第55回:待ち望んでいた声に導かれて
保健室には誰もいなかった。日野は救急箱を取り出して素人ながら簡単に応急手当をした。
清潔なベッドに座って消毒液くさい空気を吸い込む。
夏の日差しが差し込み、木は緑に、土は黄土に、レンガ道は赤に、空は青に、鮮烈に浮き上がり、薄暗く事務的な室内との対称は強く夏を意識させた。
(でも、この夏は俺の知っている夏じゃない)
日野は思った。
(どこか知らん国で政権交代が起きようと、大規模なテロで何十人死のうと、俺にとっては……俺の周囲だけは変わらない日常が明日もくると思っていたのに)
幻想は崩れた。
隣人が怪物になるなんて、ゲームでしかありえない非日常が現実に訪れた。個人の思い込みや常識なんて容易に破壊されるのだと知った。
それは常にその見えない壁に悩まされ続けてきた日野にとってとてつもなく衝撃的な革新であった。そして、その変化は続いている。
「……おい、日野。見ろ、あれを……あれは」
与一が窓の向こうを指していた。与一がなんのことを言っているのかは、説明されずとも一目瞭然であった。
ありふれた街の風景にどっかりと壁がそびえていた。それの出現は唐突だった。ほんの数分前まではなにもなかったはずなのに、高層ビルを数個重ねた高さの、とてつもなく巨大な建造物がそこにあった。それは、縄文土器のような不可思議な模様が描かれていてガラスらしき反射はなく、壁としか思えない。街並みの向こうに、青空を侵食するように並び立つ。与一はふと思いついて保健室を飛び出し、廊下沿いの窓を見てまわった。予感は当たっていた。巨大な壁は葛城市を覆うようにぐるりと林立していたのだった。
与一は日野にそのことを伝えに戻った。日野はそんな事実には関心を示さず、与一がいくら話しかけても気のない返事をするだけでぼんやりと壁を見つめ続けた。
「どうしたんだよ、日野。お前変だぞ」
「ああ……聞こえる……声、待ち望んでいた。そうだ。そうだよ。俺、あれなんだよ」
「声? 何も聞こえないぞ。おい、しっかりしろ。日野、お前まで変になるな」
日野は与一に顔を向けた。虚ろに揺れる日野の瞳の奥に、与一は喜びの色を見た気がした。
咄嗟に腕をつかんだ。
「……なにするんだ、与一。そんなにつかんだら、痛いだろう」
「ダ、ダメだ。お前、この手を放したら、お前までどっかに行っちまう気がする」
与一は確かに誠司よりも理性に欠けるが、その分、直感に優れて、もしかして、精神的なある部分は誰より大人でまともなのかも知れない。与一を侮っていた自分なんかよりずっと。
ふと、そう思って日野は笑みを漏らした。
「ごめんな。俺はもう聞いちまったんだ。多分、他の連中も聞いたんだろう。俺はこれから怪物になると思う」
「は? なに言ってんだよ。なにを聞いたって? 怪物になるってどういうことだよ。意味わかんねえよ」
「わからなくていいよ。与一。これは、わかったらおしまいだ。与一、悪ぃ。俺も、もうダメみたいだ」
日野はクイズの答えがわかったかのように満足気に与一を見つめた。
「正直言うと、俺、実はお前のこと心の中じゃ馬鹿にしていたんだけど、本当は大好きだったのかもな」
「え?」
「……もしかしたら、俺もお前みたいになれたかも知れないのかな」
日野はそう言うと与一を突き飛ばし、窓に体当たりしてぶち破り、外に転がり出る。
与一の制止は聞こえない。最早日野の心の中は抑圧から解放された喜びに満ち満ちていた。ただ、欲求だけが彼を夢中に突き動かす。その視線はただひたすら青い空に注がれていた。
日野は強く大地を蹴った。そして、空へ。身を縛るものはなにもない。入道雲の白以外は、ただひたすらに青くて、青くて、青い空へ。
日野は今、これまでのすべてのしがらみから解き放たれ、何よりも願った幸福感に包まれていた。
「いつまでもいつまでもいつまでもいつまでも。自由だ。自由だ。自由だ。俺は、自由だ。自由だ。自由だぁぁあぁ」
快感。絶頂感。
そして。
与一の目の前で、鳥の翼を手に入れた日野は一人きりの大空を思う存分満喫した後、唐突に墜落した。
羽が花吹雪のように舞い散って、火花のように弾けた血が地面に染みこんで行く。与一は少し前まで友人だった肉塊を見やって慟哭した。
どうしようもなく悲しかった。理解してやれない自分が悔しかった。
「なんでこうなるんだよ……お前死にたかったとでも言うのかよ、違うよな? 違うんだよ。誰だってそりゃあ死ぬけどさ。死ぬために生まれてきたんじゃないだろ? ……あぁ、くそっ、もう、なにがなんだか、わかんねえよ」
夏の青い空に言葉は全部吸い上げられていった。ひどく現実感がない。見えるものすべてが嘘臭いと与一は思った。