第38回:夢故郷
からっと晴れた爽快な空の青に、わたあめのような雲が暢気に漂って、思わず陽光を遮らない怠慢を呪ってしまいたくなるほどに、肌を焦がす日差しが降り注ぐ。
時節は盛夏。最も暑い時期だ。
高低差百五十メートル、傾斜角度は場所によっては四十五度を超える長く辛い坂は、昔から滝坂と呼ばれている。そこを汗だくになってようやく越えると、地面ばかりが映っていた視界には一変、のどかな田園風景の広がりが目に入る。向こうには緑一面の山々がそびえ、ここが本当になにもない、田舎であることが実感できた。
葛城市からは電車でも車でも一時間半かかる隣県の山間の町、大悟町。
その田舎の景色になんの違和感もなく、畑と庭付きの乾拭き屋根の家がある。古ぼけた、昔話の中でおじいさんおばあさんが住んでいるような木造の家だ。
児童養護施設、東雲荘。
地元では、がきめんちとか、がきめらんとこと呼ばれている。
ここが、鹿島はずれが物心ついてから中学校卒業までを過ごした、彼が唯一我が家と呼べる場所である。
部屋の一室、四畳半の畳の上に敷かれた布団の中で、はずれは目を覚ました。
見覚えのある天井の木目模様と、小さな桐箪笥、い草の香り。
「おはよう、はあ君」
そして、彼女の笑顔がはずれを出迎えた。
色素の薄いクリーム色のサラサラとしたボブカット。
まつ毛は豊かで、瞳は円らで大きく、肌は童話のお姫様みたいに、白く透き通っている。
不思議と、人形のような作り物めいた雰囲気はなかった。
「……雪菜」
そう言ってしまってから、はずれは失言に気づいた。雪菜であるわけがない。目の前にいるのは、チロだ。長谷川智朗だ。たとえ、得体の知れない手術によって女の姿に、それも実の妹そっくりの容姿になっていたとしても、これは智朗だ。そうでなければならないのだ。
はずれは、万が一にも、和羽にその可能性を気づかせてはいけないのだ。
「悪い、何かの勘違いだ。和羽」
「和羽? 誰のことを言っているの、はあ君」
食い違い。
「ご飯もうできているよ。昨日は寝るの遅かったの? いつもはもっと早いのに。あ、でも、そっか、夏休みだもんね。はあ君もつい地が出ちゃったかな。きっちりしているように見えて、本当は結構だらしないんだから、もう」
「あ、いや」
「みんな、居間にいるよ。はあ君がくるの待っているんだから。ほら、用意して」
「みんな……」
みーちゃん先生、たける、けんすけ、ひかり、かなこ。東雲荘の家族。
「ずっと、そこにいたのか。だったら、起こしてくれれば良かったのに」
「やだよ。はあ君の寝顔見ているの、大好きだもん」
そう言うと、和羽としか思えない雪菜は立ち上がって部屋を出て行く。
「それじゃ、あたしはもう一人のお寝坊さんを起こしてくるね」
もう一人の家族。
長谷川智朗、チロ。
久しぶりの我が家は、はずれにとってとても懐かしく新鮮な印象だった。
きしむ床板、痛んだ戸板。廊下の柱に刻まれた背を測った傷の跡をなぞり、ため息を一つ吐くと、はずれは洗面所に向かった。古ぼけた家であるが、水道はきちんと通っている。洗面台だけ現代様式のものをぽんと置いてあった。蛇口をひねってはずれは洗顔した。いつものうがいや拳法の練習をする気にはなれなかったので、さっと口をすすいで居間に向かう。
起きてから、ずっと考えていたが、一体どんな経緯で現状に至ったのかわからなかった。
和羽の同僚である少女たちに襲われ、タロウという男に屋上から投げ捨てられたことは覚えている。それからが思い出せなかった。自分は結局地面に落ちたのか。それにしてはどこも怪我をしていない。意識のあるときは学校にいたのに、なぜ電車で一時間半もかかるここにいたのか。俺はそれほど長く眠っていたのか。
頬をつねってみたが、痛かった。痛覚を感じる夢なのかもしれない。




