第36回:執行者誠司
タロウの腕に抱かれて、ユニスは地上に降り立った。和羽とツェツィも、それが自然なことであるように、軽やかに屋上から飛び降りて着地した。
「初期形態と思しき悪魔と接触。第一種戦闘態勢に移行します」
ツェツィが事務的に戦闘開始を告げて、濃近の傘を捨てコートの下から取り出した剣を中腰に構える。ユニスはタロウから離れ、ツェツィに倣い鞄から武器を取り出す。和羽だけは、それができなかった。
「ねえ、お願い、やめて。ユニス、ツェツィ。これはなにかの間違いなんだ。はあ君は、こんな姿になろうとしてなったわけじゃない。死の危険を感じて止むを得なく……だって、そうだろう。僕がはあ君でもきっと同じことになった」
(だから、なに)
心を射抜くような誰かの声。
「和羽ちゃんは、悪魔と違うもの。生まれたときから別物だもの」
ユニスは冷たく言い切った。
「和羽様のご心情は重々承知しております。しかし、事情はどうあれ、マシンガンのトリガーに指をかけている犯罪者を放置することはできません」
ツェツィは心にもない調子でそう断じた。
「それは、だから……」
食い下がろうとする和羽の前で、はずれが腹の内をかき混ぜるような勢いを持った咆哮を上げた。飢えた衝動を周囲に撒き散らし、試しに腕を振るうと校舎に大穴が開いた。
実にたやすい破壊だ。子供が積み木の山を崩すような幼稚さだ。笑いがこぼれそうになる。
しかし、心を引き締めずにはいられない。
無邪気だからこそ、振るわれる暴力は危険さを増す。そこには害意などといった、攻撃の指向性さえないから。
「どうする」
ユニスは油断なく妖怪化したはずれに目を走らせながら、ツェツィに尋ねる。
「完全に妖怪化した悪魔相手に単純な力比べとなると、こちらが不利。和羽様を計算に入れられないのなら」
「面倒ね。立浪たちはまだこないの」
「きたところで任せられない」
「そうだ。大人は誰一人信用できない」
強大な悪魔を目の前にして、幼き少女たち二人は一歩も引かない。戦い続けるよう育てられた彼女たちはいざ妖怪との対決のときを迎えればからくり人形のような彼女たちらしさを取り戻す。
タロウは両手を構え、ユニスは七枝に分かれた燭台を右手に持ち、ツェツィは輪が柄に下がり、血にまみれた蛇のような波紋のある剣を握る。
執行者達が悪魔と対決する勇姿を、執行者の中でも一番の英雄と目されるはずの少女は呆然と眺めている。
悪魔は強大であるが、膂力に劣りこそすれ執行者たちは妖怪退治に長じたエキスパートである。戦いは拮抗し、決着せず、それゆえに和羽の優柔不断は助長された。
幼馴染と同僚兼友人の間で、和羽はなんの力もない少女に成り下がった。和羽は、妖怪を殺す技術ばかり覚えてきたことを後悔し、愚かさを痛感した。自分は、結局、ただの殺人者なのではないか。大儀があるというおためごかしで偽っていただけなのではないか。
和羽の戦士としての大切な機構は破損してしまっていた。しかし、それと同時に、体の中にある歯車のようなものが動き始めた気もした。眠っていたものが起き出してきたような感覚だった。意識が冴え渡り、額の辺りから光を放出するかのように啓いていく。
(僕は救ってみせる……愛しい人たちをすべて……)
そうこうしている間にも、戦いは間断なく続き、悪魔も徐々に戦い方を覚えてくる。始めはやたらに腕を振り回すだけだったのが、ユニスたちの動きを観察し、動きの止まった隙を狙う小賢しさを見せるようになってきた。戦いの中で成長しているのだ。
悪魔が手刀でツェツィを突き刺そうとする。筒型のマハラージャ・コートが翻り、その下をギザギザのスコップのような爪が地面を削っていった。その間、タロウが間合いを詰めて右の拳を心臓めがけて鋭い杭のように打ち出す。悪魔は飛び退りながら左腕を横薙ぎして、飛来したユニスの燭台の火を打ち消した。悪魔は、地面を削ったドサクサに握った土塊を器用に二方向に飛ばす。ツェツィは陣形がばらけるように跳んでかわし、タロウはすかさず咄嗟の運動能力に劣るユニスのカバーに入って、土塊を粉砕した。
土の欠片の雨が晴れたとき、その向こうに悪魔はいなかった。代わりに、太陽に厚い雲がかかったかのように、視界が暗くなっていた。
ツェツィには見えていた。悪魔が跳んだのだ。翼の力ではなく、脚力による、鋭い跳躍であった。
狙いはツェツィだ。
と、理解する頃には覆いかぶさるように悪魔が両手で押し潰していた。
グチャリュ
という音は聞こえなかった。
「格好良くなったじゃないか。そのイメチェン成功だと思うぜ、はずれ」
そう軽口をたたく主、井上誠司が数瞬早くツェツィを救出していたからだった。乾ききっていない、色素の薄い髪をオールバックになでつけ、伊達眼鏡の下の切れ長の瞳が、異形に変貌した親友を射抜く。だが、その瞳は笑っているようにも見えた。