第28回:心無い祝詞
「はずれっ」
和羽が呼びかけてもはずれの返事は無い。はずれの体はくたびれたサンドバッグのように横たわり、ぴくりともせず、死んだようにも見える。鼻血が片方の穴からとめどなく流れ出す。ガソリンが洩れているかのようだった。
もう片方からも鼻血が流れているとしたら、窒息もありえる。
(仕方ない)
和羽は短刀の鞘を抜いた。祈祷により聖別された刃先から雫が滴っている。和羽は短刀を振って、無数の飛沫を犬男に向かって浴びせかけた。犬男は目を手で覆い、大声でうめきながら転げまわる。短刀から滴る清めの霊水は、妖怪にとって劇薬になるのだ。赤鮫はそれを見て、和羽に襲いかかった。駄々っ子のように手を振り回し和羽の顔をひっかこうとする。
赤鮫は朱の盆という妖怪の亜種で、手の平で触れた人間の部位をこそぎとることができる。和羽はそれを知っているため、赤鮫には触れずに上半身をくねるように避け短刀で右の二の腕を切った。赤鮫は激痛に呻きつつも和羽の顔を狙う。和羽は胸を反らしてバック転をする際、赤鮫の顔を蹴りつけた。
地面に手をついて二回転。着地したところを巨人が襲う。自慢の怪力で置いてあったベンチを右手で軽々と投げつけた。和羽は片足の裏で受け止めて膝で勢いを殺し、足のバネだけで巨人に返す。巨人はベンチを拳で粉砕したが、木片が飛び散る向こうに和羽を見失った。
「コッチダ」
禿頭の声を聞いて妖怪たちは一斉に和羽を追い始める。
和羽は細腕から想像もつかない腕力で軽々とはずれを抱えて、第二棟の外付けの非常階段を登って屋上までやってきた。はずれを乱暴にほうると、またもやスカート下から物を取り出す。
白紙に清明桔梗印という名の五芒星が描かれ、呪いの言葉が書き連ねられている。
和羽はその紙を屋上の床に押さえて一言「えい」と叫ぶと、紙から五芒星が抜け出て屋上の床に移った。
「まったく、君のおかげでとんだ計算違いだよ」
和羽は運んでいる途中にはずれの目の動きに気づいていた。内心ほっとしていることをごまかす様に少し棘のある口調になる。
「……すまない、お嬢さん」
はずれは上半身を起こしながら言った。
「下着を見てしまった」
「そういうことはわざわざ言わないでいいから」
和羽は顔を赤くして叫んだ。
「ともかく、君は足でまといにしかならない。もう一つ結界陣を張るから、君はそこでおとなしくしていて」
和羽は追いついてきた妖怪たちに目を走らせながら、はずれを中心に素早くもう一つ陣を張った。あらかじめ書をしたためておくことで容易に発動できる簡易結界であるが、その分呪術的な強度は低い。和羽は迅速に行動しなければならなかった。
和羽はまたもやスカート下をごそごそといじると、香水の小瓶を取り出す。中の水を妖怪の血で穢れた短刀に降りかけると、なにやら呪いの言葉を唱える。小瓶の中には常陸前明寺の天の真名井と呼ばれる霊水が入れられており、穢れを取り除くために使われる。短刀を清めると、和羽はすっと色のない表情になって、妖怪たちと対峙した。妖怪たちはしきりに腕を振り上げているが、まだ結界は破られていない。上級妖怪ではこうはいかないだろう。
「高天原に神留まります、皇が親神漏岐、神漏美の命を以て、天つ祝詞の太祝詞事をのれ。かくのらば、罪という罪、咎という咎はあらじ物をと、祓え給い清め給うともうす事の由を、諸々神の神達に、左男鹿の八つの耳を振り立てて、聞こしめせともうす」
最要払いという大祓祝詞の簡略をつぶやくと、激しく水を滴らせる短刀を左手に構え、
「神と和羽の命以て、荒振る神等よ、祓え給い清め給う」
まるで、優雅にヴァイオリンを弾くかのように、手首をかっ切った。