第1回:通り雨と思えば
「お……お金なんてありません」
うわずった声が路地裏の静けさに響いた。
長かった梅雨のあけた七月の半ば。時刻は夕刻。
繁華街にほど近い、終日開店休業状態の畳屋といかがわしいホテルとの間の狭い路地で、ホテル側の壁を背に、少年は三人のがらの悪い男たちに囲まれていた。
少年は、中学生くらいか。小柄な体格で、男たちの影にすっぽり隠れてしまう。
男たちは、そろって老け顔であるが、よく見れば少年とそう歳も離れていない、高校生くらいの若者たちだ。スポーツキャップをかぶってわざとらしくわき腹をさすっている者、ピアスとサングラスをみにつけてガムをかんでいる者、金髪の坊主頭のたらこ唇。
威圧的に少年を見下ろしている。眼光に相手を小馬鹿にした侮りが見える。
彼らにとって、少年はロールプレイングゲームに登場するザコモンスターのような存在だった。そこら辺にいて、ちょいとつつけばお金を落としていく、おいしいカモなのだ。
たらこ唇の少年は言った。
「あぁ。なにいってんのお前。うぜぇ」
「君がお買い物してるとこ、俺らはちゃーんと見ちゃったのよね」
「ふざけてねえで、さっさと出せよ、ボケ」
いわゆる不良であるところの少年たちは、矢継ぎ早に罵言を浴びせかける。こういったことは慣れたものらしく、態度や口調に微妙に強弱をつける少年たちのコンビネーションは見事である。
「こちとらてめえにぶつかられて、痛くてしかたねえんだよ。あー、いてえ。こりゃ、骨が折れているかもしれねえ」
「おーおー、かわいそうに。大丈夫かぁ?」
「……そんな、そっちからぶつかってきたのに」
「うるせえな。俺が折れてるって言ってんだから、折れてんだよ」
小柄な少年に発言権はない。不良少年たちに、カモの言葉を聞く耳もない。カモは、さっさと自分たちにお金を差し出して、泣きべそでもかいて逃げ出せばいいのだ。それが、せいぜい不良少年たちにとっての、ザコの存在価値だ。
「……なぁ、君。いいじゃねえか。今なら君の財布の中身だけで許してやるって言ってんだよ。慰謝料だ。悪くねえ話だろうが。だって、本当ならン十万もらうとこなんだぜ? ほら、ぐずぐずするな。早くしろよ。うぜえな。それとも、あいつと同じようにお前もあばらぶち折られたいのか」
八階建てのホテルが夕日を遮って、辺りには六時前にしては深い暗闇が降りていた。駅前へと続く大通りから一つ路地に入っただけで人通りは驚くほど少ない。少年たちのいる路地から、テレビドラマのエキストラみたいに通行人が歩いていくのが見える。誰も、こちらに一瞥もくれることなく、無関心の仮面をかぶって各々の生活というルートを進んでいくのだ。暗がりにいる少年たちがなにをしているのか興味はないのだから、ありふれたトラップに落ちた少年に気づくことはない。
少年の表情は、急き立てられる恐怖感に屈する様がありありと見て取れた。
助けはない。
交番は意外に近くに設置されているのだが、少年が声を張り上げて叫んでも届かないくらいの距離はある。そして、そんなに大きな声は出せないだろう。通行人に助けを求めても、わざわざ面倒ごとに関わってくれるとは限らない。ふと、ひとかけらの希望を求めて通りへ視線を送っていた少年と、急ぎ足で通りかかったぼさぼさの髪をした制服姿の学生との視線が合ったが、少年が一縷の望みを思い描く瞬きほどの時間すら与えず、学生は踵を返して見えなくなった。
少年の瞳が暗闇に落ちる。
(これは、通り雨のようなものだ)
不意にやってくる災難。傘がなければ、濡れるのを我慢するしかない。そして……。
(誰も傘を差し出してはくれない。対処するしかないんだ、自分で……)