第45回:足踏み放浪
いい加減に目眩がしてきた頃に、突然身を包む空気は爽快なものになり、戒めも解かれた。
解放がほんの五秒遅かったら、最悪の事態になっていたかもしれない。
「おい、ふらふらすんなよ。迷ったら、どこさ行くがわかんねえぞ」
黒髪切りの声がする。姿は闇に包まれている。自分の体はしっかり過ぎるくらい見えるのに指の先はなに一つ見えない。靄に似ているとはずれは思った。
「おい、こら、ぼうっとしてんじゃねえよ。早く、行くぞ」
「行くってどこに行けばいいんだよ」
「あっちだよ。あっち」
「見えない。手をひいてってくれよ」
「あー、それはできねーんだよ、ここは。めんどっちいな。おい、おめえ目を閉じろ。閉じたか? 閉じたら、真っ暗だろ。真っ暗だろ? 上も下もわかんねくなるだろ。すげえだろ。自分がどこにいるかわかねいくらい真っ黒だろ。でも、周りをよく見てみろ。よーくだ。ほら、光を感じる黒があんだろ。あんだろ。あるんだよ。なんか揺らいでるやつじゃねえ。多分逆だ。逆。見つかったら、その黒さ向かって歩いていけ。大丈夫だ。行きてえと思えば今に着く。自分がいる場所には気をつけろ。しっかり自分を意識しねえと溶けちまうぞ」
(宇宙空間を歩くとこんな感じだろうか)
はずれは黒をかき分けるように進んだ。地面は平らだが、体の方がふわふわして歩きづらい。いつの間にか黒髪切りの気配はなくなって、呼びかけても答える者はない。
はずれはたとえば、修学旅行先で一人だけ迷子になったような、または病院の待合室で最後の一人になってしまったときのような、自分だけが見知っているはずの世界から隔たりのある場所に置き去りにされた気がして、無性に叫びたくなるのをぐっと堪えて閉じた瞳の向こうに見える白みのぼやけた闇を目指した。闇の中に虫のように何かが蠢く気配がしたが、やっぱりなにもいない気もした。闇は粘り気を持ち、かと思えば空気さえない。足の裏の硬い感触も、かろうじて残っていた現実感も遠のいていく。目の前の真っ暗闇がなんであるか理解できないが、そんなことはどうでも良くなってきた。歩き続けることに疲れてなにもしないことに安らぎを感じる。その安らぎは容易に更なる疲労感にとって換わり、いつしか光を感じる黒は見えなくなっていた。
(ああ、失敗か……仕方ない、な……)
思考する力を失って、指一本さえ動かす気力を無くして、はずれはぼんやりとそこにいた。睡眠は十分なのに眠い。焦りの感情がたまにぽっと顔を出すが、すぐさま抑え込まれる。視線を動かす気もないが、闇と自分の境界はもう先ほど見たような状態ではない気がした。
いい加減起きているのかどうかも怪しい意識の中で、はずれは自分に呼びかける声を聞いた気がした。
それはとてもとても懐かしく、聞いていると落ち着いてきて、なぜか涙が流れる声だった。
その声を聞いていると、不思議と先を目指す意志が芽生えて、はずれは再び歩き始めた。意識が覚醒していくと次第に声は遠のいていった。