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ドラゴンの憂鬱1

朝日が白亜館の大きな窓から差し込む早朝、ダニエルは診療の準備のために訪れると、すでにエルネが医療器具を整理していた。彼女は集中した様子で、包帯の束を一つずつ取り出しては数え、元に戻し、また数え直している。


「おはよう、エルネ」ダニエルは静かに声をかけた。


エルネははっとして振り向き、少し恥ずかしそうに微笑んだ。「あ、シェパード先生。おはようございます。少し早く来て準備を...」


「もう三度目の確認かな?」ダニエルは優しい口調で尋ねた。


エルネの表情が凍りついた。「気づいていたんですか...」


ダニエルは彼女の隣に腰掛けた。精神科医としての訓練が、彼にエルネの行動パターンの意味を教えていた。過剰な確認行動、完璧を求める姿勢、小さなミスに対する不釣り合いな不安。これらは強迫性障害の兆候かもしれない。


「前から少し気になっていたんだ」彼は率直に言った。「手洗いも他の誰よりも長く、処置の後の片付けも何度も確認している」


エルネは視線を落とした。「恥ずかしいことです。魔法使いには精度が求められますし、父も常に『ヴァレンティ家の者は完璧でなければならない』と...」


「エルネ」ダニエルは優しく言った。「私は精神科医でもあるんだ。心の働きについても専門なんだよ」


「心の...医者?」彼女は驚いた表情で見上げた。


「そう。そして君のような症状を持つ人をたくさん診てきた。必要以上に物事を確認したり、完璧を求めすぎたりする傾向をね」


エルネの目に涙が浮かんだ。「私、おかしいんでしょうか?」


「いいえ、決しておかしくない」ダニエルはしっかりと言った。「これは強迫性と呼ばれる心の状態で、多くの人が程度の差はあれ経験するものだよ」


「でも、私は治療師として...もし私のミスで患者が...」彼女の声が震えた。


「安全を確認するのは大切だ」ダニエルは同意した。「だが、時には『十分に良い』という判断も必要なんだ」


エルネは黙ってうつむいた。ダニエルは彼女の肩に軽く手を置いた。


「医学ノートに書いていなかったことがある」彼は静かに言った。「完璧な医療というものは存在しない。私たちができるのは、最善を尽くし、経験から学び、常に改善していくことだけなんだ」


エルネは驚いたように顔を上げた。


「完璧を目指すことは良いことだ」ダニエルは続けた。「だが、完璧でなければ価値がないというのは違う。失敗から学び、成長することこそが真の医療の姿なんだよ」


「先生...」エルネの声は小さかった。「私、いつも怖いんです。何かを見落とすことが...」


「それは理解できる」ダニエルはうなずいた。「だが、恐れに支配されると、かえって判断力が鈍る。バランスが大切なんだ」


彼は医学ノートを取り出し、新しいページを開いた。「今日から、君と一緒に取り組もう。『完璧主義との向き合い方』というテーマでね」


---


その日の午後、彼らは一つの実験を試みた。エルネが薬草を計量する際、ダニエルは彼女に一度だけ測るよう提案した。


「一度だけ...ですか?」震える手でエルネが天秤を見つめる。


「不安を感じるだろう。その不安と共にいることを練習するんだ」


「...わかりました」エルネは深呼吸をして天秤に向かった。


最初は難しかったが、少しずつ彼女は「適切な確認」と「過剰な確認」の違いを理解し始めた。ダニエルはこの過程を詳細に医学ノートに記録した。


「強迫的な考えや行動に対する治療の一つは、不安を感じつつもそれに屈しない練習をすることである。これを『曝露反応妨害法』と呼ぶ。患者は徐々に不安に対する耐性を獲得し、日常生活への支障が減少していく」


夕方、一日の診療を終えた後、エルネは少し疲れた様子ながらも安堵の表情を浮かべていた。


「先生、今日は...少し楽になりました」彼女はそっと告白した。「いつもなら、帰る前に全ての器具を三回確認するところでした」


「素晴らしい進歩だよ」ダニエルは笑顔で答えた。「明日はさらに良くなるだろう。そして覚えておいて欲しいのは、これは一日で治るものではないということ。小さな一歩の積み重ねなんだ」


エルネは深々と頭を下げた。「私の弱さに気づいてくださり、ありがとうございます」


「弱さではなく、個性だよ」ダニエルは優しく正した。「その細部への注意深さは、多くの場面で大きな強みになる。大切なのは、それに支配されないことだ」


二人が片付けを終えようとしたとき、突然、白亜館の外から騒がしい声が聞こえてきた。


「何事でしょう?」エルネが窓から外を覗きこんだ。


彼女の声が震えた。「先生...ド、ドラゴンです!」


---


白亜館の前の広場には、確かに一匹のドラゴンが横たわっていた。緑がかった鱗を持つ巨大な生き物は、翼を半ば畳み、疲れたような様子で地面に伏せていた。周囲には騎士たちが緊張した面持ちで警戒している。


ダニエルとエルネが外に出ると、ラーンが急いで近づいてきた。


「シェパード医師、この方はスカイロード峠の守護竜、マグヌスです」ラーンは緊張した様子で説明した。「王国との和平条約により、領土の一部を守護していただいている重要な存在です」


ドラゴンはゆっくりと大きな頭を持ち上げ、金色の瞳でダニエルをじっと見つめた。


「あなたが...異界から来た治療師か」低く響く声は、驚くほど明瞭だった。


「はい、ダニエル・シェパードです」彼は一歩前に出た。「何かお力になれることがあれば」


ドラゴンは長い溜息をついた。その息に乗って、かすかな炎の粒子が舞った。


「私は...完璧でなければ生きる価値がないのではないか、と感じている...」


ダニエルは驚きに目を見開いた。ドラゴンの言葉は、まるで彼の診察室でうつ病の患者が語るフレーズのようだった。


「お話を伺ってもよろしいでしょうか」ダニエルは冷静さを保ちながら言った。「できれば、もう少し静かな場所で」


マグヌスはしばらく沈黙した後、ゆっくりと頷いた。


---


白亜館の裏手には広い中庭があり、マグヌスのような大きな生き物でも横になれるスペースがあった。周囲の騎士たちは距離を取って警戒を続けていたが、ダニエルとエルネ、そしてエマは恐れることなくドラゴンに近づいた。


「まず、あなたが今感じている症状についてお聞かせください」ダニエルはプロフェッショナルな口調で尋ねた。


マグヌスはしばらく言葉を選ぶように沈黙し、それから静かに語り始めた。


「眠れない。眠ろうとすると、過去の失敗や不完全な決断が頭の中で回り続ける。そのせいで日中は疲労で力が出ず...時には守護の任務中に居眠りしそうになる」


ドラゴンは恥ずかしそうに顔を背けた。「偉大なドラゴンが任務中に居眠りなど...私は失格だ」


「睡眠の問題がどれくらい続いていますか?」ダニエルは冷静に質問を続けた。


「半年ほどだろうか」マグヌスは答えた。「古竜の評議会で、私の守護領域が縮小されて以来...」


「それについてどう感じましたか?」


「怒り、そして恥辱」ドラゴンの鼻孔から煙が漏れた。「私は何百年もあの峠を守ってきた。しかし、一度の失敗で...」


ドラゴンは語るのを躊躇った。


「一度の失敗?」ダニエルは優しく促した。


「私が目を離した隙に、盗賊の一団が通り抜けた。彼らは村を襲い...」マグヌスの声が沈んだ。「それ以来、私は自分を許せない。完璧な守護者でなければ、存在する価値がないのではないかと」


ダニエルはゆっくりとうなずいた。これは典型的なうつ状態だった。完璧主義に起因する自己価値感の低下、罪悪感、不眠、そして悪循環としての日中の機能低下。興味深いことに、ドラゴンもまた、エルネと同様の完璧主義の苦しみを抱えていた。


「私から見れば、これは『うつ状態』と呼ばれる症状です」ダニエルは静かに言った。


「うつ...?」マグヌスは不思議そうに首をかしげた。「それは病気なのか?」


「はい、治療が可能な状態です」ダニエルは確信を持って言った。「心と体は密接につながっています。心の苦しみが体の症状を引き起こし、それがさらに心の負担になるという循環が生じているのです」


ドラゴンは黙って彼の言葉を聞いていた。


「まず、睡眠の改善から始めましょう」ダニエルはエマに目配せした。「鎮静効果のある薬草はありますか?」


エマはうなずいた。「はい。バーレリアと呼ばれる薬草が、睡眠を促進する効果があります。ただ、ドラゴンの体格に合わせると...」


「通常の十倍量は必要でしょうね」ダニエルは考えながら言った。


「それなら」エルネが口を挟んだ。「魔法を使って薬草の効能を強化できるかもしれません。私の治癒魔法の応用です」


「素晴らしいアイデアだ」ダニエルは目を輝かせた。「薬物療法と魔法の組み合わせ...試す価値がある」


マグヌスは半信半疑の様子だった。「薬草が私のような存在に効くとは思えないが...」


「量と質の問題です」ダニエルは説明した。「そして、薬草は一時的な助けに過ぎません。並行して、思考パターンの改善にも取り組みましょう」


「思考パターン?」


「はい。『認知行動療法』と呼ばれる方法です」ダニエルは医学ノートを取り出した。「まず、あなたの思考の癖を見つめ直すことから始めます」


---


翌日、エマとエルネは大量のバーレリア薬草を調達し、エルネの魔法で効能を強化した特別な煎じ薬を準備した。ドラゴンは毎晩、自分の住処に戻る前にこれを飲むことに同意した。


同時に、ダニエルは認知行動療法の基本をマグヌスに教え始めた。


「あなたの中には、『完璧でなければ価値がない』という強い思い込みがあります」彼は説明した。「これを『認知の歪み』と呼びます。現実を正確に反映していない思考パターンです」


彼は地面に大きな図を描いた。


```

出来事 → 思考 → 感情 → 行動

```


「何か出来事が起きたとき、私たちはそれについて考え、その考えに基づいて感情が生まれ、それが行動に影響します。盗賊の一件で言えば...」


```

盗賊の通過 → "私は完全に失敗した" → 強い罪悪感 → 自分を責め、睡眠障害

```


「しかし、同じ出来事でも、違う考え方をすれば...」


```

盗賊の通過 → "完璧は不可能だが、教訓を得た" → 残念だが受容 → 改善への行動

```


マグヌスは黙ってこの図を見つめた。「しかし...私は本当に失敗したのだ」


「失敗したことは事実です」ダニエルは同意した。「問題なのは、その失敗を『私は無価値だ』という結論に結びつけることです。誰も完璧ではありません。何百年もの守護の中で、一度の失敗があったとしても、それはあなたの全体の価値を否定するものではないのです」


ドラゴンは沈黙の中で考え込んだ。


「試しに、あなたが他者に対してどう考えるか見てみましょう」ダニエルは新しい角度から提案した。「あなたに仕えるメイドがいて、彼女が時々お茶をこぼしたりするとします。あなたは彼女を無価値だと考えますか?」


「もちろん違う」マグヌスは即座に答えた。「彼女は若く、未熟だ。失敗することは...」


彼は自分の言葉に気づき、言葉を切った。


「あなたは他者に対して寛容です」ダニエルは優しく言った。「その優しさを自分自身にも向けてみてはどうでしょう?」


ドラゴンは少しばかり恥ずかしそうにうなった。「それは...彼女は私よりずっと未熟な存在だ。だが、不思議と許せてしまう。自分に対しては同じようには思えないが...」


「それが私たちの取り組むべき課題です」ダニエルは穏やかに言った。「自分自身に対しても、他者と同じ思いやりを持てるようになること」


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