第2話 凍える夜の真実
翌朝、白兎は尚薬局を訪れた。
楚大人は五十代ほどの厳格そうな男で、白兎が部屋に入ると冷ややかな視線を向けてくる。
「白兎とやらか。玄真道人の孫だそうだな」
「はい、楚大人」
白兎は深く礼をする。
「錬丹術などという怪しげなものに陛下が興味を持たれるとは嘆かわしい。我々は正統な医学に基づいた医療を行っている。山奥の術師ごときが、宮廷の医療に口を挟まぬように」
明らかな敵意を向けられ心の内では困惑するも、白兎は面には出さずに頭を下げたまま答えた。
「心得ております」
「それから」
(まだ続けるのか……。)
内心辟易する白兎になど気づかず、楚大人が付け加える。
「お前は内廷薬房に配属されたが、後宮への立ち入りは厳禁だ。もし皇貴妃様や妃嬪方からお声がかかったとしても、必ず私に報告をすること。分かったな」
「はい、もちろんでございます」
面倒な男相手に何かを言うつもりもなく、目立たず過ごしたい白兎としては全面的に従う所存だ。
尚薬局を後にし部屋に戻る途中、白兎は後宮の建物を眺めた。
(……豪奢な建物だな。出入口が二つあると言うけれど、実際には入る門と出る門が分かれている。一方通行だ。一度入ったらそこからは出られない……まるで囲いのようにも思える。)
近づけ、と言われてもできれば近づきたくない場所である。
何より本来の性別を隠している身としては、女の園に足を踏み入れた瞬間に目ざとい者たちにバレやしないかと心配でしょうがない。
(……近づきたくないな。)
だが、何故かそう遠くない内にあの門から入らねばならないような気がして、妙な胸騒ぎに白兎は頭を小さく振った。
その夜、白兎は作業場で道具を整理していた。
炉、坩堝、各種の鉱石。全て宮廷が用意してくれたものだが、使い慣れた自分の道具の方が良かったと少し後悔する。
(今からでも師匠に送ってもらおうか。いや……それも無礼か。)
そんなことを考えながら試しに何か作ろうかと悩んでいると、不意に扉を強く叩かれた。
ドンッ、ドンッ、と木製の扉が軋む音を立てる。
「白兎様、おられますか!」
扉を開けると若い内侍が息を切らして立っていた。
「こんな夜更けにどうされました?」
「皇貴妃様がお呼びです。今すぐ凝翠宮へ」
「皇貴妃様が?」
白兎は驚いた。
皇貴妃と言えば、皇帝の妃嬪の中で最も皇后に近い実力者だ。
(まだ宮廷に来て二日目だというのに、何故後宮でも最高位の妃嬪が自分を――?)
「しかし、私は男です。後宮への立ち入りは――」
「緊急事態です!楚大人にはすでに伝えてあります。皇貴妃様のお呼びを無視なさるのですか?」
「いえ、そんなことは……!」
「さぁ、早く!許可は取ってあります故!治療のできるものをお持ちになってください」
二の句を許さない内侍の切迫した様子に白兎は生唾を飲み込み、言われるがまま薬箱を手に取って彼の後を追うことにした。
月明かりだけが長い廊下を照らす後宮は、昼間見た時よりもずっと静かだった。
凝翠宮に到着するとひとりでに扉が開き、侍女に囲まれた美しい女性に出迎えられる。
二十代後半くらいだろうか。豪華な衣装を身にまとい、切れ長の冷たい目で白兎を見つめている。
柳皇貴妃だ。
そして、その足元には若い侍女が倒れていた。
(なるほど、それで急いでいたのか……。しかし私を呼んだということは楚大人では治せなかった、ということだろう。)
柳皇貴妃の目は冷たい。睨まれているわけではないのに、そのどこまでも青い瞳で見つめられると背中を冷たいものが伝うような気がする。美しい見た目に隠された末恐ろしさはまるで青竜花のようだ。
これは下手なことはできないぞ、と白兎は唾を飲み込んだ。
「この娘が急に倒れた」
柳皇貴妃がどこまでも静かな声で言う。
「毒を盛られたのか、病なのか。そなたが見極めよ」
(無茶を言うな……。だけど、ここでできませんなんて言えない、か。)
白兎は侍女に近づく。
息はまだある。だが顔色が悪く、呼吸が浅い。このまま放っておけば近いうちに死ぬだろう。
「楚大人は何と?」
「……賢いな。その通り、既にあやつには診せている。だが原因が分からないようだ。そこでそなたのことを思い出した。宿場町で毒を見抜いたそうだな」
(なんて耳が早いんだ。皇貴妃ともなれば都周りの話はすべて筒抜け、か。)
宮中お抱えの医師が匙を投げたことを何とかしろとは中々に無茶なことを言う。
だが、何とかしなければ後はない――。それを確信させるように、背後から柳皇貴妃の冷たい声が突き刺さる。
「もし見誤れば……わかっているな?」
「……はい」
白兎は深呼吸をした。
これが、宮廷での最初の試練だ。
白兎は侍女の側に膝をつき注意深く観察を始めた。
顔色は青白く、唇が紫色に変色している。呼吸は浅く、その体に触れてみれば手足が冷たい。
「……まるで凍らせたようですね。この方は元々体温が低い方ですか?」
「いや、むしろ高い方だ。私の手が冷たいと、よくその手で温めてくれた」
「仲がよろしいのですね」
「あぁ。侍女たちは皆大切だが、その子は特に特別だ。実家にいた頃からとてもよくしてくれた」
「そうですか。……それは必ずお救いせねばなりませんね」
「その通りだ」
きっと、藁にも縋る想いなのだろう。
だから皇貴妃という立場にも関わらず、世間では未だ怪しいと言われる錬丹術師になど頼っているのかもしれない。
(これは……自己保身と同時に、普通に助けて差し上げたくなってしまった。)
白兎はそう思いながら柳皇貴妃に尋ねる。
「いつから具合が悪くなったのですか」
「一刻ほど前だ。突然寒気を訴えて倒れた」
「それまでは普通だったということですね」
「ああ。この部屋で茶を淹れていた」
白兎は侍女の手を裏返してその平を見つめる。
指先が異様に冷たい。まるで氷のようだ。だが炉には火が入り、この部屋は十分に暖められている。
「何か食べたり飲んだりしていましたか」
「淹れた茶を一杯飲んだだけだ」
「それだけですね」
「私に黙って勝手に飲み食いするような子ではない」
柳皇貴妃には自信があるようだ。
白兎はその言葉を信じて部屋を見回す。
(この場合一番考えられることはお茶に毒が盛られていたことだけど――……あった。)
テーブルの上置かれた茶器を見つけ、白兎はそれ手に取る。中を確認すればまだ少し茶が残っていた。
匂いを嗅ぐと普通の茶の香りがする。だがその中に、微かに別の何かが混じっているような気がした。
(やはり毒か……?)
白兎は茶を少量、指先に取って舐めた。
苦い。そして、舌が僅かに痺れる感覚がする。
「これは……」
白兎は茶器を更に詳しく調べた。
茶碗の内側に僅かに白い粉が付着している。
「毒か」
柳皇貴妃の鋭い声が白兎に問いかける。
「はい。ですが普通の毒ではありません」
「普通の毒ではない?」
「毒は必ずしも毒としてだけ存在しているわけではありません。時には薬になり、時には便利な道具となり――」
白兎は立ち上がった。
「そしてこの毒は、硝石です」
「硝石?」
柳皇貴妃が眉をひそめる。
「それは火薬の材料だろう」
「その通りです。硝石は主に火薬として用いられます。窒素も多く含むのでまれに肥料として使っている農村もあるそうですよ」
「それがどうした」
「万物は色んな側面を持ち合わせます。我々錬丹術師はそれらを利用していて――つまり、錬丹術では硝石は別の使い方をするのです」
「というと?」
白兎は茶器を手にしたまま再び侍女の横に座り込む。
「まるで凍ったように冷たい手足に、独特の風味。私がこれを舌の上に乗せると、唾液に反応してピリッと痺れるような冷たさが襲ってきました。実は硝石には吸熱反応があるのです」
「吸熱……?……まさか、水に反応して熱を吸うのか」
「ご名答」
(さすが皇貴妃、学が高いな。本の虫だと噂される皇帝に気に入られるだけある。)
「硝石を水に溶かすと水の温度が急激に下がります。恐らくこの茶に硝石が混入していたため、彼女が飲んだ瞬間体内で急速に熱が奪われ、低体温症に陥ったのでしょう」
「……硝石に体温を体の内側から奪われたのか」
「はい。硝石自体の毒性は比較的低いですが、大量に摂取すると体内の熱を奪いこのような症状を引き起こします。放置すれば凍死と同じ状態になってしまうのですが――」
(いけない、心配になったか。皇貴妃の表情が厳しくなってしまった。)
「ご安心ください。すぐに体を温めれば大丈夫です。湯たんぽ、毛布、そして温かい飲み物を用意してください」
「皆、すぐに準備を!」
柳皇貴妃の指示で侍女たちが急いで準備を始める。
白兎は薬箱から生姜と桂皮を取り出し、侍女にもらった湯でそれを煎じた。
(よし、外側から体を温めたおかげで少しだけ意識が戻ってきたな。)
「生姜と桂皮です。いずれも体を温めてくれますから、これを少しずつ飲んでください」
「あ……」
「……すみません、失礼します」
現在は男であると偽っている自分が侍女の体を抱くなどどうかと悩んだが、背に腹は代えなれない。
うまく体を動かせない様子の侍女の体を支え、煎じ湯を少しずつ飲ませていく。
「……ほお。顔色がよくなってきたな。呼吸も安定し始めた」
「えぇ。ただ、ししばらくは安静が必要ですよ」
柳皇貴妃は深く息をついた。
「よくやった、白兎」
しかし、言葉とは裏腹に柳皇貴妃の視線は鋭いままだ。
「一つ疑問が残る。この硝石は誰が混入したのだ」
「それは……」
検討はついている。しかし慎重に言葉を選ばなければと、少しの間の後に白兎は口を開いた。
「茶を淹れたのは彼女自身、そうでしたね」
「あぁ、その通りだ。……まさか自分で毒を盛ったと?」
「いえ。恐らく気づかずに混入してしまったのでしょう」
白兎は再び立ち上がり、茶器の保管場所を確認する。棚の奥に様々な茶葉が並んでおり、その隣には小さな陶器の壺があった。
中身を確認すれば白い粉があり、一つまみして指先で擦り合わせればほんの少しザラついた感触を覚える。
「これは何ですか」
「砂糖だ。茶に入れることもある」
(砂糖……。もしこれが本当に砂糖なら大した贅沢だが、これは……。)
白兎は首を横に振る。
「これは砂糖ではありません。硝石です」
部屋の空気が凍りついた。
「誰かが砂糖の壺に硝石を入れ替えたのです。侍女は気づかずにそれを茶に入れてしまったのでしょう」
「では、これは……」
「故意によるものかと。そして、恐らく標的はこの侍女ではなく――」
(いや、これ以上は言わない方がいい。余計なことには巻き込まれたくない。)
言葉を飲み込んだ白兎を柳皇貴妃がじっと見つめている。
命令をすればその先を言わすこともできたが、柳皇貴妃はそうはせずに静かに立ち上がった。
「そなた、名は白兎と言ったな」
「はい」
「あの子を救ってくれたこと、感謝する」
「もったいないお言葉です」
「錬丹術など遊びの延長戦上にある――そう侮っていたが、考えを改めよう。錬丹術は役に立つし、お前は賢い」
(……待って、なんだか嫌な予感が……。)
よく分からない怖気にぶるっと体を震わせる白兎に、柳皇貴妃がゆっくりと近づく。
「この件は口外するな。褒美が欲しいのであれば私が直々にやる」
「いえ、そんな……何も要りませんのでお気になさらず」
「謙虚なやつだな。……しかし、何も言わぬというのも無理な話だろう。誰かに何かを尋ねられたらそなたは『自分がついた頃にはすべて解決していた』と言えばいい。楚大人のおかげということにしておけばそなたにも利があるだろう」
「そういたします」
「犯人は私が探す。そのためにも、白兎」
「…………はい」
(あぁ、いやだ。私はいい予感は当たったことがないのに、こういう嫌な予感だけは確実に当たるんだ。)
「私に協力しろ」
「……具体的には」
「私が呼べばすぐに参じ、私が命を下せばただちに動け。そなたの錬丹の知識と観察眼はとても有用だ。気に入ったぞ」
男の身でありながら皇貴妃に呼び出され後宮に頻繁に出入りしている――など、あまりにも目立つ行動だ。
断りたい。無性に断りたい、が、そのような立場に白兎はなかった。
白兎は深く頭を下げる。
「かしこまりました……」
「では戻ってよい。この子の後のことは私が面倒を見る」
「……失礼します」
そうして見事事件を解決した白兎は凝翠宮を後にした。




