悪魔のぼやき
その声は、深く渋みのある男の声だった。だが、声の主を探そうにもどこにも姿は見当たらない。代わりに現れたのは、紅い鈴を首につけた子ヤギが一頭。ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
全員が本能的に身構えた。この子ヤギの発する雰囲気は動物のそれではなかったからだ。まるで明確な意図があるかのように、こちらに一歩ずつ一歩ずつ、静かに歩いてくる。絶妙な間合いまで近づいてきたところで、子ヤギはその歩みを止め、首輪の鈴がカランとなった。
「麗しい家族愛だ。ここに倒れている者達は皆戦いに秀でた者達だというのに、君たちには歯が立たなかったようだね。やはり、子悪魔が憑いた程度では君たちには敵わないか」
子ヤギは澱みなく落ち着いた声で私たちに語りかけてくる。
「喋るヤギなんてはじめてお目にかかるけれど、あなた何者?」
「おっと失礼、自己紹介が遅れたな。といっても、私自身に名前なんてものはないのだが、人間には長いこと“悪魔”と呼ばれているよ」
一同、ざわめく。悪魔がどうしてここにいる?神仏の結界でこの国には入ってこれないはずじゃなかったの?
「そんな馬鹿なことがありますか!悪魔が神仏の結界を超えたなんて聞いたことがありません。神仏も決して悪魔の侵入を見逃さないはず。一体どうして・・・」
地蔵は混乱している。そりゃそうよね、天界の神仏への信頼が絶大な地蔵にとっては信じられない話だろうし。
「タネを明かせばなんてことはないさ。私は元々西洋で神として崇められていた存在だったのだよ。十字架を崇める連中が西洋を席巻してからは、私のような存在は彼らの教義の中で悪魔として列せられてしまった。つまり、私の本質は悪魔ではなく、神なのだよ」
「お、おぉ・・・。そんな事情があったなんて。って、これは失礼しました。遠い異国の神とは知らず、失礼な物言いをしてしまいまして」
「構わないさ。私はね、今日こうして君たちに出会えたことを大変嬉しく思っているのだよ」
実に紳士的な態度と話し方だ。可愛らしい子ヤギが壮年の紳士に見えてきてしまう。けれど、私はこのヤギの瞳に奥深くにある澱みのようなものがチラチラと見える気がして、理由はわからないがイライラしている自分に気がついた。
「一つ確認したいのだけれど、あなたは神と名乗っているけれど、人身売買をするような連中の船になんで乗っているのかしら?あなたを“悪魔”として崇め奉るような連中の船に。聞けば、連中は悪魔を崇拝して儀式と称し、攫った子供に酷いことをしているらしいけど、それはあなたの指図なのかしら?」
私のイライラの原因はこれだ。今、目の前にいる存在こそカスミを攫った悪魔を信奉する悪党どもをけしかけた元凶である可能性があるからだ。返答次第ではこいつもタダでは済ましてはいけない。
子ヤギは目を細め、ほくそ笑んだ、ように見えた。
「もっともな疑問だ。お嬢さんの問いにお答えしよう。結論から言えば、確かにここにいる連中は私を悪魔として崇めて生贄を差し出している」
「ほ〜・・・。それで?」
私は金棒を強く握りしめる。返答次第によっては、いつでも頭に金棒を振り下ろせるように。
「まったく、困ったものだよ。そんなことはやめろといっても、彼らは聞く耳を持たない。生贄なんて私はこれっぽっちも望んでなんかいやしないのに」
「えっ?」
「あれは彼らが勝手にやっていることだよ。いわば自己満だ。どれだけ私が拒んでも、彼らは単に私が奥ゆかしいからだと生贄を差し出すのを辞めないのだよ。いくら私が彼らに知恵を与えたからといって、あんな酷いことをするとは、私も予想だにしなかった」
「知恵って、それは一体なんの知恵なの?」
「それは君達も知っているのではないか?若返りの秘術だよ」
私は反射的に金棒を振るい、子ヤギの頭目掛けありったけの力を込めて振り下ろした。だが、頭蓋に当たる寸前で私の金棒は激しい衝突音と共に弾かれた。まるで分厚い金属を殴ったような感覚。これは結界か?
「この元凶が!お前のせいでカスミがその儀式の犠牲になりそうなんだぞ!なんてことをしてくれた!」
「ふむ、まぁ怒るのも道理だ。しかし、私の立場も考えてみて欲しいところだがね。どれ、あの少女の元へ案内するので、道中私の昔話に付き合ってくれないか?無駄な戦闘は避けられるし、最短距離をいける。悪い話ではないと思うが?」
イライラする私の後ろで、地蔵が私の手にそっとタバコを握らせた。
「ツバキさん、ひとまず落ち着いて。この子ヤギが言っていることは嘘ではありません。それに、確かにあのヤギからは神の威光を感じます。神というのは本当です。だいぶか弱くなっているようですが」
地蔵の話を聞きつつ、子ヤギを見つめる。子ヤギはじっと私を見つめたまま微動だにしない。私はタバコに火をつけ、吸う。少しずつ煙に含まれた鎮静剤が体へと巡らしていく。冷静さは取り戻しつつあるが、やはりこいつは信用できない。提案を受け入れるべきか考えていると、子ヤギは踵を返し、トコトコと歩き出した。
「私が信用できないのなら、ついてこなくてもいい。一度だけ言う。私は嘘はつかない。なんせ、今の私は“悪魔”なのだから」
悪魔は嘘をつかない。これは本当のことだということは私にも分かる。妖の中にも人を誑かす者がいるが、嘘はつかない。嘘をつく行為自体が己の魂を毀損する行為でもあり、摂理に反することだからだ。その悪影響は計り知れない。この普遍的な事実を知らない人間はいとも容易く嘘をつき、死後傷ついた魂の浄化や癒しに多大な労苦を味わうことは神仏どもがその経典に書かせた通りだ。
なるほど、それならば信用できる。私たちは子ヤギの後を追い、船内を進んでいく。




