第25回:糞女
「じゃあさ、なんか食べに行こうよ。駅前にでもさ」
「んー、そうね……お。食べる、ね」
長里はなにかろくでもないことを思いついたのか、にやりと笑うと、甘く甘く作った猫なで声で、残酷な要求を口にする。
「……ねぇ、根本さん。あなたも一緒にくるぅ。根本さんがんばったしね、許してあげてもいいよ。あー、なんて優しいのかしら、あたしってば。女神様みたい?」
「……」
「聴いてんの、冬実」
「……本当に、本当に許してくれるの」
「もちろんじゃない。あたしたち、親友でしょう」
それはかつて温かな意味でもって何度も繰り返された言葉。しかし、今は、あまりに残忍な響き。
個室の戸を開き、現れた全身ずぶ濡れの根本に、長里は便器を指差して告げた。
「その便器を舐めな。全部きれいにできたら許してやるよ」
山口たちは揃って「うげ」と顔をしかめた。同時に、どこか嬉しそうに騒ぎ始める。
「ほら、早く舐めなよ。あたしに許して欲しいんだろ。ほら、十秒数える内に舐めな」
カウントダウンは早い。
「ハーリーハーリーハーリーハーリー」
急かされるがままに、根本は洋式便器の前にひざまずき、顔を近づけていく。瞳は、水道水でなく、涙で潤み、充血している。霞む視界の向こうにある便器には、排泄物そのもの以外にも尿石と水垢による黄ばみがこびりついている。個室の隅には水に濡れた汚物入れが置いてある。アンモニア臭と、なにかの臭いが混ざった、嘔吐感を促す不快な臭いが糸状になって口の奥の粘膜にはりつく幻覚。
根本は、胃の底から頭まで駆け巡る生理的嫌悪感に耐えて、がんばって舌を伸ばした。
長里たちは、これを成し遂げても『便器舐め女』として嘲り、吹聴して回るだけで、いじめを止めることはないだろう。
けれど、一縷の望みにかけて、根本は便器を舐める。他に手段が思いつかないから。希望を捨てたくはないから。
「いい趣味しているね」
その声がしたのは、根本が今まさに舌で汚れに触れようとしたときだった。
完全に予想だにしなかった声に驚いて振り返ると、一体いつの間にやってきたのか、女子トイレの入り口に寄りかかるように、一人の少女がいた。
色素の薄いクリーム色のサラサラとしたボブカット。
まつ毛は豊かで、瞳は円らで大きく、肌は病的に白く透き通っていて、表情のない冷めた黒瞳、桜色の唇。整いすぎて、どこか嘘くさい美しさ。
名のある職人が作った等身大の芸術品、という表現がぴたりとくる少女。
菅原和羽だった。
「な、なによ、あんた。いつの間に……」
「確か、イ組の転入生の菅原よね……なに、根本を助けにきたってわけ」
動揺する少女たちの相手はせずに、和羽は長里の前までくると、
「それ、舐めたら、なにかもらえるのかな」
と言う。和羽は長里の返事を待たず根本の入っていた隣室に入ると、少しごそごそして直ぐに顔を出した。
突き出す白くて細い指先には、焦げ茶色の中に、どろりとした黄土色の混じりあう、ねっとりとした物体がこびりついていた。
和羽は、その指先を、舌を絡めるようにじっくりと、恍惚とした表情で、さも美味しいものであるかのよう舐めた。
長里たちは、その和羽の仕草の性技のような生々しさに、口を押さえてうめいた。
「いかれてやがる。糞女」
罵声を浴びせて、長里たちは逃げ出し、トイレには和羽と根本が残された。
「……こんなものを舐めて、手に入るものなんて、どうせくだらないものだよ。君が欲しいものはそれじゃないだろう」
和羽は吐き捨てるように言って、スカートのベルトの下に挟んでいたピーナッツとヌガー入りのチョコレート菓子を根本に差し出した。
「食べるかい」
根本は困惑して首を横に振るのが精一杯だった。