ドバイ
俺は常に影の声を聞いている。それは俺の中にいる誰かだ。決して「もう一人の俺」ではない。まったくの別人だ。だが、なぜかそいつは「俺の中」にいる。
20代で経営者になった俺は、国際特許を取った商品が世界でヒットし、30代半ばで億を越す年収になっていた。金で手に入らない物など何もないと、本気で錯覚し始めていた。
ある日、ドバイの街を歩いていると、入り口が透明な硝子戸で、壁も大きな硝子で囲まれたカフェを見つけた。店内がよく見え、何人かいる客が飲み物を美味そうに飲んでいる。冷たいコーヒーが飲みたくなり、その店に入った。
「いらっしゃいませ」とメニューを持ってきた日本人のウェイトレスの声は、聞き覚えのある声だった。5年前に別れた元恋人の玲子だった。「あっ!」と互いに声を上げ、一瞬の沈黙のあと、「元気だった?」と同じ言葉を同時に発していた。あの頃、俺と玲子は日暮里のマンションで暮らしていた。
ホテルのベッドで目覚めると、玲子はまだ隣で寝ていた。明日は朝からオンライン会議があることを思い出し、彼女をベッドに置き去りにして、俺はホテルを出て、タクシーを拾い、オフィスへ向かった。会議で使うサンプルをいくつか取りに行く必要があったのだ。
家に戻り、資料をパソコンでまとめ、会議の準備ができたので、玲子にLINEを送ってみた。
すぐに「ひどい。起こしてくれてもいいじゃない」と返信が来た。「ごめん。また連絡する。いいレストランがあるから、今度はそこで」と返信し、妻が夕食の支度をしている一階のキッチンに降りて行った。
5年前に感じていたピュアな幸福は、今は感じない。しかし、ここには確かに安定した生活があり、それを幸福と呼んでも別に構わないはずだ。
「腐った幸福だけどな」
俺の中の別人が、そう言った。
「いらつかせるんじゃねえよ」と、俺は心の中でそいつに向かってつぶやき、イメージの中でその男の顔を殴った。
「へへ」と、そいつはニヤニヤと俺を嗤った。




