満月の下で
「ちょっと、なんで人の頭を撫でてんのよ」
「あっ、これは失敬。こういう時はそれが最適解かと思いまして」
確かに私は涙を見られたくないがために、この遮蔽物の無い根城の屋上で司の胸を借りたのは事実だ。だが、それは司に心を許したわけじゃない。隠れる場所がないから、致し方なく、一時的な緊急避難として胸を借りたに過ぎない。
にも関わらず、この男は胸を借りた私の頭を撫で回した。しかも下心なしに。これは万死に値する。でもまぁ、撫で方は優しかったし、嫌らしさもなかったから、そこはよしとしてやろう。
「私が今求めているのは慰めじゃない。問題の解決よ。鬼としての能力はあるのに、どうして戦いとなると弱体化してしまうのかしら」
「その理由には心当たりがあります。ひとまず、こちらへどうぞ」
司は屋上の隅に置いておいた荷物を取り出し、私の前に広げた。ござを敷き、お茶とお菓子を広げ、私をもてなすつもりのようだ。男のくせにマメなことをする。
「今回の手合わせで確信したことがあります。あまり上手く表現できませんが、あなたの力の性質が、以前とは違っているように思います。なんというか、禍々しさがなくなっているというか、そんな感じです」
司が魔法瓶に入れたお茶をお椀に入れ、私に差し出す。暖かい湯気が私の顔を湿らせる。ひとまず、私たちはござへと腰を下ろし、茶を啜ることにした。考え事をするときには、ほっと一息つく余裕も大事だ。
「禍々しさ、か。そりゃ鬼だからね。この力だって体の内から迸る妖気が力の源。怒り、嫉み、後悔、憤怒、様々な負の感情を源泉として、私達、妖の力として顕現しているのよ。ってことは、私はその妖力の性質が変わったってことになるの?」
「もっと根本から変化しているようにも思えます」
「それはどういうことかしら?」
「ここ数ヶ月のうちにツバキさんからはピリつきや刺々しさが日々消えていくのがわかります。これはカスミちゃんの影響でしょうね。失礼かもしれませんが、俺にはもうツバキさんが優しいお母さんにしか見えないんです。負の感情が即ち鬼としての攻撃力に直結しているのなら、得心がいきます。ツバキさんはもはや、妖気を纏えていない。むしろ、いうならば慈愛。ツバキさんからは、慈しみを感じます」
そんなことがあり得るのだろうか?鬼が妖気を纏えない?ならばなぜ私は鬼としてまだ存在できている?それに、慈愛?さんざ人間を葬り去ってきた私に?理解できない。
「待って、そんなはずはない。私は鬼だ。何人も惨たらしく人間を殺してきた。そんな私が慈愛を振り撒くようになって弱くなった?どんな頭してたらそんな分析になるのよ」
「あくまで、俺の憶測です。ですが、実際あなたは、俺に力ですら勝てない」
何か言い返してやりたかったが、言葉を飲み込む。確かに、それは事実で、今しがた身をもって理解したばかりだ。でも、これが本当の話だとしたら、私はどうやってカスミを守ればいい?まるで見えない壁に押しつぶされそうな気分だ。胸が苦しくなっていく。
「これは、参考になるかわかりませんが、神仏に倣うのはどうでしょうか?」
「おっと、それは私が神仏嫌いを知っての言葉かしら?」
「背に腹はかえられんでしょうに。昔、参加した刑部の戦闘訓練で、戦闘指南役として天部の一尊が派遣されてきたことがあります」
「あんた、すごいの相手に訓練してるわね」
「さすがに手も足も出ませんでしたよ。ただ単に武芸を極めているだけではありません。特筆すべきは、その力の根源。鬼みたいに強面な顔に反して、あの天部は慈愛の心に満ちていました。妖気の対極とも言える力ですが、今のツバキさんから感じる力は、あの天部に似ています」
「冗談やめてよ。あなた、まさか私が鬼から仏になったとでも言いたげね」
「実際、あなたから感じる力は仏に近い。ここ数ヶ月のあなたから感じる力の変化は、負から正へと転換されたものの、その力の使い方に慣れていない、という風に捉えることもできるのではないでしょうか」
「そうだとしても、なんだか癪に障る話には違いないわ。こんな私が、仏みたいな清い力を使うようになったなんて、信じられるわけないじゃない」
そうだ、私は鬼だ。自分の子供を飢えたからといって喰った私に、そんな力が使えるわけがない。使えていいはずがない。私は、地獄に落ちて然るべき罪を犯したのだから。だが、珍しく司は食い下がった。頑なに司の考えを受け入れない私に、さらに言葉を続ける。
「そんなことはありません。あなたの日頃の行いは罪や罰とは程遠い。それどころか、皆の光明ですらあります。なぜそれが分からないんですか?カスミちゃんだけじゃない、ボタンさんやお地蔵様、それに水天坊や俺だって・・・」
最後の言葉に言い淀む司は顔を赤くしている。まったく、いい歳した男が、これでは恋に浮かれる男子中学生みたいじゃない。
「ねぇ、思ったんだけど、あの果し状って、あなたなりのラブレターだったりする?」
「いや、それは、その・・・。まぁ、二人だけで話したかったのは、間違いありません・・・」
あらま、予想に反して簡単に認めたわね。お可愛いこと。可愛くても、いただけないことが一つある。このござだ。
「司はヨタカという遊女達のことを知っているかしら?そば一杯の値段で体を売り、夜に生き、命を繋いだ女達のことを」
「聞いたことはありますが・・・」
「私がヨタカなのは知っているわよね。こうしてござに誘い込んだのも、何か思惑があってのことかしら?」
「まさか、そんなつもりは毛頭ありません!」
「必死で否定しちゃって。可愛いところあるじゃない。じゃあ、質問。あなたが私を買うとしたら、一体いくらで買ってくれるのかしら?」
赤い顔を伏せたまま、押し黙ってしまった司の顔を見て、溜飲が下がっていく。そう、これはただの意趣返し。図星を突いてきた司への嫌がらせだ。私も内心は司の予測が当たっているのだと思う。自分のことは自分が一番知っている。問題なのは、自分の本心に気がついても、認めることができていなことだ。だからこうして八つ当たりをしている。
「だから、そういう問答はやめましょうよ・・・」
「そば一杯の値段で相手をしてあげるというのに、こんなチャンスをみすみす逃すわけ?」
「だから、そういうことは言わないでください!」
司はガッと私の手を両手で握り上げ、胸元へと寄せる。
「俺にとっては、こうしてあなたの手を取るだけでも値千金なんです。そんな自分を卑下するようなことは言わないでください」
「あっ、はい・・・」
優しく、けれど強く私の手を握りながら、司はまっすぐに私の目を見ていた。赤らんだ顔、潤んだ瞳。彼の言葉は本心から出たと悟り、私もまた顔が赤らみ、胸の鼓動が早くなる。気がつけば、手を振り払い、私は駆け出していた。
「ごめんなさい、続きは今度で。今日はありがとう!」
続きはって、一体私は何をしようとしているのか。キョトンとする司を屋上に残し、私は階段を駆け降りていく。根城へ戻ると、ボタンと地蔵がリビングスペースでお茶を飲みながら談笑していた。
「おやぁ?ツバキ姉、お早いお帰りで」
「果し合いはいかがでしたか?」
「いいからこっち来て私の話を聞きなさい!」
呑気に尋ねてくる二人の腕をとり、私は強引に風呂へと連れ込む。広い湯船に三人で浸かりながら、私は先ほどの果し合いの顛末を二人に伝えた。生温かい目で見守りながら私を見つめる二人は、何か含みのある笑みを絶えず浮かべていたが、それを指摘する余裕もないままに、混乱する思考と感情をなんとか鎮めようと、滝の如く言葉を二人に浴びせ続けるのだった。




