第44回:厠の中からこんにちは
トイレには、先客がいた。
頭頂部から絵の具をたらしたように、真っ黒な髪がはりついて、黒髪の延長した先にはロックアーティストでも限られた部類しか着ないような、ベルトのやたらに巻きついたファッションをしている男が、
「よお」
気安く話しかけてきたので、はずれはトイレの戸を無言で閉めた。
「おいごら。閉めんじゃねーよ」
「すいません。すいません。すいません」
「話を聞け」
「すいません。すいません。すいません」
「妖怪黒髪切りですけどなんか問題でも?」
「すい……なんだ、妖怪か」
「今の発言、どういう意味? ねぇ」
はずれと黒髪切りはトイレの戸越しに会話する。
「で、妖怪が俺になんのようなんだ。というか、妖怪ってちゃんとしゃべられるやつもいるんだな」
「ああ、はいはい。妖怪化した目的に、理性がある必要がないやつは、バカになるわな。餓鬼めは食べることしか頭にねえし、油とりは他人から油をとるってこすいことしか考えねえ。俺は違うけどよ。高尚な欲求だからよ。つうか、おめえだって悪魔だろうが」
「……俺は、なんか、自分のことはよくわかんないが」
「そう、それよ。おめえはおめえ自身のこと、よくわかってねえ。よくわかってねえなら、よくわかってもらわねえと困るのよ。俺がね。だからよ、わざわざこんな残りっかすみたいな幻境くんだりまでついてきたんじゃねえか」
「自分のことくらいわかるさ」
「自分ほど、最も身近にいて得体の知れないものなんてないんだぜ」
その言葉は相手を軽んじるふざけた調子であったが、どことなく笑うことも怒ることもできない響きがあった。
「人は知らないものをその一部分だけを知ってすべてを理解したような気になる。すべてじゃなくてもいい、たとえば花の名前を知って、実際はその花の名前しか知らないのに、変に安心する。お前も、今この幻境で理想的な暮らしを叶えてもらうことで、この異常な幻を受け入れてしまっている。それは、これまでの大事なものを捨てた当人には無責任で甘い誘惑なんだろうが、俺にとっちゃ酷い迷惑なのよ。話、聴いてもらうぜ」
「……一つ聞いていいか」
「なんだよ」
「その中臭くない?」
「……ガキめが多いせいか、ツーンと鼻さくるのがこもってる……」
「もう一つ良いか? なんで、ところどころなまっているんだ?」
ロックンローラーみたいな外見とその口から出る中途半端な方言がいかにもミスマッチだった。
「おめえ、郷土バカにすんなぁ? ……って、そうだごとはいいから、いくぞ」
木の戸が勢いよく開かれて、飛び出してきたのは青白く巨大な手だった。手は、既に黒髪切りが収まっている手のひらにはずれを押し込むと、出現と同じ唐突さでボットン便所の穴の中の暗闇に吸い込まれていった。
トイレの大きさは明らかにはずれたちの体格より小さいが、そういった常識は通用しない。
はずれはボットン便所に吸い込まれることには生理的な抵抗を感じたが、我慢するしかないと腹をくくった。
(俺だって、これまでの大事なものを捨てたつもりはないんだから)
閉塞した空間に閉じ込められていたむわっとした空気の中に全身すっぱり埋没して十秒経ち、暗闇のうちに空気は生臭いものに変化し、酸っぱさが混じり今まさになにか肉か魚のようなものの腐敗が行われている場所にきたようであったが、はずれはただ大きな握力に身を委ねるしかなく、体の下の方から這い上がってくる不快感に耐えるしかなかった。