第53回:三浦と蛇女
通用口近くまできたところで、日野は与一の耳が確かだったことを知った。
「やった。お前ら、早く、早く助けてくれ」
三浦が化け物に襲われていた。化け物は女の蛇体で下半身は壁にあいた直径十センチほどの穴から這い出ていた。日野はその針のように突き出たあごと細長い鼻に見覚えがあった。
「お前は、確か、同じ組の安……」
蛇女は甲高い声で日野の言葉を遮る。
「うるさいわねぇ。あんたたち、邪魔をするなら殺すわよ。三浦君は誰にも渡さないんだから。あたしだけのものなんだから」
「あたしだけって。三浦本人が嫌がってんじゃねえか。離してやれよ」
「うるさい、羽賀。それ以上近づいたら許さないよ。三浦君はあたしのものなんだ。すらりとした顎も、さらさらの髪の毛も、長いまつげも、たくましい胸板も、甘い声も、全部。誰にもやらない。やらないんだ」
蛇女は、狂おしいほどの熱のこもった視線を三浦に向け、対照的に与一たちには悪鬼のごとき形相で睨みつける。歪んだ情念と独占欲の炎が瞳の中に立ち上っていた。
「違う。俺はお前の物なんかじゃねえ。助けてくれ。日野、俺たち一年の頃はよくつるんでたじゃなねえか」
三浦が必死で助けを求めている。日野は手を差し出しかけて、
「あたしの三浦君に触るなって言ってんだろうが、このクソ虫どもが。日本語わかんねえの。お前らうざいんだけど? キモイんだけど? お前らなんか要らない。消えちまえ。クソ。いなくなれ。お前ら全員死んじまえ」
日野の動きが止まった。
思考も止まっていた。
蛇女の中で熱湯のように煮えたぎった悪意に呑まれているのは明らかだった。
「おい、なにやってんだ。手伝え、日野」
与一の怒声が意識を現実に引き戻す。与一は懸命に蛇女から三浦を引き剥がそうとしていて、日野は慌ててそれに加勢する。
蛇女の金切り声が脳味噌を揺さぶった。それに耐えて与一たちは必死に抵抗し、三浦を蛇女から引き剥がした。
「よし、逃げるぞ」
日野が言いかけたとき、
「危ねえっ」
与一が三浦を押し倒す。二人の体の上を、蝶番を外したはさみのような爪が通り過ぎていった。
「あんたたちぃ、うぜえって言ってんだろ。三浦君を返してよ。あたしの三浦君を返してよ。返してよ。返せって言ってんだろおぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉおおおぅっしゅっ」
蛇女が跳びかかってくる。三浦が悲鳴を上げて蛇女に向かって与一を突き飛ばした。蛇女は与一を払いのける。鮮血が飛んだ。
「与一ぃ」
日野は瞬間的に頭に血が上った。与一を突き飛ばし、一人だけ逃げた三浦を追いかける。アフリカ部族の雄叫びのような長くなめらかな悲鳴を振りまいて、哀れなほど不確かな足取りで、三浦は正門近くの自転車置き場まで逃げた。ズボンのポケットを探って、自転車の鍵を取り出す。日野が追いついて肩を叩いた瞬間、三浦は怯えきった目で奇声を上げて日野を振り払った。日野は自転車置き場の柱に背をぶつけて、そのまま座り込む。ぶつけどころが悪かったのか、目の前が霞む。
「……三浦ぁ、てめえ……」
「うるせええぇ。俺は逃げるんだ。生き残るんだよ。あんなブスに殺されてたまるか。俺は誰だ。三浦健吾だ。女なんかに殺されねえ。女なんかに、女なんかに……」
歯は噛み合わず、手が震えてキーチェーンを外すことができない。そのとき、校舎の角を曲がって蛇女が現れるのが見えた。髪を振り乱し、瞳孔の開いた目は真っ赤に充血している。
「くるな、くるんじゃねえ、クソ女ぁぁああ。クソッ、クソッ、開けよ早く」
鍵は三浦の動揺を表すように騒がしい金属音をたてた。蛇女は妄執と恍惚の入り混じった表情で近づいてくる。三浦の罵声が酷くなる。蛇女の下半身を引きずる音が近くなる。三浦の叫びが言葉としての意味を持たなくなる。蛇女の気配が日野のすぐ後ろまできた。
「待ちやがれ。てめえ、一回、冷静になれっ」
与一の声が響いた。与一が追いついて蛇女の蛇の尾をつかんだのだ。蛇女はまたも邪魔をされて激怒し呪いの言葉を吐く。蛇の体を無茶苦茶に振り回し、与一の体はぬいぐるみのように宙を踊った。だが、与一は決して放さなかった。