第40回:無為な告白
はずれは、雪菜の言葉に促されるように、過去の記憶を思い起こしていく。
はずれは、親の顔を知らない。物心ついたときには、理由はわからないが自分を邪険に扱うおばさんと一緒に暮らしていて、毎日叩かれて罵られて……だから、生きるということはそういうものなんだと思っていた。痛い思いをして泣き叫ぶことこそが生きるということだ。
気狂い、淫売、やどろく、バイタ。
自分を生んだものは、そういう名前をしていて、それらから生まれた自分はろくでもないものなんだと教え聞かされていた。ろくでもないものなのだから、なにも望んではいけない。
ある日、唐突にスーツ姿の人間たちがやってきて、はずれはおばさんから引き離された。
自分はろくでもない、悪いものなのだから、悪いものに相応しい場所に連れて行かれるのだとはずれは思った。
連れて行かれたのは、児童養護施設。いわゆる孤児院だった。
そこにはみーちゃん先生と子供たちから慕われる女の人がいて、既に二人の子供がいた。大人と比べれば、自分とよく似た姿形をしているものだから、自分と似たような存在なのだと思った。
(悪いものである自分と同じ所に連れてこられたのだから、この二人の子供も悪いものに違いない)
はずれはそう思った。
だが、違った。
この二人は良いものだ。
元気で明るく、愛想が良くて、他人に迷惑をかけることもあるけれど、素直にそれを謝ることができる。屈託なく人と接し、困っていれば手を差し伸べ、共に悩み、共に悲しみ、共に笑う。
一年かけて、ゆっくりゆっくりと、はずれはそう考えを改めた。
後になって思えば、一番幸せに近づいていった時期である。
はずれと、智朗、雪菜という双子は最も近しいライバルにして、友人にして、家族にして、欠けることの考えられない大切な存在であるとして、しんしんと降る雪のように優しい時間を積み重ねていった。
時を経るにつれて、弟や妹たちも増えていった。はずれは彼らのことを悪いものだと思うことはなく、智朗たちと、一丁前に良い兄貴分となっていく。
家族が増えることは喜びだった。
そうして、はずれが九歳になった時、雪菜が倒れた。
「雪菜は、元々体が丈夫な方ではなかったが、病気は明らかに異常なもので原因は不明だった。でも、雪菜が倒れる半月前、近くの家に立てかけられていた角材が倒れてきて、俺をかばって雪菜が怪我をしたということがあった。俺は、それが原因だと思い込んだ」
雪菜は日に日に弱っていく。医者によると、原因不明の奇病で余命いくばくもない危険な状態なのだった。みーちゃん先生と話しているところを盗み聞きしたはずれは、雪菜に泣いて謝った。
すると、雪菜は責めもせずに、
「あやまらないでいいよ。あたしが、かってにしたんだから。はあ君が元気で、本当に良かった。肩のところ、いたかったけど、今はなんかきもちいいよ。ケガしたところを見るとね。はあ君の顔がうかんでね。うれしくなるの」
はずれは涙が止まらなかった。理由は説明できなかった。する必要もなかった。雪菜が死んでいくのをただ見続けることしかできない自分が悔しくて仕方なかった。
はずれと同じように考える人間が、もう一人いた。智朗だった。
智朗は、生まれてからずっと一緒だった自分の半身である妹のことを誰よりも強く思っていて、また気は弱いけれど察しが良い子であったから、はずれと雪菜の間に芽生えつつあった、もやもやとした予感にも薄っすらと気づいていたのかも知れない。
智朗は、自分が雪菜の代わりになることを願った。
願いを叶えるために世の中では代償が要求されるということを、智朗は知っていた。少なくとも、悪魔は無償で奇跡を与えてはくれない。
はずれの中に潜んでいた悪魔もまたそうであり、だからこそ契約は成立した。
悪魔の力は、部外者の誰にも知られることなく、そればかりか当事者にも知られることはなく、ひっそりと振るわれた。
また、嘆願者の希望通りに記憶も隠蔽された。
悲劇は智朗とはずれと、はずれの中の悪魔だけの秘密だった。
「このことは、ぜったいに、ないしょね。どうなったって、ないしょね。あと、僕がいなくなったら、雪菜ちゃんをよろしくね」
智朗はやがて病死し、残されたはずれは、親友が悪魔に願うのを止めなかった自分を、再び酷くおぞましい、悪いものだと考えるようになる。
そして、今日まではずれは罪悪と親友に対する誓願とに振り回される感情を持て余しながら、生きてきた。
自分は悪いものだから、なにも望んではいけない。
ただ、良いものが良いものを思う気持ちを、守ることだけが許された仕事だと。
はずれは、語り終えると、老人のように力なくうなだれた。
「……あーぁ、白状しちゃった」
雪菜だという女は、先ほどまでと違い、中から立ち上る悪意を疑いようもなく認めさせる、にんまりとした笑顔を浮かべると、服をはだけて肩口にある無惨な傷跡を見せ付けて、
きゃははは
きゃはははははは
きゃはははははははははははははははははははははははははははは
けたたましい笑い声を上げ始めた。
「大事に、大事に隠していたのにね。折角、雪菜のために嘘を重ねていたのにね。雪菜自身をも騙して人生を入れ替えさせていたのにね。でもね、ダメなんだよ。そんなことはうまくいかないんだよ。偽善と欺瞞にまみれた生活は必ず破綻する。甚だしい惨状を生み出す原因にしかならないんだよ。わかっているの? はあ君。全部、お前らの自己満足なんだよ」
きゃはははははは
「でもね、可哀想なことにね。はあ君の罪も、苦悩も、まだまだ終わってはいないんだよ。そんな安易な懺悔は許されていないんだよ。だって、あたしは雪菜じゃない。本当の雪菜はまだ自分が生きていることを知らない。。悪魔の力で記憶を捻じ曲げられて、妹を亡くした兄だと思い続けている、良かったね、滑稽だね、可哀想ね。馬鹿だよね」
きゃはははははは
きゃははは
はは
息苦しさを覚えると同時に、地面は激しくぐらついて、よろめき、はずれは苦しさに耐えかねたか、ついはずみで、雪菜そっくりの女を殴ってしまった。
水面を叩いたように、女もそれにつながる世界も砕けた。
(なんてことを)
はずれは自分のしてしまった行為の怖ろしさに怯え、痺れて熱い感覚が頭蓋の中でわだかまるままに、意識は暗転する。