ドラゴンの憂鬱(続き)
数日間、マグヌスは毎日白亜館を訪れ、ダニエルとのセッションを続けた。薬草の効果もあり、ドラゴンの睡眠は少しずつ改善していた。しかし、心の中の完璧主義との戦いは続いていた。
ある日、ダニエルは新しいアプローチを試みた。彼はエルネにも同席するよう頼んだ。
「エルネ、あなたも完璧を求めるあまり苦しんでいることをマグヌスに話してもいいかな?」
エルネは少し驚いたが、うなずいた。「はい...もしそれがお役に立つなら」
彼女はドラゴンに向き合い、自分の強迫的な確認行動や、失敗への恐怖について率直に語った。小さな人間が、巨大なドラゴンに対して自分の弱さを打ち明けるという奇妙な光景だった。
マグヌスはじっと聞いていた。「私と同じような...」彼は静かに言った。
「はい」エルネは少し恥ずかしそうに答えた。「先生に教えていただいているのは、完璧を目指すことは良いことだけれど、完璧でなければ価値がないと考えることは違うということです」
「そして」ダニエルが続けた。「エルネは少しずつ進歩しています。例えば、薬草の計量を一度で済ませる練習をしたり、少しの不確実性を受け入れる訓練をしたり」
マグヌスは感心したように頭を傾けた。「人間の体は小さく、寿命も短い。それでもそのような挑戦を...」
「重要なのは体の大きさや寿命の長さではなく、心の柔軟さです」ダニエルは言った。「マグヌスさん、あなたも同じように、少しずつ不完全さを受け入れる練習をしていきましょう」
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七日目には、新しい実験を行った。
「今日は、あなたの守護任務中に短い休息を取る練習をしてみましょう」ダニエルは提案した。「完璧な警戒を保つためには、適切な休息も必要なのです」
マグヌスは躊躇した。「もし休息中に何かあれば...」
「それが『完璧でなければならない』という思い込みです」ダニエルは指摘した。「現実的には、短い休息を取ることで、その後の警戒がより効果的になる可能性が高いのです」
「人間の騎士たちも交代で休息を取りますね」エマが付け加えた。「それは怠慢ではなく、長時間の任務のための戦略です」
マグヌスはしばらく考え込み、ようやく同意した。「試してみよう...」
その日、彼らはスカイロード峠までマグヌスに同行した。ドラゴンが見張りを始めると、ダニエルたちは周囲に簡易の休息場所を設置した。
「二時間ごとに十五分の休息」ダニエルは提案した。「その間は私たちが見張りを担当します」
最初の休息時間、マグヌスは明らかに落ち着かない様子だった。しかし、三回目の休息では、彼はかなりリラックスして短い仮眠を取ることができた。
「気分はどうですか?」休息後、ダニエルが尋ねた。
「驚くべきことに...より鋭敏になっている気がする」マグヌスは認めた。「疲労が少なく、感覚が冴えている」
「これが『不完全』であることの利点です」ダニエルは微笑んだ。「時に、完璧を追求することが、かえって目的達成を妨げることがあるのです」
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二週間が経過し、マグヌスの状態は徐々に改善していた。夜間の睡眠は安定し、日中の疲労感も減少した。しかし、ある日のセッションで、ドラゴンは新たな懸念を口にした。
「認知行動療法、面白いとは思う。けれど、私は頭が良すぎるせいか、理屈をこね回そうと思えば、どんな言葉でもそれらしい正当性を見いだせてしまう。どの理論も"まやかし"に過ぎぬのではないか、と感じてしまうのだ」
ダニエルはこの洞察に感心した。確かに、特に知性の高い患者は時に治療の「知的化」という罠に陥ることがある。理論を理解しても、感情的な変化には至らないのだ。
「あなたの懸念はもっともです」彼は率直に認めた。「論理だけでは感情は変わりません。認知療法にはそういった限界もあります」
「ではどうすれば?」マグヌスは静かに尋ねた。
ダニエルはしばらく考え、新しいアプローチを提案した。「『マインドフルネス』という方法を試してみましょう。これは思考を変えるのではなく、思考に対する関係性を変える方法です」
「どういう意味だ?」
「あなたの考えや感情を、判断せずに観察することです」ダニエルは説明した。「『これは良い考えだ』『これは悪い考えだ』と評価するのではなく、ただ『今、こういう考えがある』と認識するのです」
ドラゴンは興味を示したが、半信半疑だった。
「実践してみましょう」ダニエルは提案した。「まず楽な姿勢で、呼吸に意識を向けてください」
マグヌスは巨大な身体をゆるゆると伸ばし、広間に敷かれた厚手の絨毯の上で寝そべった。ダニエルはその横に座り、「まずは楽な呼吸から始めましょう」と声をかけた。
ドラゴンの呼吸はゆったりと深く、少し熱を帯びた吐息が広間に広がる。
「身体が重い...気持ちも重い...でも、それを否定しないで眺める、というわけか」マグヌスは静かに言った。
「そうです。苦しい気持ちを『なくそう』とするのではなく、『あ、苦しいんだな』と認めるだけでいいんです」
マグヌスはしばらく黙った後、不思議そうに首をかしげた。「...これだけで、何が変わるのだろう?」
ダニエルは柔らかく微笑んだ。「実感はすぐには得られないかもしれません。ですが、苦しみを否定するために使っていた力を、ほかのことに回す余裕が生まれてくるかもしれない。そしていつか、自分を責める衝動が少しずつ弱まっていくはずです」
数週間の治療を経て、マグヌスの状態は大きく改善した。睡眠の質は安定し、日中の機能も回復してきた。完璧主義的な思考は完全には消えていないものの、それを相対化して見ることができるようになっていた。
「シェパード医師、あなたの治療に感謝します」ある日、マグヌスは診療所を訪れて言った。「私の守護能力は回復し、古竜評議会もそれを認めてくれた。守護領域も元に戻ることになった」
「それは素晴らしいニュースです」ダニエルは心から喜んだ。
「しかし最も大きな変化は」ドラゴンは静かに続けた。「自分自身への見方だ。完璧でなくとも、私には価値がある。そして、時には休息を取ることで、より良い守護者になれるということを学んだ」
マグヌスが去った後、ダニエルは医学ノートに新しい章を書き加えた。
「完璧主義と憂うつ - ドラゴンの症例研究」
「完璧主義は、様々な生物に共通する心理的特性であり、それが極端になると心身の健康に悪影響を及ぼす。興味深いことに、人間よりもはるかに長い寿命と強大な力を持つドラゴンですら、これに苦しむことがある。」
「治療法としては、認知行動療法とマインドフルネスの組み合わせが効果的である。特に高い知性を持つ患者の場合、単なる思考の修正よりも、思考への関係性の変化に焦点を当てたアプローチが有効である。」
「また、心身の健康は密接に関連している。睡眠の改善が精神状態の回復を促し、精神状態の改善がさらに睡眠の質を高めるという好循環を生み出すことができる。」
「最後に、誰も完璧ではないという事実を受け入れることは、治療者自身にとっても重要な教訓である。我々医療従事者も完璧を目指しつつも、自らの限界を認識し、常に学び続ける姿勢が必要である。」
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ドラゴンの症例から学んだことは、エルネの治療にも活かされた。彼女もまた、少しずつ完璧主義の束縛から解放されつつあった。最初は一日に何十回も確認していた医療器具を、今では必要最小限の確認で済ませられるようになっていた。
ある日の診療後、エルネはダニエルに近づいてきた。
「先生、マグヌス様の治療から多くのことを学びました」彼女は静かに言った。「彼のような偉大な存在でさえ完璧ではないのだと知り、自分も少し楽になりました」
ダニエルは微笑んだ。「君とマグヌスは、とても似ているよ。二人とも高い能力を持ち、責任感が強く、そして自分自身に厳しい」
「違いは、彼は何百年も生きていて、私はまだ若いということですね」エルネは少し照れながら言った。
「そう、だからこそ君には大きな可能性がある」ダニエルは真剣な表情で言った。「若いうちにこの教訓を学べば、より充実した人生を送れるだろう」
エルネは深く頷いた。「私、これからも努力します。完璧を目指しつつも、完璧でなくてもいいと思えるように」
「それこそが最も難しく、最も価値のある目標だよ」ダニエルは彼女の肩に手を置いた。「そして覚えておいて欲しいのは、この旅に終わりはないということ。私自身も日々、完璧主義との折り合いをつけようと努力しているんだ」
エルネは驚いたように見上げた。「先生も?」
「もちろん」ダニエルは苦笑した。「医師という職業は、特に完璧主義に陥りやすい。一つのミスが命取りになりうるからね。だが同時に、完璧を求めすぎると判断が鈍ったり、燃え尽きたりする危険もある」
「医学ノートに記されていた『完璧な医療はなく、常に改善の余地がある』という言葉は...」
「私自身への戒めでもあるんだ」ダニエルは頷いた。「医療とは、永遠に完成しない芸術のようなものだ。我々にできるのは、今日より明日、少しでも良くなるよう努力することだけなんだよ」
エルネの目に決意の光が宿った。「先生、私もその道を歩みたいです」
その夜、ダニエルは医学ノートに最後の一節を追記した。
「完璧主義に悩む者への治療は、皮肉にも、治療者自身の完璧主義をも映し出す鏡となる。我々は患者に『完璧でなくても良い』と伝えながら、自らの治療に完璧を求めてしまうことがある。」
「真の癒しとは、患者と治療者が共に成長する過程にこそあるのかもしれない。エルネとマグヌス・ドラゴンの症例からの最大の学びは、完璧主義との戦いは、勝利を目指すものではなく、より良い関係を築くためのものだということだ。」
ペンを置き、ダニエルは窓から見える満月を眺めた。異世界に来て数ヶ月。彼はこの世界に少しずつ根を下ろし始めていた。そして白亜館は、単なる診療所としてだけでなく、心と体の総合的な癒しの場として、その姿を形作りつつあった。
翌朝、彼が診療所に向かうと、エルネはすでに準備を整えていた。しかし昨日までとは違い、彼女の動きには以前のような緊張感がなく、より自然な流れがあった。
「おはよう、エルネ」
「おはようございます、先生」彼女は明るく答えた。「今日は山岳地帯からドワーフの一団が診察に来るそうです。鍛冶職人たちで、何か奇妙な症状を訴えているとか」
「ドワーフか...」ダニエルは興味を持った。「どんな症状だろう?」
「詳しくはわかりませんが、ひとりは。『自分の身体は誰かが作り替えた偽物だ』と言っているらしいです」
ダニエルは眉を上げた。妄想的な症状、それも身体に関するものか。精神科医としての彼の専門分野に近いケースだ。
「興味深い...」彼は医学ノートを取り出した。「それでは、新たな症例への準備をしよう」
白亜館の扉が開き、朝の光が差し込んでくる。ドラゴンの憂うつを治療した経験は、彼らの医療チームに新たな自信をもたらしていた。今日もまた、異世界の医療の歴史に新たな一ページが加えられようとしていた。