第32回:死んだほうがいい
「恋人間合いって、なんだ。流行語か?」
確かに、はずれと和羽は互いの吐息のかかる距離にいる。はずれが恋人間合いというのは一般的な言葉なのか尋ねようとすると、和羽は顔を赤くして離れ、ユニスに向かって、
「違うんだよ、ユニス。今ね……」
「和羽ちゃんは、ユニが守る。カモン、タロウ」
和羽の言葉を無視したユニスの呼びかけに応えて、ユニスたちの背後にある外付けの階段から、一足に跳躍してきた黒い影。
黒い上下のスーツに目深にかぶった黒帽子。サングラスをかけ、口元はマフラーで隠し、手には白手袋という完全防備の出で立ちの男だ。体型と皮膚の色から、アジア系の成人男性だということがかろうじてうかがい知ることができた。
(よほど皮膚が弱いのだろうか)
などとはずれがのんきな推測をしている間もなく、
「タロウ、律法に従いて、我が命に賭せ。曰く、我が黒髪の仇敵を滅ぼせ」
「イエス、マイマスター」
ユニスが命ずるがままに、タロウと呼ばれる黒服の男は自然体から構えることもなく、いきなり走り出した。はずれに迫ると躊躇いもなく殴りつける。座っている体勢から、はずれは咄嗟に跳び退ると、今の今まで座っていた屋上の床が砕けて破片が飛び散った。
(こいつも、化物級か。でも……)
避けられないスピードではない。
タロウは攻撃が外れたと見るや、はずれを追って間断なく攻撃をしかける。はずれは軽快なフットワークで突き出される拳をかわした。こうしていると、昔、智朗たちと近所のボロ道場で胡散臭い中国拳法を学んだ日々が思い出された。
リーチのある回転蹴りを後方に跳んでかわす。最近は恐ろしく動きの早い怪物や腕が伸びる妖怪が相手だったが、この男のスピードはあの鬼たちより少しだけ劣っていて、床を粉砕するパワーは脅威だが、油断さえしなければはりあえる相手のように思えた。ただ、サングラスやマフラーのおかげで表情も呼吸も読めないのが不気味だった。
タロウは真っ直ぐにはずれに拳を突き出す。はずれは左の腕で弾くとそのまま手首をつかんだ。続いてタロウは左の拳を打ち出す。はずれは右の手の甲で払い、小さな円の軌跡を描いて掌底をタロウの顎に叩き込んだ。
決まった。サングラスが飛んだ。
逃げ場のない衝撃がタロウの脳を揺らす。手応えは十分だ。タロウは軽い脳震盪を起こしたかも知れない。和羽の知人であるらしいから、はずれは傷つけずに無力化したかった。
だが、無力化はできなかった。
タロウは首を衝撃で持っていかれた姿勢のまま、はずれにつかまれた右手を回転させて逆につかみ返すと、はずれを引っ張って無理矢理上半身を起こした。はずれと目が合う。タロウの眼球はガラス玉のように曇りなく見開かれていた。タロウの左腕がはずれの側頭部をぶち叩いた。頬を床で削りながらはずれは思う。
(また、人間じゃないのか)
はずれは辟易した。はずれの身体能力は、実はずば抜けている。普段やる気を出すことはないし、学内のスポーツテストでも大した成績は残さないが、悪魔の子であるはずれは、生まれ持った身体能力の高さを有し、本気になればインターハイのどの競技に出ても優秀な成績を収めることができる。その身体能力の上に、子供の頃に身につけた名前のわからない中国拳法を使えば、そうそう負けるはずはないのだ。
相手が人間ならば。
ところが、妖怪たちは人間の能力を軽く凌駕する。それを倒す執行者達もまた。はずれは、ここのところ戦った誰より弱かった。
タロウはタフだ。普通の人間だったら倒れているところを、なんのダメージもないかのように攻撃を続けてくる。それどころか、体の動かし方が滅茶苦茶だった。筋肉繊維がぶちぶち千切れていることだろう。物理法則を無理に押さえつければ当然のことだ。
はずれの頭に警笛が鳴る。揺らぐ視界。頭を打たれて、自分の体がどんな状態にあるのか理解できない。はずれは頬の感覚を頼りに、床があると思しき方向を手で強く押して、ごろごろと転がる。床の砕ける音がする。タロウの追撃だ。拳の負担をもろともせず、コンクリートの床を砕く。はずれは転がってタロウの拳を避け続け、体を反るようにして跳びはねて、タロウの脇腹に右の踵を叩き込んだ。思い切り蹴りつけたが、効いた様子はない。タロウは二三歩よろめくと、向き直ってはずれに攻撃を再開する。
「駄目だ。やめさせて、ユニス。誤解なんだ」
はずれとタロウの闘い続けることに、和羽はたまらずに叫んだ。ユニスは、
「誤解……誤解なんかしていないよ。和羽ちゃん」
あどけない顔立ちに似合わない、冷たい声で言う。
「和羽ちゃんに近づく変態おバカは殺す。そうじゃなくても妖怪は殺す。ユニがしているのは当然のこと、でしょ?」
ユニスの言っていることは、少なくとも、組織にとってはなんの問題もない。和羽自身もそれが正しいと教えられてきた。
……殺すよ。妖怪の疑惑のかかった人は。差別せずに。
あの時の言葉も嘘ではない。
清浄なる社会のために、妖怪は死ぬべきで……半妖も、軽蔑こそしないが、秩序を乱すか、または崩壊させる可能性がある。問題が起きる前に未然に始末した方がいい。
より多くの人間の、安全で、肉体的にも精神的にも、健康的な生活のために。
でも、はずれは、データには問題がなかった。学園に潜伏している監視者からデリート要請の報告はなかった。奇行をすることはあっても社会の害悪にはなりえない、と報告書には記されていた。
それでも、
「悪魔の子は、死んだ方がいい」
ユニスは、はずれの資料を知っている。その上で、殺そうとしている。それは、果たして何のためか……。
なんではずれが殺されなければならないのか。
いや、理屈はわかっているのだが、
(はあ君が殺されるなんて、いやだ)
和羽を、理屈よりも先行する感情が突き動かす。