第29回:形の無い悔恨
皮膚がぱっくりと裂けて赤い肉が露出する。
傷から吹き出た、鮮血のシャワーが降り注ぐ。
続けて和羽は何度も手首を切りつけた。
はずれは呆然として頭の中が真っ白になる。和羽の行動が、あまりにも突拍子もなく、あまりにも……美しく感じられたから。だが、すぐに、はずれは二つの激情が胸の内から湧き上がってくるのを感じた。
第一の結界が壊れた。
妖怪たちは和羽に殺到する。一番速いのは犬男だ。黒い弾丸のように、和羽の喉もとめがけて疾駆する。和羽は落ち着いて犬男を見つめている。一瞬後には、凶暴に生え揃った牙が細い首筋を噛み切る。かと思えたとき、犬男の動きが唐突に止まった。
足元の血溜まりから、血液が鋭い槍状になって犬男の体を貫いたのだ。
空中に縫いとめられ、泣き喚きながら、痙攣を起こし、やがて弛緩していく犬男。
完全に沈黙した犬男を放り投げると、それ自体が意思を持っているかのようにうごめく血溜まりは、和羽の右手首に結集していく。血は和羽の手を覆い、ぬらぬらと蠢く。前にはずれが見た鮮やかな赤いグローブの正体だった。
「さぁ、おいで。下賎に身をやつした者どもよ」
和羽が言葉をつむぐ。心のない人形が、しゃべらされているかのように、はずれには見えた。
それからの戦いは圧倒的だった。
血のグローブから浮き上がり白木の刀の形に凝固した血餅を振り回し、縦横無尽に走り回る和羽の姿は、先ほど血を纏っていなかったときより、格段に洗練され、更に美しく、艶かしい色香すら感じられる。
甘ったるい血の芳香に酔ってしまったのだろうか。
誰も和羽の一挙動から目が離せない。
改めて見る和羽の戦いは剣舞のように華麗で、はずれは、見惚れた。
和羽は禿頭の伸腕をくぐり、赤鮫の手の平を踊るように避けると、赤鮫の両腕を根元から切断した。追ってくる禿頭の右腕を、チーズを裂くように切ると、続く伸腕の弾性を利用して体当たりをしてきた禿頭の体を上下に泣き別れさせた。最後に残った愚鈍な巨人は、血餅の刀を血のグローブの中に戻すと、今度は和羽自身の身長を越える巨大な鎌を作り出し、巨人に向かって疾風のごとく駆け、大きく振りかぶった暗赤色の鎌で分厚い巨人の肉の鎧を頭から真っ二つに両断した。
時間にして三分はかからなかっただろう。
それほどの短時間で和羽は化け物たちを屠って見せた。驚嘆すべき事実を再度目の当たりにして、だが、はずれは魅惑的なショーが終わってしまったことに対する落胆を感じていた。
(妖怪に一太刀振るう度に彼女は美しくなる……血を浴びるほどに彼女は艶を増す……もっと、見たい。もっともっと……彼女の与える惨劇を)
暗い欲望。
どす黒い狂気。
心の奥底から打ち震える狂騒の声。
それらは、戦い終えた和羽の横顔によって冷水をかけられたかのように萎んでいった。
かつて見た、彼女の渇いた表情。
それは、もう二度とあんな顔はさせまいと彼と友が誓ったあの頃の表情と、まったく同じ顔だったから。
(ああ、やっぱり、違った。これは正当なんかじゃない……)
(……幸せに暮らしていると、思っていたのに。思い込もうとしていたのに。まさか、こんな糞みたいなことになっているなんてな)
はずれは、悔しくて悔しくて悔しくて、やるせなくて、拳を屋上のコンクリートに叩きつけた。七年の間抑えつけてきた感情が溢れ出すのを、必死に留まらせるために、何度も拳を振るった。皮膚が破けて、小石が傷口にめり込んでも、尚……。
「……すまない、チロ……」
はずれの頬を伝って涙がコンクリートを濡らす。