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第49回:長里の場合

 ザザァッ

 プツン

 母親のお腹の中で聞こえる血流の音に似た、さざ波の音がスイッチの切り替え音を境に途切れてテレビはそれきり沈黙した。

 緑町常陽学園の女生徒である長里はリモコンをベッドの上に放り投げると、抱いたクッションごと自身も掛け布団の上に倒れこむ。階下の居間には母親がいるはずだが物音は聞こえてこない。エアコンの駆動音とベッドのスプリングが揺れる音だけが、年頃の女の子らしい心配りが見られる部屋を支配した。

 夏らしい乾いた青空であるだろうが、カーテン越しで窓の外は見えない。

 夏休みに入ってから、根本に対してのいじめ行為は一旦休止となり、退屈が彼女の生活を満たしていた。

 学校という強制力を欠けば、彼女らにはわざわざ長期休暇にまで根本をネタに集まる動機はなかったのだ。

 長里とて、一人になってまで根本をいじめる度胸はなく、いじめの方法を考えるのにも飽きた。

 目的のない時間に耐えかねて、長里はストラップがたくさんついている携帯電話を取り出すと、中原あてにメールを打った。今は正午。中原は、今日は午後二時からバイトだと言っていた。返事がこないので、寝ているのかと思い電話してみても繋がらない。山口は家で留守番をしているということだったが、電話に出ない。

(ちぇ……二人とも寝てんのかな。あ、でも恵子はゲームしてそー。麻奈美はシャワーかな)

 携帯電話に気づけなかった状況を想像しながら、長里は牛津の番号にかけた。

 この際、牛津でいい。牛津はトロくてうじうじしててつまんない女だが、この堆積していく退屈地獄の中で腐乱死体になるよりは、彼女と話している方がまだマシだ。せいぜい適当な話をして時間を潰そう。

 数回のコールの後、いつものか細い声で牛津が出た。聞き取りづらいので長里はついつい声を荒げる。

「もっとはっきりしゃべってくんない? 聞こえないんだけど。あ、さてはあんた外にいるわね」

『……あ、うん。ちょっと待って。今、静かなところに行くから……』

「早くしてよね」

 普通に話しているつもりでも段々と高圧的な態度になってしまう。だが、そのことを気にしたことは一度しかない。長里はこれまでずっと強気で生きてきたし、そうすることが自分らしい自然体であると思っている。

(うまくいっているんだから、それでいいじゃない)

 長里はベッドの上に仰向けになりながらそう思っていると、雑音に聞き覚えのある声が混ざっているのに気づいた。

『……まじで〜? つーかぁ、まじうざくない?』

『あたし、シカトしたよ。メンドクせーから』

『あははは。あたしもあたしも。基本じゃん』

 聞き馴染んだおちゃらけ声だ。長里は声の持ち主に気づいた。

『……あの、長里? お待たせ。声聞こえる?』

「ちょっと黙っててくんない」

「……え?」

「いいからっ」

 牛津に鋭く怒鳴ると自分は耳を澄ます。

『ってかさ、復讐復讐ってさぁ、バカらしいよね』

『ねー。ガキじゃねえんだからさぁ、ないよね。大人になれ? って感じ』

『あんなだから、男もできねーんだよ。ヒス女だーかーらー?』

 嘲笑を含んだ会話。

 電話の向こう側から聞こえてくる、知っているけど知らない声。

 聞きたくなかった言葉。

『もおそろそろ潮時かな』

『そーね。最近マンネリ気味だし。なつかれてもうざいだけだし?』

『きゃー、恵子かっけー』

 部屋の中が薄暗くなった。頭の奥の方が痺れて、長里は絞り出すように話さなければならなかった。

「……ねえ、牛津。今、恵子たちと一緒にいるんだ?」

『……え、あ、それは……その……』

「買い物? 山口も一緒にいるよね?」

『……あのね、長里……』

「いるんだよね?」

 長里の重い響きのある語気に押されて牛津は「うん」と肯定した。

 続けて、電話の相手を変わるようにとの命令にも従った。

『え、なに? 牛津? これ誰よ? あー? 長里? あー、長里、聞こえる? ごっめーん、今ケータイ部屋に置いてきててさ。コンビニ行こうとしたらたまたま牛津と会ってさー』

「……いいよ、別に。もう言い訳は」

『え?』

「聞こえたから。あんたたちが、あたしのことどう思っているか」

『あー、あー、だから、それはぁ……』

「うざくて、悪かったわね。面倒くさくて、ガキで、ヒス女で、悪かったわよ」

『……』

「なんとか、言いなさいよ」

 携帯電話は、舌打ちの音も拾う。いらだちの声もクリアに伝える。

『……そうだよ。だから? 今頃わかったの? マジバカじゃねえ? あんたがアホなことやるっていうから付き合ってやっただけ。友達になったとでも思った? 誰がてめえみたいな我がままのヒステリーと友達になるっていうんだよ。はっ、ありえねー』

「……そ、んな」

 電話口は山口に代わる。

『あー、長里。聞こえるー? あんた、牛津のことバカにしてたろ? かわいそー、牛津が。あんたの方がよっぽどうざくてキモい女なのにさぁ? もうあたしらに話しかけんなよ』

 山口が牛津に「あんたも何か言ってやれ」と携帯電話を渡す。

『……あ、あたしは、いいよ……うん……あ、あの、長里? あの、えと、ごめんね。二人ともマジで言ってるわけじゃ……』

「……いいよ、言えよ。牛津。嫌なんだろあたしと付き合うの。面倒だって思ってるんだろ」

『……そんなこと』

「上品ぶってんじゃねえよ。言えよ、牛津」

『……』

「……」

『……そうよ。あんた、正直、マジでうざい』

 その瞬間、長里に変化が起きた。後頭部に蓄積していた重い痺れが限界を超えて、前後不覚に陥った。アルコールが三半規管を狂わせたみたいに視界が揺れて、ベッドに寝転んでいなければ立っていることはできなかっただろう。自分がその答えを求めたくせに。

「……そっかぁ、そうだよねぇ」

 奇妙過ぎるくらい晴れやかな声が長里の薄い唇から漏れたとき、薄い霧の中で彼女はすっかり妖怪化していた。

「おまえらなんか信じたあたしがバカだったよ。死ね、死ね、死ねっ。首でも吊って死んじまえ」

 長里の携帯電話を握っていない左手が、空中のなにかを握るように力むと、電話の向こうから呻き声と悲鳴が聞こえてきた。

 長里の左手はなにかを握りきるとそれをゴミのように捨てる仕草をし、計三回繰り返した。

 やがて、電話の向こうから耳障りな女たちの声が全く聞こえなくなって、長里は少しだけほっとした。

(あ、まだだ。終わってない。冬実にも、しなきゃ)

 長里は根本冬実のことを思い出して携帯電話のメモリを探った。

(冬実もあたしを裏切ったんだもんね。あたしは信じてたのに、あたしたちの間には友情があるものだと思っていたのに……殺さなきゃ。あたしを裏切るようなクズは全員殺さなきゃ)

 ふと、指が止まる。

(殺す? 冬実を? 裏切ったから?)

(冬実ってあたしを裏切ったっけ? 裏切った。あたしの好きだった男に告白されて……)

(それって裏切り? 冬実はいい子だからあの男が好きになるのも当然だよ、そう冬実は、いい子)

 思い出す、二人で初めて過ごした夏休み。プール。花火大会。おそろいのわたあめ。話してばかりで進まない宿題。パジャマパーティー。

「あたしたち、親友だよね」

「もちろんだよ、順子ちゃん」

 縁側で交わした約束。

 信じられなかったのは、自分。

 許せなかったのも、自分。

「……なんで、こんなになったんだっけ……」

 乱れ髪の鬼と化した少女の瞳から涙がこぼれた。

「……冬実ぃ」 

 嗚咽はいつまでも止まない。今はもう、電話をかけることさえできないと思った。

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