プロローグ
グラスの中でカランと鳴ったその氷は、三億年前の火星に降った雪だった。
永久凍土を砕くプラズマドリルの不快な振動が、十八時間にも及ぶ過酷なシフトを終えた今も、右腕の骨にびっしりとこびりついている。
分厚い防塵服を脱いでも、火星特有の微細な赤茶けた砂埃は毛穴の奥まで入り込み、鉄錆のような匂いを放っていた。
常に低く唸り続ける居住ドームの生命維持装置のノイズを聞きながら、俺は油汚れの染み付いた粗末なソファに泥のように体を沈めた。
地球から送られてきた安物のスモーキー・ウイスキーを、グラスに注ぐ。
薬品のように強烈なピートの香りが、無菌室のように無味無臭の氷と混ざり合う。
一口あおると、喉の奥で焼け焦げた泥の味がした。
地球から一億キロ以上離れたこの辺境の穴ぐらで、故郷の泥の味を噛み締める。
それが採掘責任者である俺、アッシュの唯一の儀式だ。
闇市に流せば、この氷ひと欠片で地球へ帰る最新型宇宙船の片道チケットが買える。
水が黄金より価値を持つこの赤い星で、純度100%の古代氷は究極の資産だ。
だが、俺にとっては違う。
これはただの、喉の奥の砂埃を洗い流すための『最高級の割り材』にすぎない。
馬鹿げていると笑いたければ笑えばいい。
命を削って掘り出した対価としては、これでも安すぎるくらいだ。
その時、背後で、居住区のエアロックが機械的な摩擦音とともに開いた。
「――非効率の極みですね。その歴史的価値を持つサンプルを、脳細胞を破壊するだけのアルコール冷却材として消費するとは」
振り返ると、火星の赤茶けた砂埃など一切無縁だと言わんばかりの、チリ一つない純白の制服に身を包んだ女が立っていた。
プラチナブロンドの髪を隙なくまとめ、手には最新型のデータパッド。
地球本社の連中特有の、冷たくて人を小馬鹿にしたような目をしている。
彼女の真新しい専用防塵ブーツが、俺の部屋の汚れた床の上でコツン、と冷たく規則的な音を立てた。
「セリーヌ査察官です。地球本社から参りました」
彼女はグラスの中の氷を冷徹な目で見下ろし、データパッドを指で弾いた。
「本日から、この第4工区の旧式な採掘プロセスはすべて最新AIの管理下に移行します。アッシュ責任者。あなたの直感や長年の経験則といった『非論理的なノイズ』は、本社の算出データによれば、もはやこの星には不要です。明日からはマニュアル通りに動いていただきます」
俺は言い返す気すら起きず、もう一度グラスの氷をカランと鳴らした。
ため息とともにピートの煙を肺に深く流し込む。
厄介な嵐が来る。火星の砂嵐より、ずっとタチの悪いやつが。




