第3話 月下美人の男
白兎は廊下を歩きながら足が震えているのを感じた。
柳皇貴妃という、宮廷で最も権力を持つ女性の一人に目をつけられてしまった。
これは幸運なのか、それとも不運なのか。
(はぁ……あまりに目立つと私を女ではないかと疑うものが出て来てしまうのではないだろうか……。それは困る。一族郎党皆殺しは絶対に嫌だ……!)
うーうー唸りながら歩く様はまさに不審者だ。
夜遅くに男が後宮で頭を抱えながら歩いているなど、この場に武官がいれば尋問されそうなものだが、幸いにも白兎は誰ともすれ違わなかった。
(というか、出口が遠い……。さっき入ってきた入口から出れば楽なのに何故こんな遠回りを……。)
「はぁ、疲れた……」
そんな言葉をこぼしながら後宮の中庭を通り過ぎようとした時、白兎は人の気配を感じた。
驚いて振り返ると池の畔に一人の男が立っている。
(うわ……綺麗な人だな。)
長い黒髪を後ろで結った男は、この距離でも分かるほどに美しい顔をしていた。
月明りに照らされるその顔は神が気まぐれに作ったとしか思えないほど均整の取れたバランスで、男なのか女なのかハッキリしない顔立ちだったが、その長身と体格が男であると示していた。
男がこちらに気づき顔を視線を向けてくるので、白兎もぺこりと頭を下げる。
特に会話することもないだろうと思ったが、予想に反して男は柔和な笑みを浮かべて近づいてきた。
「こんな夜更けにお一人ですか」
その声は柔らかく、どこか甘い。
「あ、はい……」
白兎は戸惑いながらも答える。
(これはまた人気のありそうな……。ここにいるということは宦官か?これだけの美貌なら男としての機能はなくても恋仲の相手の一人や二人くらいいそうだ。)
「あぁ、失礼いたしました。自己紹介がまだでしたね。私は蘭羽と申します。皇太后様付きの文官を務めております」
「あ、左様で……」
「宦官ではありませんよ。しっかり男です」
まるで自分の心の中を見透かしたように言われ戸惑う白兎に、蘭羽と名乗った男はにっこりと笑いかける。
「あなたは新しく参内された錬丹術師の方ですよね」
「おっしゃる通りで……あ!いえ、あの、私がこちらにおりますのは呼び出されたからでございまして……っ」
「存じております。先ほど柳皇貴妃様があなたを呼ばれたと。……何かあったのですか?」
「……いえ。私が到着した頃にはすべて解決しており、生憎とすぐに帰されてしまいました」
「そうですか。それはとんだ無駄足でしたね」
人当たりがいいのにどこか掴みどころのない男だ。
こういう相手は白兎の苦手とするところでもある。
「お名前は確か……」
「白兎と申します」
「白兎様。可愛らしいお名前ですね」
「私はまだ若輩者ですので、どうか白兎とお呼びください」
「では、そうさせていただきます。……とはいえ実は女性を呼び捨てにするのは慣れておらず、もし粗相があってもお許しくださいませ」
(この顔で女性に慣れていないとは……不老不死の妙薬よりも珍しく、女性の人気も高いのではないだろうか?まったく、宮廷にはとんでもない人間が沢山いると聞くけれど、こんな人間までいるとは……思ったよりもすごいところだ。)
蘭羽は照れたように笑うと、言葉を続けた。
「私はよくこの時間に散歩をするのです。宮中は昼間は忙しくて、静かに考え事をする時間がなくて」
「そうなのですか」
「えぇ。宮中は初めてでいらっしゃいますよね。何かお困りのことがあれば遠慮なく声をおかけください」
(何でそんなに親切にしてくれるんだろう……。)
「ありがとうございます」
「いえいえ。新しく来られた方はきっと不安も多いでしょうから。改めてよろしくお願いします、白兎さ――白兎」
はにかみながら名前を呼ぶ蘭羽に、これは女子がほっておかないだろうなぁと思いながらも、男のフリをしている自分には関係のないことだと白兎は頭を下げる。
「ところで、白兎は錬丹術をどのくらい学ばれたのですか」
「そうですね……。物心ついたころからそこにありましたので、幼い頃からずっと、でしょうか」
「となるとご家族に教わって?」
「はい。祖父に教わっていました」
「素晴らしいですね。私はそういう専門的な技術には疎くて。文字を書いたり書類を整理したりするのは得意なんですけど」
蘭羽は謙遜するように笑うが、文官といえば役人の中でもかなり重要な立場だ。
政に興味のない白兎でも、豊富な知識とそれを用いる技量が求められる文官という仕事の大変さは知っている。
「文官のお仕事も大変なのではないですか」
「えぇ、まあ。確かに忙しいですが、私には合っているようです」
蘭羽は夜空を見上げた。
「宮中は色々な人がいて、色々なことが起こります。でもそれぞれが自分の役割を果たしていればうまく回っていくものです」
その言葉には何か深い意味があるような気がして、白兎は蘭羽の横顔を見上げる。
(やはり掴みどころのない人だ……。)
白兎の視線を受けてか、蘭羽が彼女の方を向く。
「白兎」
「はい」
「そろそろお戻りになった方がよろしいのでは。夜も更けましたし、明日もお忙しいでしょうから」
「そうですね」
「私は夜、こうして散歩しておりますので。また近いうちにお会いできたら嬉しいです」
「……えぇ。また偶然に会えたらその時に」
そうして二人はそれぞれの部屋へと戻っていく。
後宮を抜け、自室に戻った白兎は扉を閉め錠をかけた。
「……いい人に見えたけど」
ぽつりと呟く白兎が思い出しているのは、月明りに照らされた天女のように美しい男だ。
蘭羽と名乗った男は優しく穏やかで話しやすかった。
でも、ここは後宮だ。誰のことも信じてはいけない。
あの掴みどころのなさも、欲望の渦巻く宮中をうまく乗り切っている証拠だ。
白兎は服を脱ぐと、胸に巻いていたさらしを取る。
押し潰されていた胸が柔らかに溢れると息苦しさが消え、白兎はほぉと息を吐いた。
「……まだ宮廷に来て二日目なのに色々あったな。……でも、がんばらないと。よ~し、がんばるぞ~」
自分に言い聞かせるように言って、白兎はようやく本当の自分に戻れた。
そして寝間着に着替えて布団に入り、窓の外に浮かぶ月を見上げる。
「おやすみなさい、師匠」
そうして白兎は眠りについた。




