第30回:ただいまとおかえり
死体の後処理は、掃除機でするよりも簡単に終わる。
和羽の手首から伸びる赤い血が動かなくなった妖怪の残骸を、血の染み一つ残さず取り込んでいくのだ。質量保存の法則など、まるで無視して、妖怪の存在などなかったかのように始末し終えると、血は和羽の体内へと戻っていき、傷も痕跡残さず消え失せる。
とはいえ、戦闘によって壊された階段の手すりやトイレの窓ガラスはそのままだ。和羽はごそごそとスカート下をいじると、鉛筆削りくらいの大きさの通信機のスイッチを入れた。間もなく、組織の事後処理班がなるだけきれいに直してくれるだろう。ごまかせる範疇だと判断したのなら、そのまま帰ってしまうかも知れないが。
作業を終えてはずれの方を見ると、結界の中ではずれがうずくまって拳を屋上の床に打ちつけていた。
「ちょ、ちょっと、君、なにしているのさ」
結界を解いてはずれを床から引き剥がす。はずれが涙を流していることに気づいて、和羽の肩は震えた。不意打ちだった。
「なんで泣いて……」
はずれは、強い力で和羽を引き寄せると、一回りは違う小柄な少女の体を腕の中に収めた。胸で、腕で、肩で感じる少女の体は、思っていたより小さくて、でも、どこか懐かしい気がした。女の子特有の優しい匂いと、強い鉄の匂いが混じっていた。
「……やめてよ、苦しいよ……」
振りほどけないわけではない。和羽の体には、人外の化け物を凌駕する力が秘められている。けれど、振りほどけない。
はずれは、和羽の耳元で懇願する。
「……もう辞めてくれ。お願いだ」
「……なにを」
「お前が、手首を切るなんて耐えられない。お前が、戦うところをもう見たくない」
「あれは、リストカットじゃなくて、そういう儀式なんだよ」
「それでもだ。お前の負担は変わらない。お前の体に傷がつくのは変わらない」
「治るよ」
「体が傷つけば心も傷つく。心の傷は、決して消えない。消えないんだ」
はずれと和羽は見つめあった。真っ黒な髪とクリーム色の髪が、なにかを連想させるコントラストを構成していた。
「……なんで、そんなにむきになるの。僕と君とは、赤の他人じゃないか」
突き放すように言う和羽の表情は硬い。硬い表情は、硬いだけで、人形とは違う。はずれは、そっと安堵した。
「そうだな」
はずれは瞳を閉じて、同意した。けど、その声音は優しかった。
「初めて会ったときはそうだった」
「……」
和羽は震えた。目の前にいるのは、さっきまでのはずれではないような気がした。
「本当は、最初からわかってた……あの路地裏で見たときから。成長したら、こうなっていただろうっていう姿そのままだったから、簡単だった。といっても、女の格好しているんだ。我ながら、よくわかったもんだよ」
はずれは、実は最初から和羽のことを知っていた。
七年前まではずれと共に暮らしていた。同じ施設で育った幼馴染。肉親を知らないはずれにとって、家族といえる存在。
その頃、和羽は長谷川智朗という名前だった。親友とも同い年の兄弟とも呼べた。はずれは智朗を「チロ」と、智朗ははずれを「はあ君」と呼び合う仲だった。
「……でも、案外驚かないんだね」
「驚いてる。だが、似合っているし」
智朗の妹の雪菜そのものだ、という言葉を飲み込む。言うまでもないことだ。二人は双子なのだから。
「だけど、もうお前には関わらない方が、お前のためだと思って、わからない振りをしていた」
「……なんで、そんな意地悪するんだよぅ……寂しい、じゃないか」
「悪い」
はずれなりに、和羽のことを思って行動したつもりだった。
智朗は七年前にある裕福な家の養子になって、施設を出て行った。便りは何通か交わしたが、すぐに途絶えた。便りがないのは良い便りという。はずれは、智朗は新しい家族の中で元気に暮らしていると思い込むことにした。
(こんな、自分のような忌まわしい疫病神とは関わらない方がいい)
その思いは七年前にはすでに固まり、対象は身近な人を中心に誰に対しても向けられていた。だから、高校受験の際に、はずれは大好きだった家族のいる施設を離れて、全寮制の高校に進学した。親しい友人も作らないようにしてきた。結局、与一や誠司とはつながりを持ってしまったが。
はずれは、自分がいわゆる悪魔と呼ばれる存在の子供であることを自覚していた。
過去のとある出来事から嫌というほど身につまされていた。はずれが忘れるはずないのだ。むしろ、忘れているのは和羽の方なのだ。だが、それでいい。忘れていさせるために、はずれは距離を置いておこうと思ったのだ。
だが、和羽の現況がどうしても知りたくなって、近づきすぎた。凍らせていた心が、氷に塩をまぶしたように、一気に溶けた。
本能を殺し、社会的規範に沿う優等生を演じることで、悪魔の子である自分を消そうとしていたのに。
近づいたら、我慢ならなくなった。
無二の親友で、兄弟である智朗のことを思えば。
和羽が、危険な目にあいながら、妖怪を殺し続けているという事実を許すことができなかったのだ。
もうこうなっては仕方ない。氷は既に溶けてしまった。
悪魔としての本能を抑えながら、親友に対する虚偽を抱え罪悪感に苛まれながら、できる限りやりきるしかない。
今でも自分の命を軽視することに違いはない。いつ消え去ってしまっても構わない。けれど、せめて消え去る前に、和羽としての幸福を確信したい。
ともかくも、今は……。
「ただいま、はあ君」
「おかえり、チロ」
目の前にある再会を祝い合った。