第48回:若本の場合
蝉の声が遠くに聞こえる。空気の乾いた青空。
葛城市の閑静な高級住宅街にも、雑多な繁華街と同様、夏の香りが漂っている。
夏休みに入ったので、緑町常陽学園の生徒である若本は、同市にある学生寮から電車で二十分ほど揺られて、実家に帰省した。
一戸建て。四LDK。土地面積は約一七〇平方メートル。高台に立地。見晴らし良くバルコニーあり。
陰鬱な家だ。
若本がベルを鳴らすと、インターホンから「どなた様でしょう」という声が流れる。若本が名乗るとしばらくして声の主は扉の鍵を開けた。
家には母親が一人だった。昼間なので父親は仕事に行っている。妹は部活だろう。
若本の母親は美人で二児の母である割に若々しい女性である。若本は、リビングでくつろぐ母親に「ただいま」を告げた。
返事がないことは、わかっていた。もう随分と、そういった些細な会話のコミュニケーションは打ち切られているのだった。
若本が自分の部屋に行こうと階段を上ろうとすると、思い出したように母親が声を出した。
それはやはり若本が期待した類のものではなかった。
「そういえば。あなたの部屋、不潔だって仁美が言っていたわ。片付けていきなさい」
「……くそっ、仁美のやつ、また勝手に入ったな」
「……」
「でも、そんなに不潔ってほど、不潔でもないと思うんだけどな。母さん。母さんはどう思う? 俺の部屋は汚いって思う? エロ本さ、もう三百冊は軽くあるんだよね。DVDも王道の制服ものから海外のヤバイ系まであってさ、ねぇ、母さん。汚いかな? 俺の部屋って、不潔かな?」
若本は、言葉を重ねるごとに早口になっていく。言葉の裏に、なにかを不安がるように焦りを募らせていく。その表情に悲壮感すら漂わせて。
返事はたった一言だった。
「知らないわ」
その瞬間に、若本は兼ねてから何度も夢想した行動を実行に移していた。
母親が自分になんの関心も抱いていないことは、これまでの生活の中でわかりきったことであったにも関わらず、若本はそれを良しとできなかった。諦め切れなかった。
いくら世間で優秀な子だともてはやされるような成績を残しても、この母親の心には響かないと知ってから、関心を引くために問題を起こしたりしたが、結局は無駄なのだった。
彼女と親子の絆を確かめ合う日は永遠にこないのだ。
彼がなにより求める願いは決して叶うことはないのだ。
そう薄々感づいていた事実を、逃れようもなく突きつけられてしまったとき、若本はいつの間にか薄い霧の漂う中に妖怪化していて、頭が極端に大きい胎児のようなバランスの体からへその緒を触手のように自在に伸ばして、母親をくびり殺していた。
「母さん、俺、本当は女の裸とか、セックスとか、そんなには興味ないんだよ。それらしく振舞っていたけど、本当は全然違うんだ。母さん、俺、多分、本当は、あなたに俺自身を見て欲しかったんだ。構って欲しかったんだ。なおざりな言葉じゃなくて、あなた自身の言葉で心から。なでて欲しかった。俺が生まれる前のことは、知らないよ。でも、あなたが俺のことを愛していないことはわかる。見ていないことくらいわかる。同じ家に住んでいる猿くらいにしか思っていないんだろう。俺はあんたにとっちゃ子供でもなんでもないんだろう」
最早物言わぬ身となった母親に対して、若本は恍惚とした表情で語りかける。
「ああ、母さん、やっと、俺のことを見てくれるんだね。もうダメだよ。仁美のことだって、父さんのことだって、他のなんにも見せてあげない。母さんは俺だけを見るんだ。世界が終わるまで、俺を見続けるんだ。幸せだ。母さんは俺を見る。俺だけを見る。俺だけが母さんを独占している。母さん、俺幸せだ。幸せだよ」
若本は、母親の腹を割いて、その中に潜り込むように丸くなる。妖怪化した体は赤子のように異様に縮んでいたから、すんなり入ることができた。
母のお腹の中には安らぎが流れていた。