第54回:与一は馬鹿
鍵が開いた。三浦は他の自転車をなぎ倒すように車体を取り出すと、意気揚々とこぎ始めた。三浦が自らの勝利を確信して叫んだ。そこに日野や与一を気づかう意識は微塵もなかった。ただ、自分が生き残ることが勝利の条件なのだった。
「悪いな、日野、与一、お前らには感謝しているぜ。だから、お前らの分も俺がしっかり生きてやるよ」
ちらりと後ろを振り返った三浦は、日野が奇妙な顔をしているのに気づいた。
怒りとか、悔しさとか、そういうのがあると思っていたのに、顔に浮かんでいたのは……。
驚きだろうか?
(いや、いい。気にするな。俺は逃げるんだ。こんな学校から逃げてどこか安全なところで生き延びるんだ。他の誰が死のうが俺は死なない。だって、女も人生もすべては俺の思い通りにできるんだから)
正門はすぐそこだ。蛇女も自転車には追いつけまい。三浦の顔がどうしようもない喜びににやける。
「三浦君、いらっしゃあい」
三人の蛇女が現れたのはそのときだった。
自転車の後輪を浮かせられ、体を蛇体に巻きつかれ、三浦は抵抗もむなしく三人の蛇女に捕まり、そいつらは絡み合うように雨どいの中に吸い込まれていった。与一が捕まえていた蛇女も与一を振り払うと、他の蛇女に怨嗟の言葉を吐きながら小さな雨どいの中に頭から消えていった。
蝉が思い出したようにうるさく鳴き始めた。なにかの試合をやり終えたときのように、体中が湯気を立ち上らせていると錯覚するほど熱かった。
負け試合だ。終わったのだと、二人は理解した。
日野は無様に倒れている与一を助け起こした。与一は、ティーシャツも半ズボンもあちこち汚れて、脇腹から胸にかけては引き裂かれ、引っかき傷から血が湧き出るように流れていた。右腕は力なく垂れ下がり、左足は膝から激しく出血して、あちこちに擦過傷があった。
与一は日野が肩を貸さなければ歩くこともままならない状態だというのに、三浦を探しに行きたがった。
「まだ間に合うかも知れないだろ。あいつらは雨どいの中を進んでった。その出口に出たに違いないんだ」
「バカ。こんなボロボロで探し回ったって、どうしようもねえだろ。それに、間に合わねえよ。あいつら、四人も集まってんだ。競って、我先に、三浦を食ってるはずだ」
「……食ってる? どういうことだよ。あいつら、三浦の恋人になりたいんだろ? 食っちまうなんておかしいじゃねえか」
「そうだな」
日野は頷いた。
「……だが、間違いないと思う。多分、あいつらは三浦を食う。それが、あいつらの行き着いた愛の形とやらなんだ」
日野もうまく説明はできない。日野はかつて食人行為を犯した猟奇犯罪者について書かれた本を読んだことがある。蛇女たちはそれ似ているようにも全然違うようにも思えた。結局のところ、他人の脳味噌の中なんて日野にはわからない。
だが、あんな怪物たちの心理よりも、今は与一を諦めさせることのほうが重要で、日野は曖昧なことしか言えない自分をもどかしく思いながら根気強く説得を続けた。
「……なんだよ。なんなんだよ。みんな、ガキじゃねえんだから、みっともないことはやめろよ。やめてくれよ。欲しいものが手に入らなくて、むちゃくちゃなことをやっているだけじゃねえかよ……」
与一は泣いていた。
悔しくて、悲しくて、どうしようもなくもどかしくて。
「なんで今まで通りじゃダメなんだよ。あんな怪物にならなくても、もっと、なんか……俺バカだから思いつかねえけど……なにか方法があったはずだろ? こんなことになる前になにかできたはずだろ? なんでわかんねえんだよ。なんで、こうなっちまうんだよ。お前ら、俺より頭良いんだろうが。考えろよ……」
与一はあまりに悲壮感を背負いすぎている。日野はそう思って茶化してやりたくなった。
「さっきまで、比良町のことばっかり考えていたくせに。今度は他のやつの心配か。お前は、よく目先に流されるな」
「……悪いかよ。朝香は心配だけど、それとこれとは別だろう。なにが悪いんだ」
(……あ、こいつ……やつだ)
日野は与一に対して抱いていた評価を変えざるを得なかった。与一は馬鹿だと思っていたが、そうではない。与一は救いようのない大馬鹿だ。根からまっすぐで、人の善意を信じ、希望が胸の中に住み着いている。とんでもない馬鹿なのだ、と日野は思った。