
「比良町。潔白を証明するならこのカップの中身を飲み干してみろ」
瞬間的に、朝香は、目を狙ってカップに残っていたジュースをぶちまけた。力比べをしたら負ける。朝香は小物棚に置いておいたポシェットに飛びついて間合いを開きながらスタンガンを取り出した。鈍い黒色の無骨な警棒タイプは、うら若い少女に納まっているのは不似合いな存在感を示している。一瞬だけスイッチを入れると、先端の電極部から青白い火花が爆ぜた。
はずれは粗雑に目をこすり、痛む眼球で朝香の姿を追う。朝香の行動は早く、既に戦闘準備を整えている。迂闊に飛び込むわけにはいかないと思って、はずれは呼吸を整え中腰に構えた。
朝香はフェンシングをするようにスタンガンを突き出す。狙いは腕。電極部のむき出しの金属が、はずれの右腕のあった場所を貫いていった。残光が目に映る。
異論を挟む間もない内に、続けざまに朝香は啄木鳥の嘴のごとき早さでスタンガンを突き出す。はずれは、身をひねり、反らし、手で側面を弾いたりして、立ち位置を変えながら、命中すれば戦闘不能状態に陥るだろう一撃をことごとくかわしていたが、攻勢には出られずにいた。それは予感のようなものだ。攻め手に移った瞬間に朝香はなにか切り札を出してくる。朝香は半袖のカットソーにジーンズ姿というラフな格好をしていて武器を仕込んでいるようには見えないが、左手にはなにかを握っているようだった。朝香が格闘技を習得しているという話を聞いたことはなかったが、はずれは警戒していた。現にフェンシングをまねたスタンガンの扱いも見事なものじゃないか。
しかし、はずれは自分の心の中に朝香に襲われたことに対する動揺があることに薄々気づいていた。良い友人だとは思っていたが、正直に言って家族とすら言える和羽とは比べる対象ではない。和羽を現在の状況から救出しないといけないという使命感に燃える今、自分は他の事柄に気をやる余裕はない。
(そう、俺は今、見境がない)
はずなのに。なんなんだ、この体たらくは。
(俺は和羽のためなら努力するし、どんな障害も排除する。無慈悲にこの女を打ちつけ、和羽のところへ向かう。それがたとえ良き友であったとしても、邪魔をするなら容赦はしない)
そう思っているのに、口はあべこべに言葉をつむぐ。
「菊間の言う通りだった。信じるな……まったくその通りだった……だが、お前は、お前だけは絶対に裏切らないと思っていた」
はずれはスタンガンの攻撃を避けてベッドに背中から倒れこんだ。朝香は好機と見たか、一歩踏み込んで突き出した。はずれはイスを爪先で引っかけて朝香に向かって放り投げる。朝香は咄嗟にスタンガンで打ち払った。その直後、はずれの蹴りが朝香の膝を打ち抜いた。苦痛にうめきながら朝香はベッドに寄りかかってこらえ、左手のうちに隠し持っていた小型のスタンガンではずれの脇腹を打つ。携帯電話そっくりの形状をしたそれは、はずれには横転されて避けられたが、白いシーツをわずかに焦がし、警棒タイプよりは威力は低くとも確かに武器であることを証明した。
朝香は続けざまに左のスタンガンを突き出して、はずれの横転した軌跡を記すようにシーツの焦げ跡を増やした。はずれはベッドのフレームという行き止まりにたどり着くと足を振って反動をつけて上半身を起こし、スタンガンを避けた。朝香は諦めず左のスタンガンを横に払う。はずれは振り向き様に朝香の手首を打って携帯型スタンガンを落とさせた。朝香はベッドに乗って残った警棒型スタンガンを威嚇するようにはずれに向け、左手でポケットを探り、口紅大のものを手の中に隠した。はずれは朝香を円の中心に見立て、円をなぞるように足を運んだ。表情は落ち着いていたが、はずれは自分が平静でないことを自覚していた。正体のわからない情動が自分を揺さぶっている。だが、朝香を相手に負けるとは微塵も思わなかった。